十二国記シリーズ 図南の翼 小野不由美 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)漆黒《しっこく》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)漆黒《しっこく》の闇《やみ》だった。 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例) /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例) *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ (例) アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください http://aozora.gr.jp/accent_separation.html ------------------------------------------------------- [#表紙(img/ホワイトハート版表紙08.jpg)] [#表紙(img/講談社文庫版表紙08.jpg)] [#地図(img/地図1.jpg)] [#地図(img/地図3.jpg)] [#ページの左右中央]    図南の翼   十二国記 [#改ページ] 序 章  世界中央に位置する黄海《こうかい》。その四方を四つの広大な内海が取り巻いている。そのうち北方、黒海《こっかい》の上空に、黒点が現れたのは早朝のことだった。  黒海西方、恭国《きょうこく》の沿岸から飛び立った騎獣《きじゅう》の影は、春分間近の陽射しを受けて、ときおり銀に輝きながら、一路、南西に向かって空を疾走《しっそう》した。陰鬱《いんうつ》な色の海原《うなばら》の向こうには、淡く霞《かす》んで蜃気楼《しんきろう》のように壁が広がる。天と海の間、上端に刻みのある長大な屏風《へいふう》のようにして立ちふさがった、それが黄海を取り巻く金剛山《こんごうさん》だった。  その騎獣は、船をはるかに凌《しの》ぐ速度で海を越える。にもかかわらず、金剛山の岩肌は色を濃くするばかりで、いっかな近づく様子がなかった。いや、近づいてはいる。その証拠に山頂が徐々に高くなっていた。  騎獣はさらに疾走する。天空の陽は影の真上から西へと傾いていった。すでに金剛山は前方を完全に遮《さえぎ》っている。海から屹立《きつりつ》する千尋《せんじん》の岩肌、牙のようにして幾重《いくえ》にも突きだした峰は、垂直に近い断崖を作りつつ高く高くと連なりながら、巨大な山脈に収斂《しゅうれん》し、天に向かって駆け昇る。  その断崖の麓《ふもと》に、小さな砂州《さす》が見えた。騎獣《きじゅう》はその、金剛山《こんごうさん》に比べればほんの小さな凸部《とつぶ》にしか見えない砂州を目指し、大きくゆっくりと弧《こ》を描《えが》いて下降していった。近づくにつれ、それが砂州などではなく、広い土地なのだと分かる。さらに近づけば、金剛山に向かって傾斜した土地の海岸線が明らかになった。岸部の北には港がある。渋色《しぶいろ》の帆を揚《あ》げて、今しも船が入ろうとしていた。  さらに高度を下げ、港上空を滑空した獣《けもの》は、まっすぐ金剛山を目指す。田に小さな影を落とし、黒々とした土の上には濃い滲《し》みを落とす。梢《こずえ》が細かく芽吹き、霞《かすみ》でもかかったような山林をかすめ、閑散《かんさん》とした廬《むら》や、古びた里《まち》の空を撫《な》でて切り、ひとつ土地を抜けるたびに降下して、やがて最果ての街にたどり着いた。金剛山に連なる小さな峰の、その麓に広がるひとつの街。  街は四方を隔壁《かくへき》に囲まれ、金剛山に続く峰に寄り添うようにして広がっていた。門前へと向かう道はただひとすじ、そこでは傾いた陽射しに長い影を落としながら、旅姿《たびすがた》の人々が街へ向かって急ぎ足に流れている。そのうちの幾人《いくにん》かが頭上を振り仰いだ。上空から舞い降りた影に、ぎょっとしたように足を止め、あわてて前後左右に散る。そうしてできた間隙《かんげき》に、その騎獣《きじゅう》は降り立った。 「何だ、何だ」 「騎獣を降ろすなら、道でなく閑地《かんち》におし」  往来からは声が上がる。それに頓着《とんちゃく》したふうもなく、騎獣から一人の男が飛び降りた。三十を幾つか越えたその男は、周囲の人間には視線もくれず、その街の門に掲《かか》げられた扁額《へんがく》を見上げた。  ──乾城《けんじょう》とある。これがこの金剛山《こんごうざん》に砂州《さす》のように突出した土地、恭国《きょうこく》乾県《けんけん》の県城《けんじょう》である乾の街なのだった。  男はその扁額を一瞥《いちべつ》してから、軽く上体を反《そ》らして手足を伸ばした。それから騎獣の手綱《たづな》を取り、乾の街へと入っていく。人波でごった返す広途《おおどおり》を抜け、街の北西部にある舎館《やどや》のひとつに入っていった。 「いらっしゃいませ」  彼が舎館の古びた石造りの門をくぐると、門の脇で塵《ちり》を拾っていた子供が、澄んだ声を上げ、あわてたように駆け寄ってきた。彼はその子供の顔を見て、大きく破顔する。 「へえ、おまえ、小明《しょうめい》か」  だけど、と不審《ふしん》そうに言った子供に、彼は屈《かが》みこんだ。 「頑丘《がんきゅう》だ。覚えていないか? ずいぶん遊んでやったろう」 「頑丘おじさん?」 「そうだ。思い出したか?」 「ずいぶんいっぱい久しぶりだねえ」  少年はくしゃりと笑った。頑丘はその子供の額《ひたい》を親しみを込めてつつく。前に見たのは二年前だったか、当時で十歳、父親の家業を手伝ってあちこちの雑用をしていたが、まだ客の相手はしていなかった。 「ようやく門番に出世したか?」  揶揄《やゆ》って頑丘は子供に手綱《たづや》を渡す。 「じゃあ、門番殿にこいつをお任せしよう。──大切にな。絶対に他人を近寄らせるんじゃないぞ」 「分かってるって」  やんちゃそうに笑って、子供は頑丘から手綱を受け取った。ほんの少しおっかなびっくりの様子で強面《こわもて》の騎獣《きじゅう》を見上げる。 「前にもこんな騎獣だったっけ?」 「前のは死んだ。妖魔《ようま》にやられたんだ」  子供は頑丘《がんきゅう》を振り仰いだ。 「襲われたの? おじさんはだいじょうぶ?」 「ご覧の通り、なんとかな。──乾《けん》はどうだ。妖魔は出ないか」 「出るよ、たまにね」  子供の口調はそっけない。それはその事態をすでに諦《あきら》めているせいなのかもしれなかった。先王|崩御《ほうぎょ》から二十七年。国は勢いをつけて傾いている。乾はもともと妖魔に対する備えの厚い街だが、そこでさえ妖魔が出るというのだから、他の場所ではなおさらだろう。  子供は何かを忘れようとするように息を吐いて、自分が手綱《たづな》を取った騎獣《ぎじゅう》を見上げた。 「これ、なんていう騎獣?」  馬に似た妖獣だが、その鋭利《えいり》な一角と、蹄《ひづめ》のかわりの太い爪《つめ》が恐ろしげだ。頑丘は少年の手に小金を握らせ、騎獣の背に括《くく》った荷物を下ろす。 「駮《はく》だ」  頑丘は軽く騎獣の脇腹を叩《たた》き、そのついでに少年の頭も軽く叩いて、屋根ののった小さな院子《なかにわ》を抜け、建物に入った。ちょうど戸口を入ったところで見つけた男の背中に声をかける。 「泊まれるか?」  男は足下を見るように垂《た》れていた首を起こし、頑丘《がんきゅう》のほうを振り返って破顔した。その動きで、男の前に小汚い少女がいるのが見えた。手持ち無沙汰そうにしているのかと思ったが、どうやらその子の相手をしていたらしい。男は子供に顔を向け、頑丘に向かって大股《おおまた》に歩み寄ってきた。 「頑丘じゃないか。どうした、久しぶりだな」 「さほど久しぶりでもないだろう。──部屋はあるか?」 「おお、あるとも」  亭主は何が嬉《うれ》しいのか、満面に笑みを浮かべ、頑丘の手から荷物を受け取った。 「おいおい。言っておくが、そんなに良い部屋でなくていいんだぞ。とにかく寝られれば」 「そんなことは分かってるって。ちょうどこれが最後なんだ」 「そいつは助かった」  もっとも、春分が翌日に迫《せま》った乾《けん》の街なら、まあ、そんなものだろう。 「厩《うまや》に騎獣《きじゅう》を預けてあるんで、頼む」  分かった、と亭主がうなずいたところに、金切り声が割って入った。 「ちょっと、まってよ!」  亭主が先ほどまで相手をしていた子供だった。小汚い様子のその子供は、勝ち気そうな目で亭主をにらむ。 「あたしが先に部屋を頼んだのよ! あたしには貸せなくて、どうしてその人ならいいの!」  頑丘《がんきゅう》は驚いてその少女を見やり、亭主は呻《うめ》いて頭を抱えた。 「だから、お嬢ちゃん、悪い冗談はやめて、おっ母さんのとこに戻りな。宿はどこだい。送ってやるから」 「だから、冗談なんて言ってないわ。泊まりたいのよ。ここが舎館《やどや》なんじゃないの?」  怒りでだろう、白い頬《ほほ》が紅潮している。  ──面白いものを見た。  そう思いつつ、頑丘は亭主の腕を掴《つか》んで手の中に小金を握らせる。最後の部屋を失ってはたまらない。 「荷を入れておいてくれるか。俺は飯を食う」 「──ちょっと待ってよ!!」  子供は頑丘の顔をねめつけた。ねめつけるどこか、つかつかと頑丘のそばに寄ってきて、頑丘《がんきゅう》の姿を上下にながめる。 「横から割りこむなんて、恥ずかしくないの」  門番の子供と同じ歳の頃合いだろうか。頑丘は軽く笑った。 「割りこむも何も。──子供がひとりで舎館《やどや》に泊まろうなんてことを考える、お嬢ちゃんこそ、恥ずかしいと思ったほうが良かないか?」 「冗談じゃないわ。子供だろうと大人《おとな》だろうと客は客よ」 「じゃあ、客扱いしてくれる舎館を捜すんだな」 「あったら、とっくにそうしてるわよ!」  頑丘は失笑した。春分の近い乾《けん》は、それでなくても旅人でごった返す。春分の前日ともなれば、宿にあぶれる者さえいるのが当たり前だった。──だが、頑丘には寝場所にあぶれる気などない。 「ひとつ里《まち》を戻るんだな。あっちのほうが旅には便利だ」 「今から戻ったんじゃ、閉門に間に合わないわ! この夜空に野宿しろって言うの? ──そりゃあ、あたしは確かに子供だけど、その子供が泊まるとこがなくて困ってるのよ。おじさんは道端《みちばた》でだった寝られるでしょ。あたし、こんなにか弱いんだもの、野宿なんてしたら、凍死《とうし》しちゃうわ。そこを思いやって、譲ってやろうっていう優しさはないわけ?」 「あいにく、持ち合わせがない」 「そう。──慈悲《じひ》の持ち合わせも、割りこみをしちゃいけないっていう常識もないわけね」 「そのようだな」  少女は頑丘をにらみ、そうして腰に手を当てる。まるで聞き分けのない子供に言い聞かすように、頑丘に指を突きつけた。 「あんた、いったい何をしにここに来たの?」 「──は?」  乾《けん》は最果ての街だ。街道からさえ外《はず》れた、乾県の最奥。乾より先には黄海《こうかい》しかない。物見遊山《ものみゆさん》に来る物好きがまったくいないわけではないが、春分が近い乾に用があるのは、黄海に用のある者だけだ。 「それはこっちの言う科白《せりふ》なんだがな。お前みたいな子供がなんだって、こんな街に迷いこんだんだ? 道をまちがえたのか? 親はどうしたんだ、え?」 「迷いこんだつもりも、道をまちがえたつもりもないわ。ここは乾でしょ。──親なら連檣《れんしょう》にいるわ」  頑丘《がんきゅう》は目を丸くした。おろおろと成り行きを見守っていた亭主もまた、驚いたように声を上げて目を見張った。 「連檣《れんしょう》──? そこが家か?」 「そうよ。あたしは連檣からはるばるやってきたの。この何日か、死ぬ思いをしてやっと乾《けん》にたどりついたのよ。なのに、泊まる場所がないなんて、ひどいと思わない?」 「まさか、ずっとひとりで来たわけじゃないんだろう? 連れは?」 「いないわ。あたしひとりよ」  子供はきっぱりと言ったが、頑丘は呆然《ぼうぜん》としてしまった。連檣といえば、この恭国《きょうこく》の首都だ。乾までは街道を歩き、船を使って二月近くがかかる。子供の足なら二月ではきかないだろう。 「嬢ちゃんが? 連れもなしに、連檣からここまで、ひとりでか?」 「そうよ。感心して宿を譲る気になった?」  頑丘は呆《あき》れた。この子供が、手を引いてくれる大人《おとな》の庇護《ひご》もなく、頑丘でさえうんざりするような長大な距離をひとりで来たというのだろうか。 「……いったい、なんだって、こんなところまで」  少女は目を上げた。頑丘を見た眼差しには、軽蔑《けいべつ》の色が露《あらわ》だった。 「そんなの、決まってるじゃない。単に旅の途中で寄るのなら、街道に面した里《まち》を選ぶわ」 「決まってるって」 「──もちろんあたし、蓬山《ほうざん》に行くのよ」  頑丘《がんきゅう》はもちん、亭主もあんぐりと口を開けた。 「昇山《しょうざん》するの。蓬山には供麒《きょうき》がいるんだもの」 「ちょっと待てよ、おい……」  昇山する? 「……お前がか?」 「あら、子供が昇山しちゃいけないって法でもあるの?」  ない。少なくとも頑丘は聞いたことがない。それは確かだ。だが。 「いくらなんでも、無茶苦茶だ……」 「どうして? 国の大人《おとな》が王の器《うつわ》なら、とっくに玉座《ぎょくざ》は埋まってるわ。だからあたしが行くの」  言って少女は、頑丘をさらに軽蔑《けいべつ》も露《あらわ》に見る。 「そう言うあんただって、乾《けん》にいるってことは黄海《こうかい》に入るってことなんじゃないの? 言っておくけど、哀《あわ》れな子供がやっと見つけた宿を横取りするような人は、蓬山に行くだけ無駄だと思うわ」 「……黄海《こうかい》がどういうとこだか知ってるのか?」  当たり前じゃない、と少女はあくまでも頑丘《がんきゅう》に呆《あき》れたふうだった。 「廬《むら》もなければ里《まち》もない。舎館《やどや》もなければ道もない」 「それだけじゃない」 「妖魔《ようま》が出るんでしょ。知ってるわよ。でも、妖魔だったら、どこにだって出るわ」 「比べものになるもんか。それをどうやって旅する気だ。子供がたったひとりで、妖魔に襲われたらどうする」 「そういうあんたはどうするつもり? 妖魔相手に必ず勝てるの?」 「俺は──」 「たとえそうだとしても、あんたじゃ行くだけ無駄よ。──だから部屋を譲りなさい」  頑丘は頭を抱えた。少女の前にしゃがみこむ。 「嬢ちゃん、あのな……」 「ここにいるのは、じきに王になるかもしれない人間なのよ。それを覚悟でまだ何か言うことがあるっていうんなら、聞いてあげるわ」 「黄海はそんな、生易しいところじゃないんだ」  それで、と少女は心を動かされたふうもなく頑丘《がんきゅう》を見る。 「俺は蓬山《ほうざん》に行くんじゃない。黄海《こうかい》に入るのは確かだが、騎獣《きじゅう》にする妖獣《ようじゅう》を狩りに黄海へ行くんだ。俺たちのことを人が何と言うか知ってるか?」 「さあ」 「猟尸師《りょうしし》というんだ。慣れた者どうし、徒党《ととう》を組んで入っても、肝心《かんじん》の妖獣は獲《と》れずに仲間の死体を担《かつ》いで帰る、そういう商売なんだよ」  一昨年の秋分、頑丘は騎獣をそのそばにいた仲間ごと黄海で亡くした。岩場に繋《つな》いだ六頭の騎獣と、その近辺にいた二人の仲間、計八つの血肉を食い散らし、その妖魔《ようま》が満腹していなければ、おそらくは頑丘も生きては戻れなかったろう。そのまま冬至《とうじ》まで黄海の内側に留《とど》まり、かろうじて自分の騎獣にするための駮《はく》は捕《と》らえた。捕らえた駮を馴《な》らすのに手一杯で、昨年の春分には乾《けん》に来る余裕がなかった。 「おかげで蓄えも底をついた。乾まで来るのに、舎館《やどや》や船を使う余裕もありゃしねえ。馴らし終わったばかりの駮の背に乗ったまま、二泊三日、居眠り半分でやってきたんだ。俺だって疲れてる。しかも金だってないんだ、実は。ここなら親父は知り合いだから、少しばかり融通《ゆうづう》してくれるだろうという肚《はら》でな」  そう、と少女は何かを考え込むようにしながら呟いた。頑丘は少女の腕を軽く叩《たた》く。 「黄海《こうかい》はそういうところだ。悪いことは言わない、家に帰んな。今夜の宿は──」  言いかけた言葉を切ったのは、少女が突然、汚れた薄い媼袍《わたいれ》を脱《ぬ》いだからだ。その下の短い裘《かわごろも》を脱ぎ、脱いで裏返したその裾《すそ》に、ひとつずつ糸で十字にとめてあった銀貨が見えて頑丘《がんきゅう》は顎《あご》を落とした。銀貨一枚、価《あたい》は五両、小役人の一月の実入りに匹敵《ひってき》する。それも、そうやって括《くく》りつけられているのは、一枚どころの話ではない。  少女は裘を頑丘に突きつけた。 「十三枚、六十五両あるわ。あたしを蓬山《ほうざん》まで送ってちょうだい」  頑丘は唖然《あぜん》として少女を見た。 「これで雇《やと》うわ。ただし、旅の途中、入り用があればここから出すのよ」 「おい……」  少女はにっこりと笑んだ。 「あたしは珠晶《しゅしょう》よ。まず今夜、あたしに牀榻《ねどこ》を譲って、あんたは床で寝るの。いい?」 [#改ページ] 一 章       1  風はその虚無にも似た暗黒の海からやってくる。  虚海《きょかい》の北には秋からこちら、ひそやかに流れこんだ冷気が淀《よど》んで寒気の塊《かたまり》を作る。海水はぬくもりを失い、暖かな中層は痩《や》せ、やがて海は均一に冷えていく。緩慢《かんまん》な対流を繰り返す海流は、表面に浮かび上がると寒気に触れて凍《こお》り、暗い海に白い斑《まだら》を描いた。海と同じく、大気もまた冷え固まって、やがてそれは凍《い》てついた風になって溢《あふ》れだす。風は海上の細かな氷塊《ひょうかい》を揺らし、白く波立て、やがて海流を逆転させるほどのうねりとなって、大陸へと吹き寄せた。──条風《じょうふう》である。  虚海北東から押し寄せる条風は、北方沿岸に吹きつける。柳国《りゅうこく》の北東部に吹き寄せた風は、山脈に突き当たってそこで大量の雪を降らせ、柳《りゅう》を凍《こお》らせて駆け抜ける。国境の山々で最後の雪を落とすと、乾《かわ》ききって恭国《きょうこく》北部へと流れこんだ。  恭国首都|連檣《れんしょう》には、その名の通り凌雲山《りょううんざん》が帆柱《ほばしら》のように並び立つ。筆を束《たば》ねたようにして幾重《いくえ》にも重なる峰は麓《ふもと》の街を抱き込むようにして弧《こ》を描《えが》き、いくつかの峰に収斂《しゅうれん》すると雲海《うんかい》を貫き、峰の数ぶんの小島を作った。乾いた寒風は峰の間を吹き抜け、断崖の亀裂に浸《し》み入ってごく微《かす》かな音をたてた。ほんのわずかの音は縒《よ》り合わされ、だから連檣の冬は海鳴りのような音に彩られている。  吹き込む風と、山肌を吹き下ろす風、風は陽射しの傾いた街路のそこここで小さく旋《つむじ》を作り、少女の裳裾《もすそ》を足下から軽く巻き上げた。 「やあね」  少女は荷物を脇に抱えて、裳裾を片手で撫《な》でつける。 「さむ……」  つぶやいたところで、背後から声がした。 「なんだ、珠晶《しゅしょう》、帰らないのか?」  振り返ると、ちょうど庠学《しょうがく》の閑散《かんさん》とした院子《なかにわ》から少年が出てきたところだった。 「もちん、帰るわ」  珠晶《しゅしょう》は門柱にもたれたままそっぽを向く。 「帰るって、お前、さっきからずっとここで突っ立ってるじゃないか」 「それをずっとながめてたわけ?」  少年は少し顔を赤くして珠晶をにらんだ。 「ながめてたわけ、なんかじゃない。たまたま目に入っただけだろ。頼まれたって珠晶なんかながめてるもんか」 「ああ、そう。べつにあたしだって頼んだりしないわ。良かったわね」  少年は顔をしかめて珠晶の澄ました横顔をねめつける。踵《きびす》を帰して門の前の石段に足をかけ、そうして振り返った。 「帰らないのか?」 「帰るわよ。あんただって帰るんでしょ? だったらさっさと行けば?」 「そういう珠晶こそ帰るんだったら、さっさと帰ったらどうなんだよ」  珠晶が軽く溜《た》め息《いき》をついた。 「連れがいないんだもの。どこで油を売ってるのか知らないけど、置いて帰るわけにいかないから、待ってるのよ」  ははん、と少年は笑う。 「ひとりで帰るのがおっかないんだ」 「怖《こわ》いわけないでしょ。まっすぐ帰るだけなんだから」 「正直に言えよ。珠晶《しゅしょう》はお嬢さん育ちだもんな。そばに誰かいないと怖くて道も歩けないんだろ」  揶揄《やゆ》する少年を、珠晶はきりりとねめつけた。 「そうよ。あたしはお嬢さん育ちだから、供《とも》もなしに道を歩いたりしないの。そんなことをしたら、あたしじゃなくてお供のほうが叱《しか》られるでしょ」 「怖いくせに。送ってやってもいいんだぜ」 「あんたって、人の話を端《はな》から聞く気がないのね」  珠晶が言ったところで、道を駆け戻ってくる姿があった。 「すみません。お嬢さん」  大門《だいもん》に駆けつけてきたのは、屈強《くっきょう》な男が三人だった。珠晶の父親が家の護衛として雇《やと》っている杖身《じょうしん》たちである。珠晶は待ちかねたように柱にもたせかけた身を起こし、杖身たちの姿に目をやって、軽く声をあげた。 「──どうしたの。それ、血?」  杖身たちはお互いの姿を見交わし合う。杖身たちの皮甲《よろい》には点々と赤い染《し》みが飛んでいた。 「すみません。さっき、あっちのほうから悲鳴がしたもんで」  杖身《じょうしん》は大門《だいもん》の前からまっすぐに南へと延びる広途《おおどおり》の先のほうを示した。夕暮れ近い広途はお定まりの人の波で、その中になにやら強《こわ》ばった顔をして、杖身の示したほうへと急ぐ人の姿があった。 「なに、蟲《むし》が出ただけです。わたしらで仕留めてきました。お待たせしてどうも」  珠晶《しゅしょう》は眉《まゆ》をひそめた。先帝|崩御《ほうぎょ》から二十七年、ここ首都|連檣《れんしょう》にも、妖魔《ようま》の姿が頻繁《ひんぱん》に見えるようになった。「蟲」と呼ぶのはそれら妖魔のうち、比較的無害な小物の総称である。だが、蟲は先触れだとも言う。蟲の群れが現れると、まるでそれらを追ってきたように、大物が現れることが多い。 「さ、急ぎましょう」  杖身が促《うなが》して、珠晶はうなずき、石段を駆け下りた。少年がその後をついてくる。 「なあ、珠晶、だいじょうぶが?」 「なにが」 「おれ、ついて行ってやろうか?」  珠晶《しゅしょう》は呆《あき》れて振り返った。 「あんたがついて来てどうするのよ。そんなことしたら、杖身《じょうしん》たちはせっかく家に戻っても、またあんたを送るために出ていかないといけないじゃない」 「でも……」  少年は言いよどみ、そしてにんまり笑ってみせた。 「どうせもう、これっきりなんだから、最後くらい面倒《めんどう》みてやってもいいぜ」 「いらないわ」  珠晶はつぶやいた。 「……それよりもあんたも帰ったら? ──じゃあ」  珠晶は言い残して、大門《だいもん》の石段を駆け下りていく。それを見送る少年の小さな溜《た》め息《いき》は、風がさらってかき消してしまった。       2  珠晶の家は庠学《しょうがく》からほど近い連檣《れんしょう》の北の外《はず》れにある。連檣は凌雲山《りょううんざん》の麓《ふもと》、北へ向けての上り坂の街だった。その傾いた途《みち》を登り、道観《どうかん》と寺院の並ぶ閑静な一隅から街の隔壁《かこい》に沿ってさらに登ると、北の隔壁《かこい》が途切れて、楼閣《ろうかく》を有した壮麗《そうれい》な大門《だいもん》が現れる。  門は二層、左右の楼閣は三層、その奥には主楼《おもや》の複雑な大屋根が見えていた。瓦《かわら》は鮮やかな碧《みどり》の釉薬《ゆうやく》、色とりどりの棟飾りと軒《のき》の下げ飾り、大門前の還途《かんと》はわずかに広くなって、天神加護《てんじんかご》を願う大きな照壁《かべ》が立ち、その左右には繊細な透《す》かし窓を持つ擁壁《へい》がめぐらされ、端正な樹木の枝先が見えていた。これ以上の舘第《やしき》は、連檣《れんしょう》にはないと言われている。家公《しゅじん》は氏《うじ》を相《そう》といい、斜面に広がる園林《ていえん》があまりに著名なことから、相園館《そうえんかん》とも相園《そうえん》とも呼ぶ。  珠晶《しゅしょう》はこの家に生れた。その姓を蔡《さい》という。父親の相|如昇《じょしょう》は万賈《ばんこ》とも呼ばれる。如昇が手を染めていない商いはない、との意味だった。恭《きょう》にお定まりの林業から身を興《おこ》し、連檣の豪商として名を馳《は》せている。  連檣では、万賈の富貴に優るを望むことをあたわず、と言う。なぜなら、それ以上の富貴は存在しないからだ。それは金銭のことだけに及ばず、妻の玻娘《はじょう》は賢夫人として名高く、商才に優れ人格に優れた三男三女があり、年の離れた末娘があって、家族は強くまとまり、膨大な使用人は如昇をよく尊崇している。これ以上の富貴を望むことはできない、と言われるゆえんである。  その富を象徴したかのような門楼を見上げれば、窓という窓、開口部という開口部は繊細な模様を描《えが》いた鉄格子《てつごうし》で覆《おお》われている。それに目をやり、大門《だいもん》をくぐりながら、珠晶《しゅしょう》はつぶやいた。 「……ばかみたい」  どれほど堅牢《けんろう》な楼閣《ろうかく》を築いても、どれほど強く献身的な杖身《じょうしん》がいても、畢方《ひっぽう》一羽が現れて、大火のひとつも起これば燃えつきてしまうのだ。旱《ひでり》に洪水、寒波に大風、万賈《ばんこ》の富といえど、妖魔《ようま》や災害には無力だ。 「おやおや、ばか、とは聞き捨てならないね」  唐突な声に、珠晶は顔を上げた。前院《まえにわ》に立った人影に、杖身が一様に叩頭《こうとう》する。この穏和な顔をした初老の男こそが、連檣《れんしょう》に名高い如昇《じょしょう》だった。 「うちの末のお嬢さんは、どうにも口が悪くていけない」 「そう?」  如昇は笑んで、自分の娘を抱き寄せる。 「庠学《しょうがく》の近くに蟲《むし》が現れたと聞いて迎えに出てみれば、珠晶はずいぶん罰当たりなことを言っているな」  珠晶は軽く首をすくめた。その様子を笑って、如昇は杖身たちを労《ねぎら》う。 「その様子では、お前たちが仕留めてくれたようだ。よく働いておくれだね」  杖身《じょうしん》たちは冷えた前院《まえにわ》に額をつけた。 「だから珠晶《しゅしょう》、言っているだろう。もう庠学《しょうがく》はやめておきなさい。お前の身に危険なだけでなく、送り迎えをする杖身にも危険だ」 「心配ないわ。庠学は閉まるの」  珠晶はすたすたと中門へ向かう。杖身を待ったせいで身体が芯《しん》冷えている。庠学から家まで歩いたぐらいでは少しも温かくなった気がしない。 「──閉まる?」 「そうよ。学頭《がくちょう》が亡くなったの」  庠学──あるいは単に庠とも呼ぶ──は各郷にひとつしかなく、庠学において優秀な者は各郡にある上庠《じょうしょう》への推挙《すいせん》が受けられる。それを目前にしていたのに。庠学へなど行く必要はない、序学《じょがく》でやめておけと言う父親と大喧嘩《おおげんか》までしたことも、ぜんぜん意味がなくなってしまった。  如昇《じょしょう》は驚いたように目を見開いた。 「搏老師《はくせんせい》かね?」 「そう。今朝早く、老師のお宅のあたりが妖魔《ようま》に襲われたの。馬腹《ばふく》が老師を食べちゃったんですって」 「──珠晶《しゅしょう》」  如昇《じょしょう》は珠晶を追いかけて、その前に膝《ひざ》をついた。 「……なんてことだ」 「そんな顔をなさることないわよ。老師《せんせい》が亡くなったのだって、これで二人目だもの。庠学《しょうがく》の生徒や生徒の縁者を入れると、もううんざりするくらい死んだんだし」 「そういう言い方はおよし」 「だって、本当のことじゃない」  珠晶は軽く肩をすくめた。 「それも仕方ないわよね。老師のお宅じゃ、窓に格子《こうし》が入ってなかったんだもの」  珠晶は言って、前院《まえにわ》を見渡した。前院に面した全ての開口部にもまた、美しい模様の鉄格子が入っている。壁には毎日真新しい漆喰《しっくい》が塗り重ねられ、扉には鉄の鋲《びょう》が打ちつけられ、昼夜を問わず杖身《じょうしん》が見張りに立っている。 「隣の里《まち》から来ている男の子のお父さんも死んだんですって。その子のお父さんは遠くまで桶《おけ》を収めにいって、夕暮れまでに里に戻れなかったの。戻ってこないので心配して、近所の人達が探しに行ったら、十|里《り》ほど先の廬《むら》で冬を越していた人がみーんな死んでて、そこで首が見つかったんですって」 「……珠晶《しゅしょう》」 「それだって仕方ないことだわ。その子のおうちには杖身《じょうしん》はいないし、秋に蝗《いなご》が出て小麦が全部だめになって、それで桶《おけ》を納めにいかないとご飯が食べられなかったんだから。その子のお父さんは、口の中に桶の代金を含んでいたんですって。妖魔《ようま》に襲われて、逃げる途中で落とすまいと思ったのかしらね」  如昇《じょしょう》は慰《なぐさ》めるように末娘の背中を撫《な》でたが、珠晶はその手から逃げるように主楼《おもや》へと歩き始める。 「やあね。平気よ。もうぜんぜん慣れちゃって、誰が死んだってちっとも怖くないわ。小さい頃、おばあさまが亡くなって、それで怖かったのがばかみたい」 「珠晶、およし」  如昇は娘を追いかけてその肩を抱いた。抱えるようにして主楼まで付き従い、前庁《ひろま》の椅子《いす》に座らせた。 「……いまはいろいろと辛《つら》い時代だ」 「みんなそう言うわね」 「お前が周囲の人々を見て心を痛める気持ちは分かるが、そんなふうに投げやりになってはいけないよ」 「べつに投げやりになんか、なってないわ」 「──珠晶《しゅしょう》」  珠晶は座ったまま、父親を見上げた。 「……お父さまは昇山《しょうざん》しないの?」  如昇《じょしょう》はわずかに目を見開いた。 「昇山?」 「だって王さまがいらっしゃらないから、辛《つら》い時代なんでしょ? お父さまが王になれば問題なくなるんじゃない」  如昇は娘の髪を撫《な》でて、苦笑しながら首を横に振った。 「恵まれているとはいえ、わたしは一介《いっかい》の商人にすぎないんだよ、珠晶」       3 「お嬢さま、お夕飯をお持ちしましたよ」  起居《いま》のほうから恵花《けいか》の声がして、珠晶は筆を置いた。無意味に文字を書き散らした紙を検分しながら揃《そろ》えて棚に収め、硯《すずり》を始末しているところに、扉が開いて恵花が顔を出した。 「お嬢さま、学頭《がくちょう》が亡くなられたんですって?」 「ええ、そう」 「あらまあ、またお勉強? 庠学《しょうがく》はもうおしまいなんでしょ?」 「そうね……」  恵花《けいか》は家生《かせい》で、珠晶《しゅしょう》よりもひとつ年上だった。家生とは、この家に住む下男下女を言う。彼らは給金をもらうのではなく、家族として家公《しゅじん》に養われるのだ。最低限の衣食住は保障されるかわりに地位は低い。珠晶の家では、賃金で雇《やと》われる使用人もいないではないが、その身分に圧倒的な隔《へだ》たりがあった。  恵花はその家生の子で、両親に連れられて相家《そうけ》に入り、小さな頃から本人も下女として働いている。その身分はともかく、小さい頃から一緒に育つので、気安いと言えば気安い。特に恵花のように歳が近ければ、よけいにそうなる。 「なんだか最近、そういう話ばっかりで嫌《いや》になっちゃいますね。──だめですよ、ふさぎこんじゃ」 「べつに、ふさいでなんかいないわ」 「あらだって、部屋でお食事をするって」 「ちょっとお父さまの顔を見るのが、嫌《いや》だっただけよ」  そうですか、と怪《あや》しむようにいいながら、恵花《けいか》は珠晶《しゅしょう》を引き立てて、隣の起居《いま》へと引っ張っていく。起居の卓子《つくえ》にはすでに夕餉《ゆうげ》が並んでいた。 「家公《だんな》さまは喜んでらっしゃいましたよね。……まあ、もともとお嬢さまが庠学《しょうがく》に行くのは嫌がっておいでだったから」  珠晶は椅子《いす》に座り、げんなりと卓子の上の食器を見渡した。 「そうなのよね……」 「べつに構わないじゃないですか。お勉強だったらおうちでもできるでしょう? おうちには老師《せんせい》が雇《やと》われておいでなんだし」  珠晶は箸《はし》をとる気にもなれず、息を吐く。 「……うちの先生たちは、どうせお行儀のことか商売のことしか教えてくれないもの。第一、上庠《じょうしょう》に推挙《すいせん》してもらえないんじゃ、話にならないわよ」  庠学は上庠に進む準備をするためにあり、上庠は少学《しょうがく》に進む準備をするためにあると言っていい。少学を出れば、ほとんどの者は官吏《かんり》になる。──要は珠晶は官吏になってみたくて、商人の父親はそれが理解できないのだった。 「……悔《くや》しいわ。もうちょっとで上士《じょうし》だったのに」  上庠《じょうしょう》への推挙者《すいせんしゃ》を上士《じょうし》と言う。 「いいじゃないですか。家公《だんな》さまはもちろん、お兄さまがただってお姉さまがただって、序学《じょがく》で我慢なすったんだから」 「我慢したんじゃなくて、庠学《しょうがく》へ推挙される頭がなかっただけでしょ」  恵花《けいか》は呆《あき》れたように珠晶《しゅしょう》を見つめた。 「また、そんなことを。いいじゃないですか、こんな立派なおうちがおありなんだもの。いったい、なんだってお役人なんか、なりたいんです?」  珠晶は湯呑みに口をつけて窓のほうを見やった。 「だって偉《えら》い官吏《かんり》になったら、もうずーっと歳を取らないでいいんだもの」 「もう、そんな子供みたいなことを……」 「いいじゃない。死ななくていいし、ずーっと生きてられて、恵花のお母さんみたいにぶくぶく太って皺《しわ》だらけになることもないし」 「失礼しちゃいますね。あたしのおっ母さんのことなんだから、ほっといてください」  恵花はしかめっつらをして、それから珠晶の顔をのぞきこんだ。 「召しあがらないんですか」 「……ほしくない。いまいましくて」 「何を言ってるんです」  恵花《けいか》は箸《はし》をとって珠晶《しゅしょう》に握《にぎ》らせる。 「そんな贅沢《ぜいたく》をおっしゃっちゃ、罰《ばち》が当たりますよ。最近、食べるものは本当に高くって、いまどき何でもないお夕飯にこれだけのものが並ぶなんてことは、普通のおうちじゃできないことなんですからね」  珠晶はずらりと並んだ皿を見て箸を卓子《つくえ》に置いた。 「……ばかみたい」 「お嬢さま」 「うちが贅沢してることぐらい、よーく知ってるわよ。でもって、普通のおうちじゃ、こうはいかないってこともね。だからって、あたしがこれを食べたり食べなかったりすることと、どうしてそれが関係あるのよ」 「お残しになるんですか? こんな御馳走《ごちそう》、食べたくたって食べられない人がいっぱいいるんだし、それどころか、今日のご飯にさえ事欠いてる人がいるんですよ!」  だから、と珠晶は恵花を見上げる。 「そんなことは知ってるの。お父さまのおっしゃる通り、家の中に収まって外にも出ないんじゃ知りようもないでしょうけどね、学校に行って人と会っていれば、他の家がうちのようなわけにはいかないことぐらい、嫌《いや》でも分かるわよ」 「だったら」 「だからって、それとあたしと何の関係があるの? あたしがこれを食べたら、困ってる人のところにも同じものが降ってくるの? 食べられない人が可哀想《かわいそう》だって言うんなら、それこそ、このまま持っていってあげればいいじゃない」  恵花《けいか》は珠晶《しゅしょう》の言いぐさに、頬《ほお》に朱が昇るのを感じた。 「……言わせてもらいますけどね、これはあたしのご飯より、何倍も立派なんですよ」  このところ厨房《だいどころ》のやりくりが苦しくて、恵花たち家生《かせい》の食事は一品減らされた。育ち盛りにはもともと決して多くはなかったから、近頃では夜中になると空腹で目が覚《さ》める。  怒りをこめて珠晶をにらむと、当の珠晶は涼しい顔で恵花を見た。 「だったら、恵花にあげるわ。あたしはほしくないの。よかったわね」 「お嬢さん!」  恵花は金切り声をあげた。珠晶はあのね、と恵花を責めるような目つきをする。 「老師《せんせい》のお宅には窓に鉄格子《てつごうし》が入ってなかったから、馬腹《ばふく》に襲われて死んじゃったの。ある子のところじゃ、死んだお父さんの口の中から拾い出した桶代《おけだい》で、三日ぶりにちゃんとしたご飯を食べたのよ。あんたは安全な家の中で寝てて、とにかく飢えることなくご飯が食べられるんじゃない。あんただって恵まれてるのよ、分かってる?」 「なんてことを言うんです……」 「そういうことを適当に見て見ないふりをして、聞き古した小言を言わないでちょうだい。あたしは、ほしくないの。──下げちゃってよ、こんなもの」  恵花《けいか》は今度は、顔から血の気が引くのを感じた。 「お嬢さん、あんたって人は……」  恵花が怒鳴るやいなや、珠晶《しゅしょう》は湯菜《しるもの》の器《うつわ》に手をかけて、立ち上がりざま、それを恵花にぶちまけた。 「うるさいわね! いらないって言ってるでしょ!」  恵花は呆然《ぼうぜん》としてしまった。湯菜はもうかなり冷めていて、特に熱くはなかったが、そういうことをされた、という事実のほうが恵花に衝撃を与えた。 「な……なんてことを……」  悔《くや》しいやら情けないやらで、涙が出てくる。あわててうつむいて、裾《すそ》から汁《つゆ》を払い落としても、綿の媼袍《わたいれ》も嬬裙《きもの》も、汁を吸ってもうどうにもならない。  家生《かせい》は給金をもらえない。食べることと住むことは困らない程度に保障されても、着るものまではそうはいかないのだ。年に二度、家公《しゅじん》が与えてくれはするものの、伸び盛りの恵花《けいか》は、すぐに嬬裙《きもの》よりも身体《からだ》のほうが大きくなる。そのうえ下働きで一日を過ごす家生《かせい》の衣類は布や糸が弱るのが早かった。足りない分は古布を継《つ》ぎ、ほころびは繕《つくろ》ってどうにか着るのだ。それでも足りなければ、見るに見かねて誰かが古着を与えてくれるのを待つか、さもなければ新年に家公《しゅじん》がふるまってくれる祝い金から、やりくりして誂《あつら》えるしかない。 「……ひどい」  新年にもらった布で誂えたばかりだったのに。  嗚咽《おえつ》しながら野菜の切れ端やら、肉片やらを払い落とす恵花の手を、珠晶《しゅしょう》が取った。 「──ごめんなさい!」  手巾《てぬぐい》を出して、拭《ぬぐ》ってくれる。 「ごめんね、恵花、熱かった?」 「あ、熱くは、……ないです、けど」 「ごめんなさい、あたし、つい……」  恵花は顔をこする。しょせんは家生なのだから、珠晶を罵《ののし》るわけにはいかないのだ。  涙を拭って目の前が晴れると、恵花の足元に膝《ひざ》をついた珠晶が、すまなさそうに恵花を見上げていた。 「ほんとにごめんね。あたし、ちょっとイライラしてて」 「いえ……いい、です」 「ねえ、ちょっと脱《ぬ》いでちょうだい。火傷《やけど》をしてるかもしれないわ」 「だいじょうぶ、です。……ぬるかったから……」 「でも、こんな格好で居院《すまい》には戻せないわ。外は寒いんだもの、凍《こお》っちゃうわよ。ちょっと待って。いま、着替えを持ってくるから」  珠晶《しゅしょう》は臥室《しんしつ》に駆けていき、ものを引っかき回す音をさせてから戻ってきた。 「あのね、お古で悪いんだけど、これを着て。恵花《けいか》にあげるわ」  珠晶が差し出したのは、綺麗《きれい》な絹地のひとそろいだった。恵花は驚いて珠晶を見る。 「お嬢さん、でも」 「だいじょうぶよ、あたしのせいで恵花の着るものをだめにしたから、って、お父さまにもお母さまにもちゃんと説明するから。……一番大きなやつだから、これなら恵花にも短すぎるってことはないと思うの。それとも、あまり好きじゃない? なんだったら、好きなのを選んで」 「とんでもない!」 「ごめんなさいね。本当に八つ当たりだったわ。こんなひどいことをするつもりじゃなかったの。お願いだから、これで許して?」  恵花《けいか》はうなずいた。そもそも許すも許さないもないのだし、そのうえこんな立派なものをもらえるなんて。 「あの……本当にいいんですか? こんな立派な」  たしかこれは、珠晶《しゅしょう》が今年の新年に着たばかりの晴れ着ではないだろうか。 「許してもらえるなら、ぜんぜん構わないわ。さ、風邪《かぜ》をひく前に着替えて」 「あ、はい。……ええ」  恵花はその場で着ていたものを脱《ぬ》いで、珠晶の介添えで暖かな絹のひとそろいを身につけた。 「夢みたい……」 「そう?」  似合ってよかった、と言って、珠晶は恵花の嬬裙《きもの》を手にする。 「これはあたしがちゃんと洗うわ。……ごめんね、恵花」 「いいんです、そんな」  まさか洗濯をさせるわけにはいかない。あわてて手を伸ばした恵花を、珠晶は遮《さえぎ》る。 「湯菜《しるもの》が熱かったら、恵花は怪我《けが》をしていたんだもの、これくらいはしないと気がすまないわ。だいじょうぶよ、あたしはお勉強ばっかりじゃなくて、ちゃんとおうちのこともできるもの。……たぶんね」  笑って言って、珠晶《しゅしょう》は嬬裙《きもの》を置いて、椅子《いす》に戻る。 「ごめんなさい。ちゃんといただきます」  恵花《けいか》を居院《すまい》まで送りとどけ、恵花の父母と自分の父母に事情の説明をして、ついでに小言をもらってから、珠晶は自分の起居《いま》に戻った。  しばらく椅子に座って考えこむ。よほどの時間が経《た》ってから、軽く息を吐いて立ち上がり、椅子の上にかけた恵花の薄い媼袍《わたいれ》を広げ、ためつすがめつしてから軽く顔をしかめた。 「……お茶にすれば良かったかしら」  珠晶は鉄格子《てつごうし》のはまった窓を見やった。 「お出汁《だし》のにおいがするわ……」       4  舘第《やしき》の裏手には、涼院《りょういん》と呼ばれる一郭《いっかく》がある。厨房《だいどころ》に面し、井戸があって洗濯場があり、あるいは穀物を貯める禾倉《かそう》があり、あるいは菜園や畜舎や魚池があって、それらの収穫を加工する禾坪《かへい》や作坊《さくぼう》がある。菜園を挟《はさ》みながら、それらの棟が続いていた。  繻子《しゅす》の媼袍《わたいれ》で着膨《きぶく》れた珠晶《しゅしょう》がその涼院に姿を現したのは、朝仕事がようやく一区切りしようかという頃だった。 「おはようございます」  珠晶の姿に気づき、頭を下げたのは、馬子《ばし》と呼ばれる老爺《ろうや》だった。 「おはよう、馬子」 「うかがいましたですよ。庠学《しょうがく》が閉まったとか」 「お父さまがどうこうという話なら聞かないわよ。──ねえ、白兎《はくと》にご飯をあげてもいい?」  どうぞ、と馬子は大きく破顔してうなずいた。この老爺もまた家生《かせい》だった。先王が斃《たお》れてその後の波乱で家財をなくし、着の身着のままで子供を抱えてこの家に雇《やと》い入れられた。三人の子供たちは別宅の、あるいは店舗の下働きとしてあちこちに散っているが、いずれも家生《かせい》であることには違いがない。 「……学頭《がくちょう》が亡くなったとか」  馬子《ばし》は厩舎《うまや》へと珠晶《しゅしょう》を案内しながら言う。珠晶の記憶にある限り、この老爺《ろうや》が、ずっと厩舎の采配《さいはい》をしていた。 「おかわいそうにねえ。近頃、連檣《れんしょう》じゃ、そういう殺伐《さつばつ》とした話ばっかりですな」 「そうねえ」 「わたしらは家公《だんな》さまのおかげで安泰《あんたい》ですけどねえ」 「それもいつまで続くかしらね」 「そんな、縁起でもない」  馬子は言いながら厩舎の入り口をくぐった。  珠晶は厩舎の匂いが好きだ。特に冬には寝藁《ねわら》の匂いと多くの馬と驢馬《ろば》の体温で、ふんわりと暖かいのが気に入っている。母親などは、藁くずを家の中に入れる、においがつくと言って嫌《いや》がるが、母親は馬が好きでないから、これが嫌なにおいに思えるのに違いない、と思う。 「おはよ。みんな元気ね」  一頭一頭の顔をのぞきこむようにして、珠晶《しゅしょう》は厩舎《うまや》の奥へと向かう。藁《わら》を蓄えた一郭《いっかく》を過ぎたその向こうにお気に入りの白兎《はくと》がいる。 「おはよう、白兎」  珠晶の声に柵《さく》の向こうに寝そべった白い獣《けもの》が顔を上げた。白い豹《ひょう》のような騎獣《きじゅう》、孟極《もうきょく》。利口《りこう》で人の意をよく察し、しかも温和で主人によく懐《なつ》く。いまも、珠晶をそれと理解したのか、猫のような仕草で首を伸べて、軽く喉《のど》を鳴らしてみせた。  馬子《ばし》は柔らかく声をかける珠晶に目を細めた。ずっと馬の世話で生きてきた。厩舎の仕事にはそれなりの誇りがあり、厩舎で預かる生き物には愛着があったから、珠晶がこうして同じような情愛を示してくれるのが嬉しい。  珠晶は今にも柵に手をかけて開けそうな風情で馬子を振り返った。 「しばらく遊んでもいい?」  孟極は気性が柔らかく、しかも珠晶は孟極に慣れている。何度も厩舎に来て、時には世話まで手伝うから、してもよいこと、してはいけないことを呑《の》みこんでいた。それで馬子はうなずいた。厩舎以外にも仕事があるのだ。  珠晶は馬子を見送り、胸のあたりまである柵を上げて外《はず》し、中に入りこんだ。まだ乾《かわ》いて膨《ふく》らんでいる藁《わら》の上に座りこみ、寝そべったままの白兎《はくと》に寄り添い、その首筋に顔を埋《うず》める。大きな頭を抱いて耳の後ろのなめらかな毛並みを撫《な》でた。白兎の毛並みからは、藁のいい匂いがした。馬子《ばし》の手入れが良いから、獣《けもの》の臭気は薄い。  少しの間、馬子が馬たちに声をかけているのが聞こえたが、それが絶えて、馬子の足音が厩舎《うまや》を出ていった。耳を澄ましていると、土間を踏む足音が遠ざかっていく。 「……うん」  珠晶《しゅしょう》はつぶやいて、白兎に笑いかけると、立ち上がる。上げた柵《さく》はそのまま、白兎の騎房《きぼう》を出て、左右を見回しながら藁山に近づいた。手前の解かれた藁の山を踏み分け、奥の四角く押し固めた藁を積みあげてあるのをよじ登り、壁との間から袋包みを引っ張り出す。昨夜のうちに忍びこませておいた荷物である。  意気揚々《いきようよう》とそれを手にして藁の間を泳いで戻ると、大急ぎで白兎の騎房の前に戻る。何事かと不審《ふしん》そうに顔を上げる白兎に、軽く笑ってから壁の奥にかかっている鞍《くら》を外《はず》した。  白兎を調《ととの》えるには、いくらもかからなかった。鞍を置かれた白兎は、出かけるのだと覚《さと》ってすでに立ち上がっている。 「ちょっと待ってね」  珠晶は白兎に言って、懐《ふところ》から一枚の紙を引っぱり出した。不思議そうにそれをのぞきこんだ白兎《はくと》の首に、珠晶《しゅしょう》は腕を回す。 「馬子《ばし》を叱《しか》らないでね、って」  珠晶はその紙を飼料箱の中に入れる。 「叱ったら二度と帰ってきてやらないから、って書いてあるの」  白兎はきょとんと珠晶を見上げた。 「ちょっと遠出だけど、つきあってね。お前の足なら間に合うと思うの」  語りかけたが、もちろん白兎の返答はない。不思議そうに金茶の目を瞬《またた》かせただけだった。珠晶はその頭を撫《な》でる。 「……二十七年なのよ、二十七年。先王が亡くなられて。近頃じゃ、連檣《れんしょう》にまで妖魔《ようま》が出るようになって、どんどん人が死んで……」  厩舎《うまや》の明かり取りから格子《こうし》越しの空を見上げた。王を失えば、国には災厄《さいやく》が降りかかり、妖魔が徘徊《はいかい》するようになるのだという。 「なのにいい大人《おとな》が家に格子をはめて安心してるの。ばかみたいだわ。王さまがいなかったら悪くなる一方だっていうのに、何を考えてるのかしらね」  釈然としたのかしないのか、見つめる白兎に笑って、珠晶は手綱《たづな》を取った。  軒《のき》の下、陽射しのはいるあたりに集まって座りこみ、手仕事をしていた馬子《ばし》たち使用人は、涼院《りょういん》を駆けてくる孟極《もうきょく》を見て仰天《ぎょうてん》した。 「お嬢さま!」  立ち上がり、呼び止めるために駆け出した馬子たちを、孟極は軽々と跳躍《ちょうやく》して越え、陽射しの中に躍《おど》り出る。 「お嬢さま、──珠晶《しゅしょう》さま!」  馬子は声をあげたが、孟極は軒《のき》に向かって跳躍し、楼閣《ろうかく》の鮮《あざ》やかな碧《みどり》の屋根の上へと駆け上がっていった。なす術《すべ》もなく見上げた馬子に、珠晶のかろやかな声が降ってくる。 「ちょっと出かけてくるわ」 「そんな、──お嬢さま」 「お供《とも》はいらないから」  狼狽《ろうばい》する馬子らを置き去りにして、孟極は主楼《おもや》の大屋根を駆け登る。騎乗した珠晶が軽く振り返り、手を振った。釉薬《ゆうやく》の艶《つや》やかな光沢の上に、孟極の白い尾がひらめく。楼閣の上層から四方を見守っていた杖身《じょうしん》が、騎獣《きじゅう》を指さした。  それにも笑って手を振って、珠晶は孟極を進める。主楼の大屋根を越えると、目の前には春めいた青空が広がっていた。  薄青にほんの微《かす》かに薄紫を溶かしこんだような空、白い雲は絹糸を吹き流したように延びていた。眼下に広がるのは連檣《れんしょう》の駆け下る甍《いらか》の波、里を背後の凌雲山《りょううんざん》に囲いこむようにして折れた隔壁《かこい》は、陽射しに黄みを帯びた白、その向こうには黒い土と緑の山野、どれもこれもが春の訪れを予感させて、柔らかく光を含んでいる。  白い騎獣《きじゅう》は甍の波を蹴《け》って、間近の隔壁に飛び降り、驚いたように声をあげる衛兵を後目《しりめ》に隔壁の上を駆ける。疾走《しっそう》しながら孟極《もうきょく》が、これでいいのか、と問うように、騎乗した珠晶《しゅしょう》を振り返った。 「いいのよ。連檣に孟極は白兎《はくと》だけだもの。……万賈《ばんこ》の騎獣を射たりできるわけないでしょ」  珠晶は白兎に笑って、陽射しを浴びた山野を見た。 「まだるっこしいったら、ありゃしない。大人《おとな》が行かないのなら、あたしが行くわ」  どこへ、と問いかけるように再度振り返った白兎を促《うなが》して、珠晶は騎獣を連檣の外へと跳躍《ちょうやく》させる。 「蓬山《ほうざん》に行くの。──昇山《しょうざん》するのよ」       5  世界中央に黄海《こうかい》がある。  その、一国に匹敵《ひってき》する広大な土地は、水のない海、妖魔《ようま》の跋扈《ばっこ》する人外《じんがい》の土地だった。そこは人の領分にあらず、また、神の領分でもない。ただ、その黄海中央に位置する五山《ござん》だけが、西王母《せいおうぼ》に連なる神仙《しんせん》の庭だと言われていた。  人と神は交わらない。人はただ祠廟《しびょう》に祈るしかなく、神仙はそこから祈りを吸いあげることでしか世の成り立ちに関与しないのだ、という。たとえ五山が神仙の庭であり、黄海が妖魔の住処《すみか》であっても、そこは人には無縁の世界だ。だが、五山|東岳《とうがく》・蓬山《ほうざん》だけが人とは無縁でいられなかった。  蓬山は神獣《しんじゅう》・麒麟《きりん》の生れる聖域、麒麟はその性行《せいこう》、仁《じん》にして、妖力甚大《ようりょくじんだい》の獣《けもの》、よく慈悲《じひ》を知り世の理《ことわり》を悟り、天意《てんい》と通じて天命《てんめい》を聴《き》く。人の世界は十二に分割されており、それぞれを王が統《す》べるが、王は出自や功績によって選ばれるものではなく、ただ天命だけが人を玉座《ぎょくざ》に進めることができる。ゆえに言う、麒麟は王を選ぶ、と。  麒麟は蓬山に生まれ、そこで女仙《にょせん》の庇護《ひご》を受けて育つ。蓬山を訪れて麒麟に天意を諮《はか》ることを「昇山《しょうざん》」と言った。──もちろん、昇山するためには、蓬山《ほうざん》に赴《おもむ》かなくてはならない。その蓬山は黄海《こうかい》の中央にあり、黄海は雲海《うんかい》を貫く峻峰《しゅんぽう》で封じられている。金剛山《こんごうざん》である。  登攀《とうはん》不可能な険しい山脈、金剛山を越える道はただ四つしかなく、その道には門が立ちふさがる。これを四令門《しれいもん》という。四令門はぞれぞれ、一年に一日だけ開く。北西にあって恭国《きょうこく》に接するものが令乾門《れいけんもん》、開くのは春分、ただ一日。  その春分を目指して、珠晶《しゅしょう》は連檣《れんしょう》を出た。孟極《もうきょく》は飛行こそは上手《うま》くないが、空行、陸行あわせて一日に馬の三倍近い距離をかせぐ。令乾門までは遠く、珠晶ひとりの足では到底到達できるような距離ではないが、孟極がいれば旅の苦労は少なくとも三分の一になる。おまけに珠晶はたっぷりと路銀《ろぎん》を持ち出していた。連檣に何かがあったとき、家を捨てて別宅へと逃げ出すことを考えていた父親が、当面の生活のための金銭を蓄えていたことを知っていたのだ。  父親は珠晶の行方《ゆくえ》を捜すだろうが、たたでさえ妖魔《ようま》や災害に手を取られている官吏《かんり》が、子供一人の行方をさほど熱心に捜すとは思えない。たとえ相家《そうけ》といえど、家公《しゅじん》の所有する孟極よりも足の速い騎獣《きじゅう》がいるはずもなく、背後から追いすがることは至難の技《わざ》だろう。相家の店なら恭国全土に散らばっているが、全ての街を網羅《もうら》しているわけではないし、各地に青鳥《しらせ》を差し向けて、どこかで待ちかまえさせようにも、珠晶《しゅしょう》の行く先など想像することさえできないのにちがいない。  立ち寄る街さえ選んで進めば、なんとかなるのにちがいない、と珠晶は思っていたし、実際、追っ手の気配さえ感じることもなく、連檣《れんしょう》を出た六日後の夕刻には令乾門《れいけんもん》までの道のりの、三分の二近くを消化していた。 「……さてと」  さほど小さくも大きくもない里《まち》を選び、それを取り巻く閑地《かんち》に白兎《はくと》の足を止めて、珠晶はつぶやく。まっすぐ里の中には入らずに、裏手にある冢堂《ちょうどう》を目指した。  どんな里でも、街道は南に接し、北には墓地があるものだった。ともかくも人目につかず、ゆっくりと気を休める場所が欲しくて、珠晶は街の北に回る。さほどに大きな里ではないから、すぐに閑地の隅に建つ祠廟《しびょう》の黄色い屋根が見えた。  多くの墓地には囲墻《かこい》がない。この里の場合もやはりそうで、それで閑地の一郭《いっかく》を占めた真新しい冢墓《はか》の群れが見えた。これまでに足を止めた、六つの里のどこででも見られた光景だ。盛られた土、塚に刺された梓《あずさ》の枝は白く塗られている。──ここでも、あれだけの者が死んでいる。  珠晶《しゅしょう》は冢堂《ちょうどう》の傍《かたわ》らで白兎《はくと》を降りた。冢堂はおおむね、ひどく殺風景《さっぷうけい》な建物だった。祠廟《しびょう》らしい構えはなく、冢堂の建物だけがぽつんとあって、その建物も、風雨を防ぐための壁がかろうじてあるだけ、扉さえないところに死者を祀《まつ》る祭壇があるが、閑地《かんち》に葬られるのは、この里《まち》で客死《きゃくし》した者だけだから、その祭壇には満足な供養もなかった。祭壇の裏手には埋葬を待つ死者を置いて殯《もがり》などを行う小部屋があって、それだけの建物だった。  珠晶は冢堂の脇にある蓋《ふた》された井戸のそばに寄り、とりあえず勝手に蓋を開けて、釣瓶《つるべ》を落としこんだ。水を汲み上げた桶《おけ》はそのまま白兎に与えて、その傍らにしゃがみこみ、白兎の背を撫《な》でながら旅の間に見慣れてしまった墓地の光景をながめた。──いや、里をひとつ進むごとに、少しずつ新しい冢墓《はか》が増えている。 「……人は死ぬと、ああなっちゃうのよね」  棺《ひつぎ》に入れられて、穴の中に埋《う》められて、土を盛られて、それでおしまい。  死者は虚海《きょかい》の東、蓬莱《ほうらい》に生まれて仙人《せんにん》になるとか、魂魄《こんぱく》が蓬山《ほうざん》中の蒿里山《こうりさん》に飛んで天に罪の決済を受け、悪行善行に応じて神々の世界で官位を得るとか言うが、珠晶などは、これはかなり怪《あや》しいと思う。本当にそうなら、死者ばかりがどんどん増えて、蓬山にしろ神々の住まう玉京《ぎょっけい》にしろ、立錐《りっすい》の余地もなくなるのではないだろうか。  あるいは人に生まれ変わるとも言うが、あいにく珠晶はこれまで、死んだ祖母の生まれ変わりに声をかけられたことがない。姿形《すがたかたち》が変わり、珠晶《しゅしょう》のことさえ忘れてしまうなら、祖母が帰ってきたのじゃない。そんな者は赤の他人だ。  いずれにしても、人の行き着く先にしては、ずいぶんと寂しい風景だ、と珠晶は墓地をながめて思う。  火災などが街に及ばぬよう設けられた閑地《かんち》には、建物を建てることも作物を作ることもできない。荒涼《こうりょう》と刈りこまれた草地が広がり、あるいは瓦礫《がれき》が撒《ま》かれただけの荒れ地に、そこだけ土の色も露《あらわ》に、塚が作られる。塚に刺された梓《あずさ》の枝は、冬の風に傾いて揺れる。倒れているものもあるが、それを起こして刺し直すものもいない。  死者は普通、家族が引き取る。子、孫、兄弟、親、遠く離れていても知らせを受けて駆けつけ、死者を受け取って連れ帰り、自分の土地の片隅に葬って祀《まつ》る。塚を作り、梓を植え、裕福な者は祠《ほこら》をおき、物品を供《そな》えて供養し、季節季節には紙で作った衣類を供える。たとえ魂魄《こんぱく》はすでに離れているとはいえ、死者を慕い、死を惜しむ心が、せめても魂魄の器《うつわ》を拠《よ》り所《どころ》にして死者との交流を失うまいとする。  閑地の墓地は本来、その迎えを待つ間、仮に埋葬されるべき場所だ。だから、家族がよほどの遠方にいるのでなければ、殯《もがり》を延長して少しでも埋葬を待つ。今は冬だからいっそうそうだ。  閑地《かんち》に埋葬されるのは結局のところ、迎《むか》えに来る者を持たない寂しい死者だ。客死《きゃくし》と言えば聞こえはいいが、旅の途中で斃《たお》れた者だけでなく、引き取る家族を持たない者も、やはり客死の扱いになるのだった。家族がなく、家族があっても死者を迎えに来る余裕がなく、あるいは迎えに来るほどの敬愛を得られず、または一家が、いっときに死んでしまい、──さらには浮民《ふみん》で迎えてくれる家族があっても葬るべき土地を持たなければ、必然的に客死の扱いになって、閑地に葬られてしまうのだった。  閑地に埋葬されたまま迎えのない死者は、七年で棺《ひつぎ》ごと掘り上げられ、冢堂《ちょうどう》で墓士《はかもり》に棺ごと骨を砕《くだ》かれる。砕いた骨は府第《やくしょ》の宗廟《そうびょう》に納められ、それで終わりだ。  もっとも、結局のところ、人が所有する土地も国から借り受けているようなものだから、所有者が死ねば新しい所有者がやってくる。普通は廬《むら》の境界にある梓《あずさ》の木には、誰も手をつけないものだが、何かのはずみに梓が倒れて棺が見つかれば、掘り上げられて墓士に渡され、同じように処理されてしまう。──どうせ人など、そうやって終わってしまうのだ。 「それまでにやりたいことを、やらなきゃね」  珠晶《しゅしょう》はつぶやいて、白兎《はくと》の喉《のど》を撫《な》でた。金茶の目に笑って、媼袍《わたいれ》を脱《ぬ》ぐ。繻子《しゅす》のそれを脱いでしまえば、その下から恵花《けいか》の薄い綿入れが現れた。 「……さむ」  さすがにまだ陽が傾けば、冷えこみが厳しい。連檣《れんしょう》からずいぶんと、南東へ向かってきたのだけれど、少しもましになった気がしない。はるか南、奏国《そうこく》など、冬がないというくらいなのだから、きっと暖かいだろうと期待していたのに。  珠晶《しゅしょう》は名残惜《なごりお》しく繻子《しゅす》の暖かな媼袍《わたいれ》をたたんで、白兎《はくと》の背に振り分けた荷袋の中に入れた。さて、今夜の宿をどうしよう。  恵花《けいか》の媼袍を着こんできたのは、──その前に、その恵花に媼袍を脱《ぬ》いでもらわなければならなかったわけだが──あまりに裕福な格好をしていると、草寇《おいはぎ》の的になるだけだと考えたからだ。ところが、珠晶には孟極《もうきょく》がいる。孟極のためには騎獣《きじゅう》の扱いになれた厩番《うまやばん》のいる舎館《やどや》が必要なのだが、どこからどう見ても珠晶の身なりは舎館の格式にふさわしくない。しかもそのうえ騎獣を持つほど豊かなようには見えないから、どうしたって舎館の者は怪《あや》しむ。一度など、府第《やくしょ》に突き出されそうになって、あわてふためいて逃げ出さなくてはならなかった。 「……さすがに手がつきてきたのよね……」  おおむね珠晶は、家公《しゅじん》に命じられて騎獣を届けにいく使用人をよそおってここまでを来たのだが、十二の子供が騎獣を任され、ひとりで旅をする胡散臭《うさんくさ》さ拭《ぬぐ》えない。しかも南東へ進めば進むほど、治安《ちあん》はどんどん悪くなって、舎館《やどや》の客を見る目も厳しい。前の街ではとうとう宿が取れなくて、冢堂《ちょうどう》の床下に潜《もぐ》りこんで寝た。二晩続けて寒い冢堂で寝るのは勘弁して欲しいところだし、それ以上に、今夜こそ白兎《はくと》を休ませてやりたい。  治安が悪いのは、南ほど荒廃が深いからだ。災害は場所を選ばないが、妖魔《ようま》は南からやってくる。特に陽が傾いてくると、妖魔の気配を感じるのか、白兎が落ち着かない。昨夜など、一晩中、唸《うな》り通しで、そのせいだろう、今日は足に力がなかった。せめて野木《やぼく》を探せるといいのだが──なぜなら、どういうわけだか、野木の下は安全だからだ──この寒空に野宿はどう考えても珠晶《しゅしょう》のためによろしくない。  またいつかのように、人の好《よ》さそうな住人を泣き落として宿《やど》を請《こ》おうか、それとも、うかつそうな旅人を嘘《うそ》八百で丸めこんで、なんとか連れということにしてもらおうか。──しかしこれらの方法も、前の里《まち》では徒労に終わった。 「困ったな……」  珠晶のつぶやく声を聞きとがめたかのように、白兎が低く唸った。珠晶はあわてて、白兎の顎《あご》の下に手を差し入れ、喉《のど》を撫《な》でてやる。 「ごめんね。だいじょうぶよ、今夜こそ、あんただけでも厩舎《きゅうしゃ》に休ませてあげるわ」  声をかけたが、白兎の唸りはやまない。そればかりでなく、白兎の目は珠晶ではなく、冢堂《ちょうどう》のほうに向いている。 「……どうしたの?」  白兎《はくと》の首を抱きしめたとき、小さな音が耳に入った。  珠晶《しゅしょう》は思わず白兎を抱く手に力をこめた。なぜならその音は、白兎が喉《のど》を鳴らす音に、いたく似ていたからだ。──虎《とら》の類《たぐい》の生き物の声だ。恭《きょう》には虎が棲《す》まないが、虎の類に似た妖魔《ようま》ならひんぱんに現れる。  それは冢堂の影から聞こえたように思った。逃げようか様子を見てみようか、珠晶は迷う。逃げたほうがいいと分かっていても、そこにいるのが何者なのか、確かめずに逃げることはどうしてだかできない。ひょっとしたら確かめないでいることが怖《こわ》いのかもしれなかった。  どちらもしたくて、どちらもできない。その思いに竦《すく》んでいるうちに、再度、喉を鳴らす声が聞こえた。それと同時に、冢堂の脇からひょいと顔をのぞかせたものがある。  珠晶は喉の奥で声をあげて飛び上がり、白兎を抱いたまま逃げようとして当然のことながら転び、あわてて冢堂を振り返って、そしてすぐに息を吐いた。 「……なんだ」  白兎の頭より、一回り大きな頭がのぞいている。虎のようだが、虎でないことはすぐに分かった。虎《とら》の目が白兎《はくと》と同じ金茶であることは、朱旌《たびげいにん》の見せ物で虎を見たことがあるから知っている。手綱《たづな》がかかっているから、騎獣《きじゅう》であることは明らかだ。 「おどかさないでよ、もう」  珠晶《しゅしょう》はその生き物をにらんで、そして立ち上がって冢堂《ちょうどう》の裏に向かった。騎獣《きじゅう》は特に逃げる様子もなく、珠晶をじっと見つめている。 「……やっぱり、|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》だわ」  冢堂の裏手にいた騎獣は、鞍《くら》を置いたまま、身の丈ほどもある長い尾を地に這《は》わせて寝そべり、ただ首だけを仰向《あおむけ》けて珠晶をながめている。珠晶はその目をのぞきこんだ。 「すごいわ。なんて、綺麗《きれい》な目……」  黒い真珠のような色。真珠よりももっと強く、鮮《あざ》やかに小さな光が隠《かく》れている。  さすがの万賈《ばんこ》も、※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞はもっていなかった。勇猛にして果敢、騎獣の中では最速を誇るが、たやすく手に入るものではない。確か何かの行列で、禁軍《きんぐん》の将軍が連れているのを見かけたことがあった。  珠晶は首を傾けた。撫《な》でてみてもいいだろうか。騎獣の中には気が荒く、主人以外には決して馴《な》れないものもいるが、この※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞はそうでもなさそうだった。しかも※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞はとても利口《りこう》だと聞いているし。  そっと手を伸ばしたときだった。 「こらこら」  声をかけられて、珠晶《しゅしょう》は文字通り飛び上がる。あわてて振り向くと風|避《よ》けの布を被《かぶ》った男がひとり立っていた。 「手を出さないほうがいい。咬《か》まれたらお嬢ちゃんの腕なんか、なくなってしまうぞ」  男はいったが、言葉のわりに本人は明るい笑顔を浮かべている。 「この騎獣《きじゅう》、おにいさんの? ※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞でしょ?」  二十の始めというところだろうか。破顔すると、もっと若いようにも見えた。身なりは※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞にふさわしく、かなり良い部類だった。 「詳《くわ》しいな。よく※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞を知っていたね」  ※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞は希少だから、早々お目にかかる騎獣ではない。 「騎獣は好きだもの。──※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞って、咬むの?」 「機嫌《きげん》によるかな。滅多に咬まないけど、咬むことがないわけじゃない。だから、うかつに触らないほうが安全だよ」 「撫《な》でちゃだめ?」  男は笑って、※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞の傍《かたわ》らに膝《ひざ》をつき、その首を抱えて、そら、と珠晶を促《うなが》した。 「よほど騎獣《きじゅう》が好きなんだな」 「すごく好きよ」  珠晶《しゅしょう》は言って、※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞の大きな額《ひたい》を撫《な》でてみる。見かけよりも毛並みは硬い。 「なるほど。──あの孟極《もうきょく》はお嬢ちゃんの?」  珠晶は男の笑顔を見返した。 「……いいえ、あれは家公《だんな》さまの孟極よ。白兎《はくと》というの」  男は軽く声をあげて笑った。 「おもしろいお嬢さんだな。自分より騎獣の名を先に紹介するんだ」 「いけない? あたしは珠晶よ」 「こいつは星彩《せいさい》」  珠晶も軽く笑った。 「あら、すてき。いい名前ね。──おにいさんは?」 「利広《りこう》という」  人の好《よ》さそうな明朗な笑顔に、珠晶は内心で膝《ひざ》を打った。 「おにいさんは、この街のひと? ──じゃないわよね。荷物があるもの」  ※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞の脇に置かれた行李《こうり》を、珠晶は見やる。 「旅のひとだね」 「この街の泊まるの?」 「そのつもりだけど」 「お願いがあるの。……おにいさんが気を悪くしないなら」  なんだい、という優しげな──どこかおもしろがっているふうでもある──声に、珠晶《しゅしょう》は利広《りこう》を上目《うわめ》づかいに見つめた。 「家公《だんな》さまに騎獣《きじゅう》を届けないといけないんだけど、今夜、宿を見つけられるか不安なの。あたしみたいな小さな子供が、騎獣を連れて舎館《やどや》に行くなんて変でしょ? それで昨日泊まった街では、宿を断られちゃったの」 「そりゃあ、大変だったね。この寒いのに、宿なしで?」 「そうなの。冢堂《ちょうどう》の床下に潜りこんで寝たの。可哀想《かわいそう》でしょう?」  利広は目を丸くした。 「そんな、無茶な。あちこちに妖魔《ようま》が出るのを知らないのかい?」 「だって他に泊まるところがなかったんだもの」 「剛胆《ごうたん》なお嬢さんだな。妖魔に襲われたらどうするつもりだったのかな?」 「そういうことは起こらないの。あたし、日頃の行いがいいから」 「そういう問題かなあ」 「深く気にしても始まらないわ。──でも、いくらなんでも、しょっちゅう冢堂《ちょうどう》に泊まっていたら、さすがのあたしの強運もつきる気がするわ」 「だろうねえ。──どこまで行くんだい?」 「ええと、……乾《けん》まで」  利広《りこう》は軽く目を見開いた。 「乾というと、令乾門《れいけんもん》のある、あの乾の街?」 「そうなの」 「それは、本当に難儀《なんぎ》だな。そこまで、ひとりで?」 「仕事だから仕方ないわ。──おにいさんも宿を取るでしょ? ※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞がいるから、ちゃんとした舎館《やどや》を選ぶわよね? 連れだってことにしてもらえないかしら。もちろん、あたしのぶんの宿代はちゃんと払うわ」 「へえ?」 「ええと、だから。……家公《だんな》さまから、これはうちの家生《かせい》で、こういう事情で孟極《もうきょく》を運んでいるから、怪《あや》しまずによろしく、っていうお墨付きをいただいたんだけど、なくしてしまったの」 「おやおや」 「だからと言って、いまさら戻ったら家公《だんな》さまに叱《しか》られてしまうわ。家公さまはとーっても怖《こわ》い人なのよ。あたし、きっとすごくひどい目にあうわ。でも、お墨付きがなければ、舎館《やどや》で変に思われてしまうし、それで困っているの。お願い、助けて」  利広《りこう》は、へえ、とつぶやいて楽しげに珠晶《しゅしょう》を見つめる。 「だめからしら。……ええと、どうしてもだめなら、白兎《はくと》だけでもいいんだけど……。おにいさんが絶対に嫌《いや》だっていうなら、あたしは厩番《うまやばん》ってことで、白兎と厩舎《うまや》に寝てもいいわ。あ、えーと、それも嫌なら、あたしは何とでも……」  利広は突然、声をあげて笑った。 「分かったよ。それくらいおやすいご用だ。連れだと言えばいいんだね?」 「──本当に? ありがとう、あたし、とっても恩にきるわ」  笑ってうなずいて、利広は立ち上がる。 「それじゃあ、閉門する前に行こうか」  ええ、と白兎のもとに駆け戻る珠晶を、利広は呼び止めた。 「お嬢ちゃん、いいことを教えようか?」 「──なに?」  足を止めて振り返った珠晶《しゅしょう》に、利広《りこう》はおおらかな笑みを向ける。 「嘘《うそ》をつくときには、言葉は控えめにしたほうが、本当らしい」  珠晶は目を見開き、そして天を仰《あお》いで息を吐いた。       6 「子供の浅知恵ってこのことよね……」  利広のおかげで問題なく泊まれた舎館《やど》の飯庁《しょくどう》で、珠晶は息を吐く。両手で湯呑みをくるんで、かじかんだ手を暖めた。 「そんなに捨てたものじゃなかったよ」  利広は卓子《つくえ》の向かい側で、こちらは酒で暖を取りながら笑った。 「慰《なぐさ》めてくれなくても結構よ。自分ではうまくやったつもりだったから、腹が立ってるだけ」 「孟極《もうきょく》がいたからなあ」 「白兎《はくと》がいなきゃ、とても乾《けん》までいけないもの。だからって、白兎がいてもおかしくないような身なりをすれば、たちまち草寇《おいはぎ》に捕《つか》まってしまうし」 「……本当に、乾《けん》に行くのかい?」 「そうよ」 「家はどこ」 「連檣《れんしょう》。連檣から乾なんて、とても歩いていける距離じゃないし、それにあたし、先を急いでるの」 「親がいるんだろう? ちゃんと断って出てきたのかい?」 「断るわけないでしょ。乾に行くだなんて、許してくれるはずがないもの」  言ってから、珠晶《しゅしょう》は利広を見上げた。 「……あ、違う。嘘《うそ》よ。忘れて」  利広は、くつくつと笑う。 「もう聞いてしまったな。──べつにだからって連檣の府第《やくしょ》に連絡する気はないよ。お嬢ちゃんが迷子なら、連絡をするけどね」  珠晶は溜《た》め息《いき》をつく。 「油断がならないわ。おにいさんって、人が好《よ》さそうに見えるから、つい口が滑《すべ》るのよね」  利広《りこう》は声をあげて笑った。 「それは誉《ほ》め言葉と取っておこうかな。……家の人に黙って出てきたんだ?」 「そう。家出中なの、あたし」 「おや。それはおおごとだ。──それで乾《けん》まで? 乾に何かあるのかい?」 「令乾門《れいけんもん》があるわ。あたし、蓬山《ほうざん》に行くの。だからってべつに、蓬山に知り合いがいるわけじゃないわよ」  利広は笑みを消して瞬《まばた》いた。 「昇山《しょうざん》するのかい? お嬢ちゃんが?」 「いけない?」  利広はほんの少し、真剣な面持ちで珠晶《しゅしょう》の顔をまじまじと見つめた。珠晶はその目線に何かしら気後《きおく》れするものを感じて、自然上目づかいになる。 「……いけなくはないな」  言って、利広はうなずく。 「そうだな。いけなくはない。──けれど、ここから乾までは、まだまだ距離があるからね。私は南から来たけれど、ここより南はさらに治安《ちあん》が良くない。宿を取るのは大仕事だな」 「そっか……」  珠晶《しゅしょう》は唇を噛《か》んだ。認めたくないが、甘かった。孟極《もうきょく》さえいれば、苦もない旅だと思っていたのに。 「そうだね。何か書きつけがあったほうがいいだろうな。この子に騎獣《きじゅう》を預けたので、便宜《べんぎ》を図《はか》ってやってほしい、とか。官の証印がもらえれば言うことがない。どう言いつくろっても、お嬢ちゃんが騎獣を連れてひとりで旅をするのは、妙な話だからね」  珠晶は目を見開いて、利広《りこう》を見上げた。 「協力してくれるの?」 「お嬢ちゃんは、蓬山《ほうざん》までの道のりがどういうものだか分かってるね?」 「分かってるわ。危険だって言いたいんでしょ?」  うん、とうなずいて、利広は再び笑った。 「それが分かっているなら、ま、いいだろう」  利広は翌朝、府第《やくしょ》に赴《おもむ》き、秋官《しゅうかん》を立会人にした証書を用意してくれた。それが実際にどういうやりとりの末に発行されたものであるかは、珠晶も知らない。府第自体は、珠晶のような子供がうろうろできるような場所でもなし、白兎《はくと》と利広の|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》を連れて表で待っているしかなかったからだ。 「これでいいかな?」  利広《りこう》の差し出した証書は、昨夜、舎館《やどや》で珠晶《しゅしょう》と相談のうえ、誂《あつら》えたものだ。そこに立会人となる官吏《かんり》の署名と朱印が入って、たいそう立派なものになっていた。 「……ありがと」 「気に入らないかい?」 「そういうわけじゃないけど」  騎獣《きじゅう》の所有者は父親の名前、運ぶのは珠晶の名前になっている。ここで利広の名を書かれて、後になって白兎《はくと》の所有権を主張されてはたまらない、と思ったのだが、利広には端《はな》からそういう気はないようだった。その父親の名も、相如昇《そうじょしょう》と氏字《うじあざな》で書かれてしまえば、どこで相家の店に知れるか分かったものではないが、姓名ならばさほどの心配はないだろう。  ──だが、と珠晶は思う。旅人の利広が、どうしてこんな書状に官印をもらうことができるのか、そこがどうしても釈然としなかった。 「おにいさん、住まいはどこ?」 「遠いところ」 「遠い?」  うん、と利広《りこう》はうなずいた。 「奏《そう》。──分かるかい?」 「分かるわ。南の国ね? 有名な?」  その長い治世と富裕で高名な奏の国。では、やはり利広は、この街に住んでいるわけではないのだ。  秋官《しゅうかん》は、罪人を裁《さば》くだけでなく、交わされる契約の証人になり、それに類する覚書《おぼえがき》の立会人となる。公《おおやけ》に、まちがいのない書面であることを保証してくれるのだ。そういう仕事が秋官にあることは、珠晶《しゅしょう》も庠学《しょうがく》で習ったから知っている。秋官の証印がある証書が、どれほど信頼されるものであるかも。  だが、そういう性質のものだからこそ、官吏《かんり》は出された書面に黙って証印を捺《お》してはくれないだろう。当然、身元を明かす必要ぐらいはあるのじゃないだろうか。利広は旅人だから、旌券《りょけん》を見せたはずだ。そして、証書に書かれている名前は、利広の名前ではない。 「どうした?」 「……どうして秋官が証印をくれたのかと思って」  ああ、と利広は笑う。 「そりゃあ私は、お嬢ちゃんよりも嘘《うそ》をつくのが得意だから」 「それって、あたしを騙《だま》してるってこと?」  そういうわけじゃない、と利広《りこう》は※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞の手綱《たづな》を取って声をあげて笑う。 「まあね、いろいろとあるんだよ。こういうことにはやり方がさ」  珠晶《しゅしょう》は懐《ふところ》に手を突っこんだ。 「──いくら?」 「いくら?」  利広は瞬《またた》く。 「そういうことなんでしょ? 立て替えてもらったんだもの、払うわ。官吏《かんり》にいくらか掴《つか》ませたんでしょ」 「どっから習ったんだろうね、そんなことを」 「あら、そんなの、商人の常識よ」  利広は笑って、珠晶の腕を軽く叩《たた》く。 「そういうことじゃないよ」 「でも──」  利広は珠晶の前に屈《かが》みこんだ。 「もうじき店の開く時間だ。だろ?」 「ええ、そうね」 「店が開くと同時に、商人たちがどっと書面を持ってくる。朝一番はそういう仕事で、秋官《しゅうかん》はてんてこまいだ」 「……そう?」 「そこに男が駆けこんできて、近くの街で父親を亡くした不幸な娘の話を始める、と」 「……あたし?」 「そう。死んだ男は兄に使われていて、娘と一緒に騎獣《きじゅう》をどこかへ運ぶ途中だったんだけど、哀れなことに草寇《おいはぎ》に襲われ、娘を庇《かば》って死んでしまって、娘は気丈にもそこを命からがら抜け出して、もとより責任感の強い感心な子だから、父親の供養《くよう》よりも父親のやり残した仕事を自分が片づけるほうが先だと考えてだね、この寒空の中、涙を凍《こお》らせて旅を続けてきたのだけれども、あいにく騎獣が徒になって宿が取れずに──」  立て板に水でまくしたてる利広《りこう》の袖《そで》を、珠晶《しゅしょう》は引っ張った。 「あ、あのね」 「なんて偉《えら》い娘だろう、そう思わないか、ねえ、きみ。だいたいこのご時世は、なんだ。そもそも兄弟で使うの使われるの、その兄というのがひどい男で──」 「と、言ったの?」 「官は、店の開く刻限を気にする。ともかくも忙しい時間までに目の前の書面を片づけたい気分でいっぱいだ。にもかかわらず、目の前の男は哀《あわ》れな娘の話をやめようとしない──と、いうわけ」 「……呆《あき》れた」  利広はどこまでも快活に笑う。 「嘘《うそ》はたくさんついたほうが、良い場合もある、ということだね」 「とっても勉強になったわ」  珠晶《しゅしょう》は肩をすくめてから、利広を見上げた。 「ねえ。どうして、そこまでしてくれるの、って訊《き》いてもいい?」  利広は立ち上がって、改めて※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞の手綱《たづな》を取った。 「それは訊きっこなしだ。私だってお嬢ちゃんに、どうして昇山《しょうざん》するのか、と訊かなかっただろう?」 「どうしてもこうしてもないわ。あたしより他に、ろくな人間がいないからよ」 「そうかい? ──ともかく、気をつけてお行き」 「おかげで、だいじょうぶだとは思うわ」 「乾《けん》まではね。性根《しょうね》を据《す》えないといけないのは、それからだ」 「ええ。──ありがとう」  利広《りこう》は笑み、そして※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞を促《うなが》した。珠晶《しゅしょう》はしばらく、遠ざかる利広を見送っていた。       7  利広が取ってくれた証書のおかけで、珠晶はその後、宿に困ることがなかった。予定通りにまっすぐに街道を抜けて黒海《こっかい》へ抜けた。  珠晶はそれまで、海を見たことがなかった。ほとんど連檣《れんしょう》を出たことがなかったのだから仕方がない。広大な水面に驚き、そして初めて心細く感じた。連檣は凌雲山《りょううんざん》に抱きこまれた街だ。そこに生まれ育った珠晶にとって、こんなにも見晴らしの良い場所は寄《よ》る辺《べ》なく感じられてならない。 「いろんなところがあるわね。……行こ、白兎《はくと》」  珠晶の不安を感じ取ったのか、同じく不安そうな白兎を撫《な》でて、珠晶は騎獣《きじゅう》を疾風《はやて》の速度で進ませる。  黒海沿いの街道を数日、南下し、臨乾《りんけん》の街を目指す。臨乾は恭国《きょうこく》の突端にある。乾海門《けんかいもん》を隔《へだ》てて対岸は乾県《けんけん》、令乾門《れいけんもん》のある乾の街はそこにあった。 「春分までまだ、六日あるわ。白兎《はくと》のおかげね」  そして、利広《りこう》の。  騎乗《きじょう》した珠晶《しゅしょう》に首筋をいたわるように叩《たた》かれ、白兎はいっそう足を速くする。白兎は先に進みたかった。なぜだかは分からない。南から風が吹けば、旅の疲れさえ忘れて気が逸《はや》った。珠晶の手綱《たづな》がなければ、このまま目の前の青く広い場所を駆け抜けて先へと行ってみたくて仕方がない。 「そんなに急がないで。昨日みたいに足に怪我《けが》するわよ」  珠晶が手綱を引いても、白兎の足は衰《おとろ》えない。街道に沿って山野を駆け、森を林を文字通り飛び越えていく。ひとつ里《まち》を過ぎるたび、珠晶は指を折る。臨乾まで、あとひとつ。  陽は傾いて、西の山の稜線《りょうせん》に向かって滑《すべ》り落ちようとしていた。空が朱に染まるまでにはまだ間があるが、白兎が地上に残す影は長い。夕暮れになると、山の色が深くなるだけでなく、海の色もまた深くなるものだと珠晶はこの旅で知った。  白兎が廬《むら》を飛び越えようと短く飛翔して、臨乾が彼方《かなた》に見え、そして同時にそれ[#「それ」に傍点]が一瞬、見えた。 「白兎……」  珠晶《しゅしょう》は白兎《はくと》の手綱《たづな》を引く。そのまま空に留まっていたかった。下降を始めた白兎にそれが通用するはずもなく、それ[#「それ」に傍点]に目を奪われたままの珠晶の視線は虚空《こくう》を薙《な》いだ。 「……白兎、飛んで」  言葉を察し、白兎は地に降り立つやいなや、渾身《こんしん》の力で飛翔した。白兎自身の視野が開け、同時に白兎に騎乗した珠晶の視野も勢いをつけて開ける。  眼下に広がるのは淡く春めいた山野、近くの廬《むら》が黒ずんでいるのは、火災でもあって焼けたからだが、とりあえず珠晶の目には、その荒廃の爪痕《つめあと》は映らなかった。目に入ったのは、波頭に白く縁取られた海岸線、海に向かって突出する岬と、その付け根あたりにある港町、さらには屈曲して広がる灰色を帯びた海、──その向こうに、淡く。  裾野《すその》は空の青に溶けこみ、かろうじて見取ることのできる稜線《りょうせん》も色調の違う青、ほんのわずか、薄紫を帯びた青に壁のような青い影が。  ──海の向こうに、巨大な何かが浮かんでいる。  西に傾いた陽射しにほのかに陰影を見せ、海上に帯のように広がるそれ[#「それ」に傍点]。ひときわ明るい一角が、飾り彫りされたような稜線を明らかに、そこから左右へと長大に延び、やがて青の中に溶けこんで消える。 「……金剛山《こんごうざん》」  なんて、大きい。  珠晶《しゅしょう》は肌が粟立《あわだ》つのを感じた。思わず手綱《たづな》の片手を放し、捜した白兎《はくと》の毛並みもまた、毛足に空気をためるようにして逆立っている。  黄海《こうかい》の隔壁《かくへき》、あの巨大な壁の向こうが人外《じんがい》の土地、その中央には五山《ござん》が。  来たのだ、という思いと、あれが、という思い。凌雲山《りょううんざん》の麓《ふもと》に生まれ、育った珠晶にさえ信じられないほどの巨《おお》きさ。  跳躍の頂点に達した白兎は、緩《ゆる》やかに、そして徐々に速さを増して下降する。その青く霞《かす》んだ壁は、山野のうねりの向こうに消えた。 「あれが、金剛山《こんごうざん》……」  珠晶はつぶやく。次いで白兎の首に顔を埋《うず》めた。 「行こう、白兎。あれが、金剛山よ」  白兎は珠晶を振り落とす勢いで地を駆ける。坂を登りきり、なだらかな斜面を下って街道に出、そのまま臨乾《りんけん》の門前を通り過ぎたが、珠晶も手綱を引いたりはしなかった。白兎は途切れた街道を通り過ぎ、灌木《かんぼく》の繁《しげ》る丘を越える。越えたそこが岬の突端だった。  青い海、そして、そこに浮かんだ金剛山の陰影。  突端にたたずむ珠晶の前で、それは薄紫を帯びた青から藍《あい》へと色を変え、西日に稜線《りょうせん》を白くきらめかせて黄昏《たそがれ》の中に溶けて消えた。──いや、それほどの時間、珠晶《しゅしょう》はそれを見守っていたのだ。       8  臨乾《りんけん》は港を擁《よう》する。この港から一日に一便、乾県《けんけん》へと向けて船が出ていた。白兎《はくと》はとても海を渡ることはできない。それでなくても、飛行する騎獣《きじゅう》だって船に乗せる。そのほうが明らかに騎獣にとって楽だからだ。  渋色《しぶいろ》の帆《ほ》を揚《あ》げた船は、半日をかけて乾海門《けんかいもん》を渡る。朝に出た船は昼過ぎに臨乾へと戻る船影とすれ違い、夕刻に幾分間をあけて対岸の港に入った。その間、珠晶は甲板《かんぱん》で山を見ていた。幾度か遠く、海上を妖魔《ようま》のものらしい影がかすめてすれ違っていったが、とりあえず船が襲われることはなかったし、船室に追いやられることもなかった。  船は条風《じょうふう》の名残《なごり》の北東の風を受けて進む。海は切り裂《さ》かれ、白い波になって割れていった。甲板に落ちた帆柱の影は、長く、そして短くなり、東に向かってまた延びていく。戻る船の船影を海上の彼方《かなた》に見かけた頃には、すでに金剛山《こんごうざん》は前方を完全に遮《さえぎ》っていた。  船の到着を報せる鐘の音が、海面を這《は》うようにして響いた。 「ちゃんと着いたじゃない」  珠晶《しゅしょう》は、得意満面で船を降りた。ここまで来れば、乾《けん》までは歩いても三日程度の距離、白兎《はくと》の足なら一日でいい。船が着いた北乾《ほっけん》の街は、乾県の表口とはいえ、そもそも乾県が辺境だから、さほどに大きくなく、宿を探すのにもちょうど良かった。  下船した人々に混じって街に入り、宿を探そうと街路を曲がったところで、背後から軽く肩を叩《たた》かれた。  振り返ると、立っていたのは丸い顔の中年の男で、これが笑みをたたえている。 「お嬢ちゃん、そりゃあ、孟極《もうきょく》じゃないかい」  旅の途中でも何度か聞いた声だ。珠晶のような騎獣《きじゅう》好きは多い。 「そうよ」  男は屈《かが》みこみ、子供のようにふくふくした手で、白い毛並みを撫《な》でた。 「おとなしくて、立派な騎獣だ。──うん、いい目をしてらあ。大事にしてもらってるな」  男はにこにこと白兎の耳の後ろを掻《か》き、珠晶を見上げた。 「こんな見事な孟極には、初めてお目にかかった。お嬢ちゃんの騎獣かい?」 「いいえ、家公《だんな》さまの騎獣よ」  男は珠晶《しゅしょう》の薄い媼袍《わたいれ》に目をやって、にこりとうなずく。 「そうか、そりゃあ、そうだろうな。騎獣《きじゅう》を大事にするのは、あんたの世話がいいからかい、それとも家公《だんな》さまが大事にするからかい」 「家公さまが大事になってるのよ。──あたしも大事に世話をしているけど」  そうか、そうか、とうなずいて、男は立ち上がる。 「いい家公さまだろう。騎獣を大事にする人は、使用人も大事にする」 「それはどうかしらね」  珠晶は言って、男を見上げる。 「もう行ってもいい? あたし、舎館《やどや》を探さないとといけないの」 「なんだい、旅の途中かい?」 「そうよ。おじさんは街の人? だったら、良い厩舎《うまや》のある舎館を知らないかしら」 「良い厩舎なのかどうだか知らないが、騎獣を連れた連中が良く泊まる舎館なら知ってるぜ。案内しよう」 「そんな、道を教えてくれればそれでいいわ」 「なに、一回、騎獣の手綱《たづな》を取ってみたいんだ。おれが案内していくから、その間、孟極《もうきょく》の手綱を取ってちゃいかんかね」 「だめよ、家公《だんな》さまのものですもの。ちょっとでも人に預けたなんてばれたら、叱《しか》られてしまうわ」  そうか、と残念そうに男は言って、やはり笑った。 「用心深い嬢ちゃんだ。なに、騎獣《きじゅう》を預かるものはそうでないといけねえや」  男は破顔し、そして、珠晶《しゅしょう》の腕を掴《つか》んだ。 「ちょっと」  何をするの、と声をあげる間もなく、男が怒鳴《どな》った。 「この盗人《ぬすっと》が!」 「──え?」  珠晶は呆然《ぼうぜん》と男を見上げ、同時に途《みち》を行く人々もまた、何事か、というように足を止めて男を見た。 「おれの騎獣だ! 返せ、この餓鬼《がき》が!」  珠晶は一瞬、気を呑《の》まれて、形相《ぎょうそう》の変わった男の丸い顔をぽかんと見上げた。  どうした、と人の群れから声が上がる。これに対して、男は声を張り上げる。 「この餓鬼が、おれの騎獣を盗みやがったんだ! ──まったく、近頃の子供は油断がならねえ」  吐き捨てるように言って、男は掴《つか》んだ珠晶《しゅしょう》の腕をひねる。痛みのあまり、珠晶は声をあげた。かろうじて、違う、と叫んだものの、果たしてちゃんと言葉になったかどうか。 「ちょっと待ちなさいよ」  人垣から女の声があがった。 「そりゃあ、その子の騎獣だ。あたしゃ、一緒に船で乗ってきたんだもの」 「だろうともよ。おれはこいつを、臨乾《りんけん》の向こうで盗《と》られたんだ。騎獣のまわりをちょろちょろするんで、怪《あや》しいと思ってたんだ」 「まあ……」 「違うわ!」  珠晶は声をあげたが、肩が抜けそうな痛みにその先が言えない。 「なにが、違うだ。──ほら、この通り、こっちにゃ証書があるんだよ」  男が懐《ふところ》から書面を取り出し、広げてかざした。 「孟極《もうきょく》がおれのもんだって証書だ。こっちが、盗まれた届け。どっちも証印がある」  今や珠晶と男のまわりには人垣ができており、その誰もが同情したような視線を珠晶にではなく、男のほうに注いでいた。  まったく、と男は吐き捨ててさらに珠晶の腕をねじりあげた。 「どうせろくでもねえ大人《おとな》が裏にいるんだろう。お前みたいな子供に運ばせるたあ、ばかなこった。どこからどうみても、お前みたいな餓鬼《がき》が騎獣《きじゅう》を連れてりゃ怪《あや》しいに決まってるじゃねえか」  男は言って珠晶《しゅしょう》を小突き、突き飛ばす。 「冗談じゃないわ! それはあたしの騎獣よ!」  珠晶は叫んで、懐《ふところ》に手を入れる。利広《りこう》にもらった証書を引っぱり出した。 「証書ならあたしだって──」  言い終わる間もなく、男はそれをひったくり、二つ四つに裂《さ》いた。 「こんなもの!」  珠晶はその強引なやり口に唖然《あぜん》とする。  男は裂いた証書を丸めて捨てる。白兎《はくと》の背の荷物を解《と》き、その場に放り出した。 「府第《やくしょ》に突き出さないだけ、ありがたいと思え!」  男は言って、間髪《かんぱつ》入れずに鞍《くら》に飛び乗る。白兎は一瞬、珠晶のほうを困惑したように見たが、男の激しい叱咤《しった》を受けて狼狽《ろうばい》したように走り出した。 「ちょっと、待ってよ! ──待ちなさいよ、白兎!!」  雑踏が割れて白兎を呑《の》みこみ、閉じた。あわてて駆け出そうとした珠晶の肩を周囲の大人《おとな》が掴《つか》む。 「放して!」 「どうする、こいつを府第《やくしょ》に──」 「しかし、盗まれた当人が」  口々に言う大人に、珠晶《しゅしょう》は叫んだ。 「違うわ! そこに証書があるわ! あいつが盗人《ぬすっと》なのよ!!」  珠晶と白兎《はくと》の消え去ったほうを見比べ、旅人ふうの男が、途《みち》に転がった紙つぶてを拾い上げた。開いて紙片をつきあわせ、ぽかんと口を開く。 「──本当だ」 「だからそう言ってるじゃない! なんて間抜けなの、大人のくせにっ!」  あわてたように小走りに駆け出す者があり、書面をのぞきこもうと、集まった者があった。 「まちがいなく証印がある」 「しかし、あいつも」 「ちらっと見ただけだ。まじまじと見たわけじゃねえ」  暢気《のんき》な詮議《せんぎ》をしている大人たちの手を振りほどき、珠晶は走り出したが、もちろん広途《おおどおり》のどこにも、白兎《はくと》の姿は見えなかった。何人かの大人が珠晶《しゅしょう》の後をついてきて、一緒になって探してくれたが、手近な門を出ていったことが分かっただけだった。 「その……すまなかつたな、嬢ちゃん」  言って男が珠晶の荷物を差し出した。拾ってくれたのだろう。それを珠晶はひったくる。白兎の背に振り分けていた二つの荷袋は、珠晶が抱えるにはいささか大きすぎた。思わず膝《ひざ》をついて、珠晶は息を吐く。 「ええと、嬢ちゃん……その、府第《やくしょ》に行くかい?」  珠晶は男を振り仰いだ。 「……府第はもう、閉まるんじゃない?」 「じゃ、明日──」 「ともかく、お礼を言うわ。荷物をありがとう。一緒に捜してくれたのもね」 「……いや。でも」  珠晶はすっかり黄昏《たそが》れた風景を見る。もちろん、白兎の姿はどこにもない。 「仕方ないわ。今は先を急ぐほうが先だもの。……白兎がいないならなおさら」  つぶやいて、困惑したように立ちつくす数人の大人《おとな》たちを見上げた。  残りの旅程は大人の足で三日。珠晶の足ではきわどいところだ。──だが、たどりついてみせる。 「どこか、安くて安全な舎館《やどや》を知らない? 厩舎《うまや》はなくていいわ」 [#改ページ] 二 章       1  春分の未明、乾《けん》の街で少女に出会った男は舎館《やどや》の亭主に引きつった顔で送り出された。  雑踏に押し流され、暗い道を駮《はく》の手綱《たづな》を引いて歩きながらも、頑丘《がんきゅう》は溜《た》め息《いき》を止められなかった。食事を摂《と》る間じゅう、ぜったいに無謀だと、諄々諭《じゅんじゅんさと》したのに、珠晶《しゅしょう》はまったく聞く耳を持たなかった。それどころか、小言を聞きながら飯庁《しょくどう》の卓子《つくえ》に突《つ》っ伏《ぷ》して寝てしまって、そうなるともう腹を括《くく》るしかない。  黄海《こうかい》には慣れている。昇山《しょうざん》の者は数も多い。家人や護衛を連れた者も多いし、健脚の騎獣《きじゅう》もいる。べつに騎獣を狩りにわざわざ危険な場所に踏みこむわけでもなし、蓬山《ほうざん》まで連れて行って戻るだけなら不可能ではないだろう。昇山の者を護衛したことはないが、それを仕事にしている剛氏《ごうし》と呼ばれる連中なら、同じ黄海《こうかい》に入る同朋《どうほう》だから知り合いも多い。苦労話は山ほど聞いているから何とかなるだろう。蓬山《ほうざん》に留まる間、狩りもできる。それで六十五両なら、楽な商売かもしれない、と自分に言い聞かせ続けた。 「ねえ、おじさん?」  頑丘《がんきゅう》にとりついた厄介《やっかい》の種は、寒そうに肩をすくめながらも、無邪気に頑丘を見上げた。 「なんだ」 「どうして、布を被《かぶ》ってるの?」  頑丘は舌打ちをしてこれには答えなかった。頭から布を被っているのは、知り合いに顔を見られたくないからだ。こんな子供を黄海に連れて入るなど、どうあっても仲間には知られたくない。いい物笑いの種だ。 「まったく……」  息を吐くと、珠晶《しゅしょう》は笑う。 「おじさんも諦《あきら》めが悪いわねえ。お金が要《い》るんでしょ?」  そうとも、と口の中でつぶやいて、頑丘は珠晶を見おろした。珠晶は嬬裙《きもの》を脱《ぬ》いで、頑丘が昨夜のうちに求めてきた粗末な袍《ほう》を着、媼袍《わたいれ》にくるまっている。嬬裙を脱ぐのは嫌《いや》だ、袍《ほう》など嫌《いや》と駄々《だだ》をこねられるかと思ったが、長い裾《すそ》は邪魔になる、などと説得をするまでもなく、あっさりと着替えてくれたので助かった。 「……なあ、お前、あの金はどうしたんだ」 「盗んだわけじゃないわよ。家にあったのを、洗いざらい持ち出してきたの」 「おい」 「それと、家の騎獣《きじゅう》とね。でも、騎獣はあんたみたいな意地悪な大人《おとな》に盗《と》られちゃったわ。ひどい話よね。そのあげくに、やっと見つけた宿まで横取りするんだから、大人って本当にどうしようもないわ」  結果として、横取りしてないじゃないか、と思いながら、頑丘《がんきゅう》は問い返した。 「騎獣?」 「白兎《はくと》というの。孟極《もうきょく》よ。分かる?」  言って珠晶《しゅしょう》は、あたりの露天をのぞきこみながら、孟極を奪われた話をする。こんな早朝に店が開いているのは、最後の最後に荷を買い足す人間がいるからだ。昨夜のうちにとりあえず二人分の荷を作っておいたものの、何か漏《も》れはないかと、頑丘もまた店先をのぞきこむ。 「とっても馴《な》れてて、おとなしくて、足だってすごく速かったし、あたしの気持ちが分かるのかしら、って思うくらい利口《りこう》で、なのに」  悔《くや》しそうに珠晶《しゅしょう》は口を噤《つぐ》んだ。 「……なるほどね。そりゃ、嬢ちゃんが悪い」 「どうしてよ」  頑丘《がんきゅう》は砂糖で煮《に》て干《ほ》した杏《あんず》を少しばかり求めて、それを荷の中に突っこみながら珠晶を振り返った。 「孟極《もうきょく》は人なつこい。お前さんの騎獣《きじゅう》だけじゃなく、総じてそういう生き物なんだ。黄海《こうかい》にいる孟極でさえ、餌《えさ》を振ると寄ってくる。騎獣にするために馴《な》らしてあるんじゃ、なおさらだ。人が声をかけりゃ、深く疑わずについていくようなやつだからな、孟極の手綱《たづな》は絶対に放しちゃならない。街に入っても降りない。信用できる番人のいる厩舎《うまや》に入れるまでは、気を抜かない」 「そう……なの?」 「そうだ。そもそも鞍《くら》を降りたのがまちがいだな。しかし、そいつは、府第《やくしょ》に突き出されなかっただけ、運が良かった」 「突き出されたら、あたしの勝ちよ。ちゃんと証書を持ってたんだから」 「どうだかな。連中の証書も本物だぜ」  珠晶《しゅしょう》は瞬《またた》いた。 「本物? どうして?」 「そういう悪辣《あくらつ》な猟尸師《りょうしし》もいるんだ。黄海《こうかい》で狩りをせずに、乾県《けんけん》で狩りをする連中がな。黄海に行く連中は騎獣《きじゅう》を持っていることが多いから。──お前さんは、臨乾《りんけん》で目をつけられてたんだ。船に乗る騎獣に目星をつけて、対岸の北乾《ほっけん》に青鳥《しらせ》を飛ばす。孟極《もうきょく》が行く、とな。北乾でお前を待ちかまえていた連中はあらかじめ用意してある証書の中から、孟極のものを選んで、引っ張り出す。連中は騎獣を常に扱っているから、そういう証書ならいくらでも持っている」  珠晶はむっとして黙《だま》りこんだ。 「盗まれたという証書は臨乾の連中が取って送ったんだろうな。徒党を組んで騎獣を盗んでさばいてるんだ。今頃は範国《はんこく》かな。まあ、まず取り返す術《すべ》はない」 「覚えてらっしゃい」  小さく珠晶がつぶやいて、頑丘《がんきゅう》は珠晶を見やる。 「あたしが登極《とうきょく》したら、一網打尽《いちもうだじん》よ。絶対に後悔させてやるわ」  頑丘は肩を落とした。 「お前、昇山《しょうざん》するだけでなく、王になる気でいるのか?」 「あら、昇山《しょうざん》ってそのためにするものでしょ?」 「自分が選ばれるとでも思っているのか」 「そう思って、どうしていけないの?」  はいはい、と頑丘《がんきゅう》はつぶやいた。  孟極《もうきょく》は悪くない騎獣《きじゅう》だ。徒党を組んだ連中が獲物として狙《ねら》うくらいだから、いい値がする。それを所有していたくらいだから、相当に家は羽振りが良いのだろう。みれば、どことなく品の良さげな子供ではあるし、人にものを命じることに慣れている様子でもある。世間知らずの富豪の娘が、珠《たま》のように大事にされたあげく、思い上がって蓬山《ほうざん》をめざす。──そんな例を聞いたことはないが、あってもおかしくはないことのような気がした。 「まあ、銭《ぜに》まで盗まれずに良かったな」 「そのためにわざわざ、嬬裙《きもの》を取り替えてきたんだもの。貧乏くさい格好をしてれば、まさか子供があんな大金を持ってるなんて思わないでしょ?」 「小賢《こざか》しいこって」 「あら、そういうのは聡明《そうめい》、と言うのよ」 「どうだかな」 「どうして」  珠晶《しゅしょう》は頑丘《がんきゅう》を振り仰ぐ。頑丘は騎獣《きじゅう》を叩《たた》いてみせた。 「俺はこの金を持って逃げるかもしれないぜ?」 「おじさんってば、お利口《りこう》じゃないのねえ……」  珠晶は溜《た》め息《いき》をつく。 「おじさんの名前は頑丘、あの舎館《やどや》のおじさんの知り合いの猟尸師《りょうしし》でしょ? 持ち逃げしたら、すぐさま県城《けんじょう》に訴《うった》え出てやるわ。ここが何州だか知らないの?」 「……緯州《いしゅう》だ」  乾県《けんけん》は首都州である緯州の飛び地だった。 「そうよ。緯州のお役人には、顔が利《き》くのよ。あたしが、じゃなくお父さまが、だけど。北乾《ほっけん》では先を急いでいたから大目に見たけど、これで春分に間に合わないようなことがあったら、ぜったいに訴え出てやるから」 「さようで……」  まったく、小賢《こざか》しい、と頑丘は息を吐く。 「だが、その嬢ちゃんの口が閉じたまんまならどうだかな。黄海《こうかい》に入って死ぬ人間なんざ、いくらでもいる。死体を運ぶこともできんから、そのままそこに置き去りだ。そうなったら訴《うった》えようにも、訴えようがないんじゃないか?」  ふん、と珠晶《しゅしょう》は小さく鼻で笑った。 「そういうことは、起こらないの」 「なんで」 「あたしが死んだら、王さまになる人がいなくなるでしょ。天の神さまがなんとしてくれるわ」  頑丘《がんきゅう》は思わず肩を落とした。 「あのなあ……」  笑って珠晶は頑丘の手を握《にぎ》る。 「孟極《もうきょく》を盗《と》られて、ひょっとしたら春分に間に合わないかと思ったの。でも、ちゃんと間に合ったもの。きっと天がそれをお望みなのよ」 「さいで」 「あたしが王さまになったら、悪いようにはしないわ。おじさん、運が良かったわね」  いったい、この自信はどこから来るんだ、と頑丘は溜《た》め息《いき》を落とした。 「……蓬山《ほうざん》は遠いぞ」 「騎獣《きじゅう》があるから平気よ」  騎獣《きじゅう》は盗まれたのじゃなかったのか、と頑丘《がんきゅう》が珠晶《しゅしょう》を見ると、珠晶は頑丘の駮《はく》を見上げた。 「おじさんが騎獣を厩舎《うまや》に預けてる、って言ってたでしょ? だから雇《やと》ったのよ」  目敏《めざと》いというか、やはり小賢《こざか》しいと言うべきか。いずれにしても肩が落ちるのは確かである。 「……畏《おそ》れいったよ」  思わず背中を丸めた頑丘の背中を、珠晶は叩《たた》いた。 「自分と比べて、気を落とすことはないわ。あたし、近所でも賢いので有名だったんだもの」  さらに肩が落ちるばかり、もはや相槌《あいづち》を打つ気もない頑丘である。       2  押し黙って頑丘が歩く脇を、珠晶は小走りに歩いていた。頑丘と違い、珠晶の足は軽い。夜明け前の道は霜《しも》が降って寒く、子供の足に道のりは長く、しかも港町から半ば駆けるようにして三日の距離を踏破《とうは》した足は、一晩程度の休息ではいっかな疲れが取れた気もしなかったが、珠晶《しゅしょう》はそれを少しも気にしていなかった。  本当に間に合わないかと思った。それがなんとか間に合って、前日にたどりついたというのに、道案内まで雇《やと》えた。昇山《しょうざん》する者を護衛するのを商売にしている連中もいると聞いていたし、もちろん黄海《こうかい》を越えるのにはそういった人間が必要だと分かっていた。それを白兎《はくと》を盗まれて、春分に間に合うことはできても、護衛を探す時の余裕はなかろうと覚悟していたのだ。それがこうして運良く、黄海に慣れていそうな随従《ずいじゅう》も見つかったぐらいだから、きっとこの先も何とかなるだろう。  今は緊張よりも物珍しさのほうが強かった。街の北西から隔壁《かくへき》に沿って、頑丘《がんきゅう》は南へと歩いていく。広い街路は連檣《れんしょう》と大差なかったが、道に仕切りがあるのが珍しい。連檣では広途《おおどおり》と広途の交わった場所には何もない。道幅分の四方の四角い土地があるだけだ。ところがこの街にはそこに道幅いっぱいの建物があった。石造りの四角いがらんどうがあって、四方に大きな鉄の扉がある。隔壁や城壁にも出っ張りが多く、広途に並ぶ店はどこも門や扉を持っている。  それらを物珍しい気分で見回しながら、人波に乗って南東へと流れ、やがてひとつの門の前に出た。 「あんなところに門があるわ」  珠晶《しゅしょう》は声をあげた。  街を一周する大還途《だいかんと》、その広い街路は、ひとつの門の前で広場のようになっている。人が流れ、淀《よど》み、その先に大きな門の箭楼《みはりば》が聳《そび》えていた。 「ここは南東よね?」  珠晶が頑丘《がんきゅう》を見上げると、頑丘は息を吐く。 「そうだ」  頑丘はその五重の楼閣《ろうかく》を見上げた。  県城《けんじょう》ならば十二方位に十二門、これが通例である。しかしながら、乾《けん》の街には辰門《しんもん》と巳門《みもん》が存在しない。そのかわりに街の南東の角を大きく切り落としたようにして、山に向かって開いた別の大きな門があった。 「──地門《ちもん》だ」  宗闕《もん》の間近には峰が迫り、幾重《いくえ》にも重なった細かく薄い頂《いただき》の彼方《かなた》には夜明けの近い薄青の空に黒く、一枚の壁が立ちふさがっている。鋭利な山頂を鋸《のこぎり》の目のように見せながら、左右に広がるその壁の、両端は滲《にじ》み、未明の大気に溶《と》けていく。あれこそが金剛山《こんごうざん》、天にまで届く峰々が千尋《ちひろ》に切り裂《さ》かれて一条の道を作る。これが黄海《こうかい》の内外を結ぶ天下にただ四つしかない道のひとつなのだった。  街のどの門よりもそれが高く厚いのは、地門《ちもん》が黄海《こうかい》に向けて開く門だからだ。年に一度、扉を開く令乾門《れいけんもん》、そこからは黄海に棲《す》む魔物が溢《あふ》れだしてくる。──いや、かつて溢れた、その名残《なごり》というべきだろう。黄海の外側、地門に高く厚い楼閣《ろうかく》が築かれ、黄海の内側には何百年もの歳月を経て、堅牢《けんろう》な城塞《じょうさい》が構築された。いまや黄海の妖魔《ようま》が溢れだすこともなく、地門は無為《むい》に偉容をさらしている。 「大層な門ねえ」  呆《あき》れたようにつぶやく珠晶《しゅうしょう》を、頑丘《がんきゅう》は見た。 「なあ、思い直したほうが良くないか? あの備えを見ろ。年に一度、たった一日門が開くだけでも、あれだけの備えが必要なんだ。この街の建物はどこも石造りだったろう。院子《なかにわ》にも全て屋根がついている。──妖魔が来るんだ」  空に向かって開かれた院子などというものは、この街には存在しない。あちこちに見える大屋根がいずれも青く見えるのは、瓦《かわら》に銅板が貼ってあるからだ。窓は小さく、多くは鉄の格子《こうし》が入り、開口部もまた小さい。扉には必ず鉄板が縦横に貼られている。広途《おおどおり》のあちこちに設けられた建物は途城《とじょう》と言う。隔壁《かくへき》や城壁の突出部と同じく、妖魔が現れたときに、逃げこむための設備だった。襲来を知らせ待避を促《うなが》す鐘を持った坐候楼《みはりば》は通常の街の十倍、この街は妖魔から身を守ることで成り立っている。  頑丘《がんきゅう》が言うと、珠晶《しゅしょう》は屈託もなげに笑った。 「街の人は大変ね。でも、あたしたちは心配ないわ」 「その自信がどっから来るんだかな」  呆《あき》れたような頑丘に、珠晶は澄まして答える。 「天帝の加護があるもの」  はいはい、とうんざりしたようにつぶやいて、頑丘が駮《はく》の手綱《たづな》を引いた。人の波は門前で滞《とどこお》って動かない。まだ閉じている門の、すぐ内側にいるのは兵士の一群のようだった。歩墻《ほしょう》には明々と篝火《かがりび》が焚《た》かれ、無数の兵士の姿が見える。これほどの人にもかかわらず、広場には喧噪《けんそう》がなかった。低いざわめきがあるばかり、冷たい夜明け前の空気すらが張りつめている気がする。 「静かね……」 「それが普通なんだ。これから黄海《こうかい》に行くんだからな。いったん入ってしまえば、夏至《げし》までは出られない。みんなそれを分かっている」 「ふうん……」  珠晶がつぶやくと、頑丘は珠晶を促《うなが》した。人波をかき分けるようにして門の南に向かう。広場の南、地門《ちもん》の脇には祠廟《しびょう》があった。薄闇の中には紫煙が漂《ただよ》い、人が群がっていたが、珠晶《しゅしょう》は連檣《れんしょう》で、そういう祠廟《しびょう》を見たことがなかった。  門もなければ院子《なかにわ》もない。隔壁《かくへき》に密着するようにして建った祠《ほこら》は横に長く、無数の灯明台《とうみょうだい》が立っていた。頑丘《がんきゅう》はその祠に向かい進香《しんこう》する。ぽかんとそれを見やって、珠晶は祠の中をのぞきこんだ。普通、祠廟には多くの神仙が祀《まつ》られているものだが、ここには像が一体しかなかった。誰の像だろう、暗がりに黒ずんで姿形《すがたかたち》がはっきりしないが、皮甲《よろい》をつけているのは分かる。まるで披巾《ひれ》のように細い帯を身にまとっていて、一度見た寺院の神将像《しんしょうぞう》を思い出させた。しげしげと見ていた珠晶の頭を、頑丘が下げさせた。 「ちょっと、おじさん」 「おとなしく無事を願うんだな。ここから先は人の世界じゃない」  地門《ちもん》の外──黄海《こうかい》では人の秩序は通用しない。もはやただ、神仙に加護を願うしかないのだ。  祭壇の脇には水を満たした桶《おけ》がある。そこに無数に浸《つ》けられているのは桃の枝だ。まだ葉のないその枝を頑丘は取り、水滴をかけるようにして自分と珠晶と駮《はく》を払い、枝は駮の鞍《くら》に刺した。桶の脇の石壁には、小さな札が無数に下がっている。そこから札を三つ取り、そのうちのひとつを珠晶の首にかけた。 「なに?」 「お前さんには必要ないかもしれないが、いちおう着けておくんだな」  珠晶《しゅしょう》はその木札を手に取って見た。 「──お札?」 「犬狼真君《けんろうしんくん》の護符だ。黄海《こうかい》を往《い》く者を守ってくださる」  頑丘《がんきゅう》は言って、その古びた札を自分と駮《はく》に着ける。墨の色も滲《にじ》んでいるが、あえて古いものを選んだ。ここで護符を借りた者は、無事黄海を出れば祠廟《しびょう》にそれを感謝をもって返す。古い札はそれだけ長く旅人を守ってきたことになるから、誰もが古びた札を選ぶ。  珠晶は祠《ほこら》を振り返った。するとあの像は犬狼真君のものか。 「犬狼真君なんて、聞いたことないわ」 「不遜《ふそん》なことう言うもんじゃない。黄海で縋《すが》ることのできる、唯一のお方だからな」 「神さまならたくさんいるでしょ?」 「黄海は神から見捨てられた場所だ。そこにわざわざ降りてきて、旅人を救ってくれる方は真君しかいない」 「……ふうん」  珠晶がつぶやいたところで、低く太鼓《たいこ》の音がした。背後の広場が、水を打ったように静まる。  ──地門《ちもん》が開く。       3  黄海《こうかい》を取り巻く金剛山《こんごうざん》の、その山裾《やますそ》の厚みは、頂《いただき》が雲海を突き通すだけに尋常《じんじょう》の厚みではない。壁のようにそびえる峻峰《しゅんぽう》、それを貫き通す広い道にも、金剛山の厚みの分の距離があった。  地門が開けば、削《けず》り取られたように迫る峰と峰の間に、広い谷が続いている。その峡谷は、地門の門前から徐々にその両岸の断崖を高くして、曲がりくねった深い峡谷の道は、実は登りなのだが、まるで地の底に向かって下っていくような錯覚《さっかく》を起こさせた。  峡谷の道幅は六百|歩《ぷ》、これは騎馬《きば》を連ねて隊列が往《い》き来《き》できる広さである。城塞《じょうさい》に向かう兵士を先頭に、人々は黄海へと急ぐ。道のあちこち、道の左右を挟《はさ》む岩肌のあちこちには、半ば透けて薄く雪が残っていた。風はないが、温《ぬく》もりもまたない。  春分の太陽は長く前方の金剛山に遮《さえぎ》られ、夜明け前の薄闇が長い。それでも峡谷が深くなるにつれ、やがてそのうえに細く川のように横たわった空は色を変え、空には弱い陽射しが注ぎこまれ始めた。ちょうど太陽が稜線《りょうせん》に達したところで、峡谷を三々五々進む人々は足を止め、声を上げた。  峡谷の先には巨大な門が立ちふさがっている。内側に傾いているように見えるが、それはそれほど巨大であるからそう見えるにすぎない。門は二層、一層は巨大な一枚岩をくりぬいたもので、ここに人の身の丈の数十倍はある朱塗りの門扉《もんぴ》がびったりと閉ざされてそびえている。二層の高楼《こうろう》は朱塗りの柱に碧《みどり》の瓦《かわら》、中央に小さく門があるが、これには門扉がなく、その上に扁額《へんがく》が黒塗りに金で「令乾門《れいけんもん》」と。 「これが……」  珠晶《しゅしょう》が小さく声を上げた。 「妖魔《ようま》の絵があるわ」  朱塗りの門扉には奇妙な姿の妖魔とも妖獣ともつかぬ生き物の姿が刻印されていた。体は龍《りゅう》、これに大きな両翼がある。 「あれが令乾門を守るという霊獣だ。天伯《てんはく》という」  令乾門は高いが、飛翔する騎獣《きじゅう》さえあれば決して通行は不可能ではない。二層には門があり、しかもその上空が開いている。しかしながら、二層の高楼には天伯がいる。これが禁を犯して黄海《こうかい》に入ろうとする者を雷《かみなり》で打、その魂魄《こんぱく》を取って喰《く》らうという。  頑丘《がんきゅう》にそう聞いて、珠晶は何となく粛然《しゅくぜん》とした思いで巨大な門を見上げながら足を運んだ。珠晶《しゅしょう》と同じく令乾門《れいけんもん》に向かう人々は、一様に重い沈黙に包まれていたが、門前に足を止めると、いっそう強い緊張感が流れた。門前の岩棚には岸壁を削《けず》って歩墻《ほしょう》のようなものが何層かに巡《めぐ》らされているが、今はそこには人影がない。──開門は午《ひる》。  しばしの時間があった。峡谷の空気は張りつめたまま、やがて頭上の高楼《こうろう》から低く咆哮《ほうこう》が響いた。決して大きな音ではない。低く空気の底を揺るがし、いつまでも震わせているような種類の音。咆哮というよりも、唸《うな》り。怯《おび》えたように周囲を見回す人々のざわめきが続いて、その音は唸り声からざわめきへと音色を変えていつまでも続いているように聞こえた。 「……なに」  珠晶もまた小さく声を上げた。頑丘はそれを制す。 「天伯《てんはく》の声だ。……いいから、見ていろ」  頑丘は門の高楼を示した。  青丹《あおに》の高楼、風もなく、立ち寄る鳥の姿もない。天伯の声と人々のざわめきの残響が消えると、あたりには厳粛《げんしゅく》な沈黙が訪れた。  そしてその通行できぬ高楼の門に人影が現れた。最初、小さな黒い影にしか見えなかったそれは、門扉《もんぴ》の一枚岩の上に立ち、そうしてふわりと宙に降り立った。ゆっくりと、沈むようにして下降してくる影は、門扉の中程をすぎたころには、ひとりの老爺《ろうや》なのだと知れる。どこにでもいそうなその老爺は、人々の視線を受けてゆっくりと舞い降り、朱塗りの門扉の下に降り立った。あれが、天伯《てんはく》。その転化《てんげ》した姿だ。少なくともそう、人々は言う。老爺の手足に見える黒い鋼《はがね》の縛《いまし》めが、その証拠なのだ、と。  老爺は門の中央に降り、誰に向かってともなく拱手《えしゃく》した。そうして踵《きびす》を返し、その巨大な門扉に手をかける。高さにして四十丈以上、幅にして二百|歩《ぷ》以上のその門扉の、一枚の重さはいかほどのものか。──だが、それは軽々と開いた。  ゆっくりと門が開くと、同時にそこから暖かな風が吹きこんできた。人々の衣を巻き上げ、髪を散らして峡谷を駆け下る。乾《けん》の人々が何よりも恐れる、黄海《こうかい》の風だ。  老爺は門を開く動作で両手を広げ、門扉はゆるやかに開いていく。その向こうには、こちらと同じく隊列を組んだ兵士の一群を先頭に、まるで鏡像のように多くの人々が集まって固唾《かたず》を呑《の》んでいた。  老爺は粛々《しゅくしゅく》と門の内から外へと両腕を開いて歩く。門はその手に押されるようにして開き、やがて完全に開ききった。老爺はそこで足を止め、今度は門の向こうに向かって拱手して、そうして忽然《こつぜん》と消え失せた。同時に、歓声が湧《わ》いた。  歓声は峡谷を揺るがせる。風か吹き、唸《うな》りを発し、そうして門前の先頭にいる兵士たちが駆け出した。  門の外にいた兵士たちは騎馬《きば》を急《せ》かして弓矢を握り、槍《やり》を握って正面の峡谷へと駆けこんでいく。人波の彼方《かなた》に峡谷に蓋《ふた》するような石造りの隔壁《かくへき》が見えた。黄海《こうかい》の内側にいた兵士たちは同じく騎馬を急かしてそれとすれ違う。労《ねぎら》う声が行き交った。彼らは昨年の春分から一年、城塞《じょうさい》で乾《けん》と乾へ戻る人々を守ってきた。一年を過ぎて黄海を出た喜びに歓声をあげ、弓矢を握ったまま門を越えると、岩棚の歩墻《ほしょう》に向かって駆け上がり、そこで最後の陣を布《し》いた。  それをかすめて騎獣《きじゅう》が飛ぶ。一路黄海へと先陣を切って向かう騎獣は猟尸師《りょうしし》のもの、特に彼らは明日の午《ひる》までに黄海を巡《めぐ》って帰ってくるのだ。その後をのんびりと追うのは夏至《げし》までを黄海で過ごそうという豪気の者たち、あるいは冬至《とうじ》から黄海で過ごして、無事に春分に達した者たちだった。それを呆然《ぼうぜん》と見守っていたのは黄海に不慣れな昇山《しょうざん》の者たちだったが、これまたその喧噪《けんそう》にあわてたように、騎乗し、門の内外へと駆けて交錯《こうさく》する。騎馬を持たない徒歩の者も、我に返ったように駆け出した。 「すごい……」  珠晶《しゅしょう》のつぶやきは歓声と喧噪に押し流されて、かろうじて微《かす》かに頑丘《がんきゅう》に聞こえた。 「これが安闔日《あんこうじつ》だ」  頑丘《がんきゅう》は笑う。黄海《こうかい》の恐ろしさは身に染《し》みて知っているが、それでも四門《しもん》が開く安闔日《あんこうじつ》の、この儀式めいた一瞬だけは気に入っている。 「すごいのね」 「引き返すなら、これが最後の機会だ」  頑丘が言うと、珠晶《しゅしょう》は頑丘を振り仰ぐ。 「今から引き返せば、地門《ちもん》の閉門に間に合う」  珠晶の声は喧噪《けんそう》の中でもきっぱりしていた。 「いや」 「本当に、行くのか?」 「行くわよ。恭《きょう》には王が必要なんだから」 「でもって、それがお前だと言うんだな」 「そうよ。そう見えない?」  勝ち気そうな目を見て、頑丘は息を吐いた。手綱《たづな》を取って駮《はく》に騎乗し、手をさしのべる。 「──乗れ」       4  駮《はく》は地を城塞《じょうさい》に向けて疾走《しっそう》する。安闔日《あんこうじつ》の度《たび》に資材を運び、長い年月かけて作られた堅牢《けんろう》な城塞は、黄海《こうかい》で最初で最後の休憩地だ。飛翔をすれば一瞬の距離だが、すでに峡谷の上空には翼がいくつも見えている。喧噪《けんそう》と恭《きょう》の荒廃《こうはい》をかぎつけて集まった妖鳥《ようちょう》の翼だ。  峡谷は深く、上空からは見通しが利《き》かないのだろう。ここで妖魔《ようま》に捕《つか》まる不運な者は少ない。人波に遅れず城塞までを駆け抜ければ、さほどの危険はなかった。城塞の道幅いっぱいに立ちふさがる宗闕《もん》に駆けこむと、そこからは石の隧道《すいどう》が続いている。所々に設けた天窓から、弱く光が降り注いでていた。石と漆喰《しっくい》で固めた天井《てんじょう》を切って、そこに小さく屋根がついているのだ。煙出し程度の屋根の四方に鉄柵《てつさく》を植えて妖魔を排除し、光と空気を入れていたが、隧道の大きさに比べ、それはいかにも頼りなかった。そこから地響きと足音がするのは、隧道の上の歩墻《ほしょう》に兵士たちが駆け上がっているからだ。  安闔日、その一日、彼らはこの砦《とりで》を死守する。絶対に妖魔に令乾門《れいけんもん》を──乾《けん》の地門《ちもん》を越えさせてはならない。永年の備えによって乾の街の防衛は厚い。そうやって黄海に開く唯一の水際である乾で荒廃をくい止めても、やはり妖魔は徐々に恭《きょう》を侵蝕していた。それら妖魔《ようま》がどこから現れるのかは分からない。金剛山《こんごうざん》を飛行して越えることはできず、四門《しもん》もまた安闔日《あんこうじつ》でなければ妖魔でさえ通り抜けることはできないというのに、確実に妖魔は荒廃した国にやってくる。金剛山に抜け道があるのだとも言い、あるいは黄海《こうかい》から各地の凌雲山《りょううんざん》に向けての隧道《すいどう》があるのだとも言い、あるいはかつて溢《あふ》れた妖魔は王の安寧《あんねい》によって地下にさがり、そこで眠って国の荒廃をかぎとるや、目覚めて彷徨《さまよ》い出るのだとも言う。そのどれもでないのかもしれなかったし、そのどれもであるのかもしれなかった。 「乾の街は大変なのね……」  隧道をゆっくりと駮《はく》で行く背で、珠晶《しゅしょう》はつぶやいた。 「そのうち、恭全体がこうなるかもしれん。だが、他の街には乾ほどの備えはない」 「どうして妖魔なんているのかしら。……あたしが天帝だったら、滅ぼしてしまうわ」  頑丘《がんきゅう》は苦笑した。 「玉座《ぎょくざ》の継ぎが天帝の座か? お前、本当に欲が深いな」 「必要なことをきちんとやってくれる人がいないから、こんなに小さいあたしがいろいろと考えないといけないのよ」 「まあ、せいぜい黄海で命を落とさんようにな」 「あら、おじさんが守ってくれるのよ。そのために雇《やと》ったんだから」  処置なし、と頑丘《がんきゅう》が天を仰《あお》いだところで、前方に明かりが見えた。松明《たいまつ》の明かりではない、白く、揺れることのない陽射しの光だ。  隧道《すいどう》を抜けると、城塞《じょうさい》の内部だった。小さな里《まち》ほどの体裁《ていさい》のある、城とも町ともつかない代物《しろもの》だったが、頑丘の周囲で、同じく旅人が安堵《あんど》したように、あるいは感嘆したように息を吐くのが聞こえた。 「すごいわ、町がある」 「町というほど大したものじゃないがな」  町の道は細い。かろうじて騎馬《きば》が二頭並べる程度の道幅、その両脇に石造りの低い建物がぴったりと続いて並んでいる。その道の頭上も石、隧道の中のような明かり取りが切られて、暗くはないが、決して明るくはなかった。湿気が淀《よど》み、四方の石材は古び、黄海《こうかい》に特有の熱気が籠《こ》もっている。決して居心地《いごこち》の良い場所ではないが、正真正銘、これが人の世界の終わりだった。ここでなら宿が──最低限の土間に寝る施設とはいえ──あり、粗末とはいえ食事も出してもらえる。そもそもは乾《けん》を守る兵馬のための設備だが、その温恵にごく普通の旅人も浴することができる。  頑丘と珠晶《しゅしょう》もまた、その恩恵に浴し、土間に休んで一夜を明かした。珠晶は、昨夜の城塞に群がった妖魔《ようま》の声に眠れぬ夜を過ごしたらしく、顔色が悪い。頑丘が、最後に祠廟《しびょう》に参っていく、と言うと、神妙な顔つきでついてきた。同じく最後に安全を祈願しようとする人間の群れで狭い町の祠廟《しびょう》の前には長蛇《ちょうだ》の列ができている。  いささかの時間をかけて、頑丘《がんきゅう》と珠晶《しゅしょう》は祭壇の前に進んだ。すぐ脇にはちょうど乾《けん》の街の途城《とじょう》のような空間があって、集まった人々が城塞《じょうさい》の扉が開くのを待っている。中には二人に気づいて、驚いたように指さす者もいた。わざわざ人垣をかいくぐって、珠晶の顔を見ようとする者もあった。どうやら珠晶はすでにこの城塞で有名らしかった。 「あんな小さい子供がどうして」 「供《とも》か? 無茶な」 「まさか。午《ひる》には乾に帰るんだろうよ。物好きな見物人だ」  囁《ささや》き交わす声が聞こえて、珠晶はそのほうを軽蔑《けいべつ》をこめて見やり、穴蔵《あなぐら》のような祠《ほこら》に向かって一礼した。  黄海《こうかい》を行く旅人の鎮護《ちんご》、犬狼真君《けんろうしんくん》、柔和な顔に身体《からだ》を覆《おお》った皮甲《よろい》、幾条かの披巾《ひれ》。 「あの披巾はなあに?」  珠晶は小声で頑丘に訊《き》いた。 「さあな。真君は鼓《こ》という妖魔《ようま》の皮で作った皮甲を身につけ、妖魔に与えるための玉《ぎょく》を綴《つづ》った披巾を持つという話だ」 「妖獣《ようじゅう》や妖魔《ようま》は玉《ぎょく》をほしがるの? 妖獣って騎獣《きじゅう》のことよね?」 「妖獣の中には、騎獣になるものがいる、と言ったほうがいいだろうな。騎獣や妖魔の中には、玉に酔《よ》うものがいる」 「酔っぱらうの? 大人《おとな》がお酒を飲んだときみたいに?」 「じゃないのか。俺もよくは知らんが。ちょうどほろ酔い加減の人間のような状態になるから、酔うというわけだが」 「不思議ね。……そういうこと、庠学《しょうがく》じゃ習わなかったわ」 「そりゃあ、そうだろう。妖魔や妖獣については、分からないことのほうが多い。妖魔と妖獣がどう違うのかも、実を言えば、よく分からんぐらいだからな」  珠晶《しゅしょう》は目を見開き、頑丘《がんきゅう》を見上げた。 「妖魔は人を襲うけど、妖獣は人を襲わないんでしょ?」 「世間ではそういうな。だが、妖獣だって不用意にそばに寄れば、人を襲う。妖魔のように、特に求めて人を狩ったりはしないが」 「へえ……」 「猟尸師《りょうしし》の中には、妖魔と妖獣はそもそも同じもので、人を狩るかどうかで名前が変わるだけだ、と言うものもいるが、妖魔の中にも特に人を求めて狩るわけではないものがいる。妖獣《ようじゅう》は馴《な》らすことができて、妖魔《ようま》は馴らすことができない、と言うが、妖獣の全てが馴らして騎獣《きじゅう》にできるわけでもない。国が荒れたとき、湧《わ》いて出るのが妖魔で、そうでないのが妖獣だというやつもいるが、妖獣の中にも、湧いて出るものがいる。──ただ、妖魔は飼えない。無害な蟲《むし》を捕《と》らえて馴らそうとしたやつもいたようだが、捕らえるとすぐに死ぬ。死ぬとそれを察したように、どこからか大物がやってくる」 「どうしてかしら」 「さあな。人里を徘徊《はいかい》する妖魔が死ぬわけではないから、人の世界に弱いわけではないだろう。捕らえればすぐに死ぬくせに、殺そうとしてもなかなか死なん」 「……ふうん」  つぶやいて珠晶《しゅしょう》は祠《ほこら》の前を離れた頑丘《がんきゅう》の後を追う。 「妖魔は人を狩る。お前、本当にいいのか、それでも?」 「黄海《こうかい》の中には野木《やぼく》はないの?」  山野にあって鳥や獣《けもの》の実をつける野木の下なら、妖魔も妖獣も襲ってはこない。 「黄海で野木を見た者はいない。そもそも当たり前の鳥や獣は、黄海にはいない。猟尸師《りょうしし》の中には妖獣の木を探してる連中もいるが、見つかったという話は聞いたことがない」 「そっか、何も狩りをしなくても、妖獣の木が見つかれば簡単だものね」 「まあな。妖魔《ようま》にしたって、木が見つけられれば話は早い」 「そうよねえ。野木《やぼく》の周囲を包囲して、生まれる端《はし》から殺していけばいいんだものね」  言って珠晶《しゅしょう》は、少し顔をしかめた。子供の実る里木《りぼく》・野木は神聖な木だ。どんな獣《けもの》も木下では互いを襲ったりはしない。木の下にいれば妖魔といえども襲ってこない。その不思議に敬意を払って、木の見える場所では、決して殺生《せっしょう》をしてはならない、と言う。 「妖魔には子供はいないのかしら。小さい妖魔って聞いたことがないわね」 「いない、という話だ」 「本当に?」  珠晶の問いに、頑丘《がんきゅう》はうなずく。 「俺は見たことがない。見たという話を聞いたこともない」 「不思議ね……」 「連中の生まれる木がどこにあるのか、そもそも連中の寿命はどのくらいなのか、どうして妖魔や妖獣には牡《おす》しかいないのか、智恵はあるのか、人語を解するのか、妖魔はどこから湧《わ》くのか、何をかぎつけて出てくるのか、──何ひとつ分からん、分からないから、確実に身を守る術《すべ》がない」 「ふうん……」  珠晶《しゅしょう》がつぶやいた時だった。 「ああ、無事にたどりついたんだね」  明るい声が聞こえて、珠晶は人の群れを振り返った。 「──おにいさん」  物珍しげに珠晶と頑丘《がんきゅう》のほうを見る人垣の間から利広《りこう》が手を振っていた。 「どうしておにいさんが、こんなところにいるの?」  目を丸くして駆け寄った珠晶に、利広は笑う。 「無事に来れたか、気になって。──白兎《はくと》はどうしたんだい?」  珠晶はしゅんと項垂《うなだ》れた。 「……せっかくおにいさんが証書をくれたのに、盗まれてしまったの」  そうか、と利広は労《いたわ》るように珠晶の背中を叩《たた》いた。 「それでよく乾《けん》に着けたね。……やっぱり一緒に来ればよかったかな」 「いいの。ものすごく悔《くや》しいし、白兎は恋しいけど、これで闘志が湧《わ》くってものだわ」  珠晶が言うと、利広は破顔した。 「なるほど」 「でも、どうしておにいさんが、黄海《こうかい》にいるの?」 「珠晶《しゅしょう》ひとりではいろいろと困ることがあるんじゃないかと思って」  珠晶は利広《りこう》の大らかな笑みを見上げる。 「……ひょっとして、一緒に行ってくれるの?」 「護衛はいたほうがいいだろう? 珠晶はしっかりしているけど、どう考えても武器を持って妖魔《ようま》とやりあうには不向きだろうから」  笑って利広は、腰に帯びた剣を示す。  それに笑い返した珠晶の肩をつついたのは頑丘《がんきゅう》だった。 「お前……こいつは」 「ああ、乾《けん》に来る途中で親切にしてもらったの。利広っていうのよ。一緒に行ってくれるんですって」 「はあ?」 「やっぱりねえ、あたしの人徳かしらね。──利広、こっちは頑丘よ。護衛に雇《やと》ったんだけど、もちろん護衛は数が多いほどいいわ」 「そりゃあ、そうだ」  言って、人の好《よ》さげな笑みを浮かべた若者を、頑丘は呆《あき》れた気分で見た。 「お前、こいつを追ってここまで?」 「やっぱり気になるじゃないですか。珠晶《しゅしょう》のような小さい人が黄海《こうかい》なんて」 「黄海に来ると知っていたのか?」 「珠晶がそう言っていたから」  頑丘《がんきゅう》はその笑顔に怒鳴《どな》りつけた。 「聞いたんなら、お前、笑ってないで止めろ!」  彼はにこりと笑う。 「そういうあなたは? 止めなかったんですか?」  あっさり問われて、頑丘は思わず言葉に詰《つ》まった。 「……止めようとはしたんだが」 「止められなかったんでしょう。そうだろうと思うな」  言葉に窮《きゅう》して、頑丘はその脳天気そうな笑顔をねめつける。 「頑丘、喧嘩《けんか》はだめよ。いい大人《おとな》なんだから。護衛同士、仲良くしてね」  言って、得意そうに頑丘を見上げる少女の笑顔が小面憎《こづらにく》い。 「……戻る気はないのか。今ならまだ乾《けん》に戻れる」 「何度|訊《き》いても同じよ。頑丘はあたしに雇《やと》われたの。──さっとと案内しなさい」  さっさと、と珠晶《しゅしょう》は言ったが、実際に城塞《じょうさい》の、黄海《こうかい》へと出る扉が開いたのは、それからかなり経《た》ってのことだった。頭上の歩墻《ほしょう》が静まった気配がし、扉の外から開扉《かいひ》を促《うなが》す声がして、それでようやく扉の前に佇《たたず》んでいた兵士が閂《かんぬき》を外《はず》した。  生臭《なまぐさ》いにおいと共に、強い光が射しこんで、珠晶は目を細める。兵士が促して、すでに旅装を調《ととの》えていた人々は、おそるおそるというように外へと足を踏み出した。その列に続いて珠晶と頑丘《がんきゅう》が外に出てみると、生臭いのもそのはず、城塞を出た広場の隅には、恐ろしげな獣《けもの》の死骸《しがい》が積み重ねられていた。 「頑丘……」  あれ、と示す珠晶に、頑丘はうなずく。 「帰る気になったか?」 「冗談じゃないわ」  珠晶は言って見せたものの、思わず背後を振り返る。人の波の中に騎獣《きじゅう》を取りに行った利広《りこう》の姿を捜した。すぐに利広が出てくるのが見え、彼が珠晶に気づいて手を挙《あ》げて、その、いっかな気後《きおく》れした様子のない笑顔に、ほんの少し安堵《あんど》する。  城塞の上の歩墻にも、付近の岩棚の上にも、兵士たちが立って空をにらんでいた。頭上は暖かな青い空、とりあえず何者の姿も見えない。  軽く息を吐いて、珠晶《しゅしょう》は広場に集まって人々をながめ、その広場から落ちこむような傾斜で下る岩だらけの斜面を見た。その下に広がるのは見渡すかぎり緑の樹海。──これが、黄海《こうかい》。  左右に迫った金剛山《こんごうざん》のほかには、特にどうということもない光景に見えた。 「意外に普通なのね、黄海って」  言った珠晶の声を聞きつけて、頑丘《がんきゅう》は心中で、どうだか、とつぶやいた。頑丘は黄海をよく知っている。そうでない猟尸師《りょうしし》は生き残れないからだ。  広場に集まった人々の群れから、三々五々離れる者たちがいる。これから次の安闔日《あんこうじつ》まで黄海の中に留まって狩りをする猟尸師たちだ。後を追おうとして踏みとどまり、動かない人の群れを困惑したように振り返ったのが昇山《しょうざん》の者たち。残ったのは総勢で五百人近い人の群れだった。  昇山の者は、それぞれが多く随従《ずいじゅう》を伴う。中には数十の護衛を連れているものまであるのが普通だった。そのほとんどが武器を携行《けいこう》し、馬車で大量の物資を運んでいる者もいる。おそらく核となる昇山の者は、八十名程度というところか。  それを確認して、頑丘は安堵《あんど》の息を吐いた。麒麟《きりん》が王の選定に入り、昇山が可能になってから二十年。これほどの時間が経《た》てば、昇山する者の数は減って当然である。たとえ恭《きょう》が地元の安闔日《あんこうじつ》とはいえ、これはよく集まったと言ってもいい。これらの人々の恩恵によって、頑丘《がんきゅう》たちの旅の苦労は格段に軽減されるだろう。  なにしろ、自分だけが助かればいい、などと言う輩《やから》はいない。少なくとも思っても口に出せる性質のことではない。彼らはこれから、天にその人格を試されるのだ。  彼らの随従の保護と、彼らが持ちこんだ豊富な物資の恩恵は必要になる。なにしろ、駮《はく》一頭に積める物資には限りがあり、道のりは長い。物資は何もかも最低限、間違いなく行程に足りるほどは積めないから、不慮《ふりょ》の事態が起こって物資が尽きれば駮の健脚にものを言わせ、一気に残りの行程を飛行せねばならないところだ。だが、飛行する者は妖魔《ようま》の標的になりやすい。格段に陸路よりも空路のほうが危険なのだった。 「よし、こりゃあ、ついてるぞ」  頑丘がひとりごちたとき、利広《りこう》が追いついてきた。連れた騎獣《きじゅう》を見て、頑丘は顎《あご》を落とす。 「……|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》だ」  利広は笑った。 「そうか、頑丘さんも騎獣好きなんだな」  笑った利広《りこう》の袖《そで》を珠晶《しゅしょう》は引っ張る。 「頑丘《がんきゅう》は猟尸師《りょうしし》なの」 「へえ」  利広の感心したとも驚いたともつかない声を聞きながら、頑丘は思わずその※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞の前に膝《ひざ》をつく。 「こいつはすごい。──これ、まさかあんたが捕《つか》まえたのかい」 「とんでもない。これはもらったんだ」 「もらう、って」  頑丘はさらに驚いて、造作《ぞうさ》もなく言った利広の笑顔を見上げた。※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞一頭、捕まえて売れば、二度と黄海《こうかい》に入らずにすむ。 「……そういう気前のいい人間と知り合いになりたいもんだ」 「頑丘さんは駮《はく》か。これは自分で捕まえたんだ?」 「頑丘、でいい。※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞をやったり取ったりできるような身分の人に、さんづけされたんじゃ寝覚めが悪い」  やれやれと首を振って、頑丘は※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞を検分する。頑丘にしても、※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞を間近で見たことは数えるほどしかなかった。捕《と》らえそびれたことが一度、速く力強く、狡猾《こうかつ》な獣《けもの》は、あっさり罠《わな》を抜け、怒りにまかせて仲間を三人ばかり薙《な》ぎ倒《たお》して逃げていった。死人が出なくて幸いだった、と言うしかない。  その※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞には、白の勝ったものと黒の勝ったものがいるが、これは白いほうだった。目の前にいる※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞のような、白地に黒の縞《しま》に見えるほうが、そうでないものよりも多い。どちらにしても変わらない、その複雑な色をした目と、長い尾。今、のぞきこむ頑丘《がんきゅう》を見返す※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞には、気負いもなければ苛立《いらだ》ちもない。どこか超然とさえしていて、少なくとも、かつて見た獰猛《どうもう》さは感じられなかった。ここまで馴《な》らすのも大変だろう。  惚《ほ》れ惚《ぼ》れとして立ち上がった頑丘に、珠晶《しゅしょう》が軽やかに言う。 「あたしは利広《りこう》に乗せてもらうわ。あたしが乗っても星彩《せいさい》は気にしないって」 「はいはい。そりゃあ駮《はく》よりも※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞のほうがいいでしょうとも、お嬢さま。だが──」  珠晶は首を傾けた。 「あんたって、おばか?」 「なんだと」 「誰がそんな話をしてるの? あたしたち、物見遊山《ものみゆさん》に街道を行くんじゃないのよ。ここが黄海《こうかい》だって分かってる?」  頑丘が目を白黒させると、利広が爆笑した。 「あたしなんて軽いものだけど、それでもあたしが乗ったら、騎獣《きじゅう》はそのぶん重いのよ。いざというときに、どちらのほうが影響がないか、って話をしてるんじゃない」 「……そりゃあ、失礼いたしました」 「星彩《せいさい》は、あたし程度の重石《おもし》じゃ影響がないそうだから、星彩に乗せてもらうわ。──ところで、頑丘《がんきゅう》の駮《はく》は、名前をなんていうの?」 「名前なんかない」  頑丘は憮然《ぶぜん》と答える。 「つけてあげなさいよ」 「つけたきゃ、珠晶《しゅしょう》が勝手につけな。──だが、人の話は最後まで聞け。いいか、騎獣のそばを離れてはならんが、乗るな」 「どうして」 「どうせ徒歩の随従《ずいじゅう》がいる。列は歩きの速度でしか進まん。歩きながらやらなきゃならんこともあるんだ。黄海《こうかい》に入ったら、楽をしようなどとは考えないことだ」 「でも……」  言いさした珠晶を、頑丘は遮《さえぎ》る。 「黙って言われた通りにしろ」  珠晶《しゅしょう》は勝ち気そうな顔で頑丘《がんきゅう》をねめつけた。 「誰が雇《やと》い主《ぬし》だか、忘れてない?」 「忘れちゃいない。俺はあんたを無事に蓬山《ほうざん》まで送り届けて、人の世界に帰す」 「帰り道は必要ないかもね」 「勝手に言ってろ。──俺は確かにお前の護衛に雇われたが、あれしきの金で自分の命まで売った覚えはないからな」  むっとしたように黙りこんだ珠晶から、頑丘は視線を利広《りこう》に移した。 「あんたは黄海《こうかい》に来たことがあるのか?」 「残念ながら一度も」 「妖魔《ようま》とやり合ったことは」 「それなら何度か」  頑丘は秘《ひそ》かに溜《た》め息《いき》を落とした。つまりは素人《しろうと》二人、ということだ。溜め息を聞きとがめたのか、利広はすまなさそうに言う。 「命じてもらえれば、黄海について学ぶつもりで何でもするよ」 「もちろん、そうしてもらうさ」  力なく吐き捨てたとき、広場に揃《そろ》った人々の群れが、坂に面した一角から崩《くず》れた。いよいよ動き始めた。 「珠晶《しゅしょう》は※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞と駮《はく》の間を歩け。──行くぞ」       5  広場に布陣した兵士に送られ、人々は岩場を下った。目の前の森には、とりあえず一条の道が続いている。道幅はようやく馬車が通れる程度、金剛山《こんごうざん》から下がる沢に沿い、長い年月の間に昇山《しょうざん》の人々によって切り開かれ、踏みならされた道だ。  集団で五山《ござん》を目指すといっても、特に列が組織されるわけではない。ともかくも、離れると危険なので、誰かのそばにいる、それを全員が行うのでまるでひとつの集団のように見えるという、それだけのことだった。  岩場を下り、森に入る。ちょうど午《ひる》を少し過ぎたころ、全員が休めるだけの草地に出る。朝に城塞《じょうさい》をでれば、どうしても同じ頃合いに同じような場所に至る。休む場所を作るために枝を打ち払い、若い木を倒し、それが幾百年と繰り返された結果、こうしてそれらしい場所ができる。ちょうどそこにさしかかった頃、遠く背後から鐘や太鼓《たいこ》の音が聞こえた。はっとしたように誰もが背後を振り返った。いまや樹海《じゅかい》の木立にさえぎられてはいたが、彼らの背後には令乾門《れいけんもん》がある。それが今、閉じたのだ。もはや戻る道はない。  誰ともなくそこで気落ちしたように足を止め、休息を取り、そして吹っ切るように立ち上がってさらに歩く。彼らはただ起伏と森とが続く山を下った。その間に、わずか十二歳の昇山《しょうざん》の少女は、すでに著名になっていた。誰もがはるばる黄海《こうかい》まで来た勇気を褒《ほ》め称《たた》えてはばからない。 「珠晶《しゅしょう》のような民がいるのだから、恭《きょう》も捨てたものではない」 「この勇気を大人《おとな》にも見習ってほしいものだ。国の大人子供が皆、珠晶のようなら、国が滅ぶこともあるまいに」  その賛辞は頑丘《がんきゅう》や利広《りこう》にも振り向けられる。 「たった二人で少女を守って蓬山《ほうざん》に行こうなどと、それほどの義侠心《ぎきょうしん》のある者は、昨今ではなかなかいない」  勇気ではなく無謀《むぼう》であり、義侠心ではなく単なる懐《ふところ》の事情だ、と頑丘は思ったが、これらの賛辞はありがたく受けておいた。今はてんでに集まっているだけの集団も、黄海を越える一月半あまりの道のりの間に、必ずそれなりに組織されてくる。基本的に徒党を組まない猟尸師《りょうしし》ですらが、黄海にはいると自然にそうなった。やがてこのうちの誰かを指導者に組織されるのだから、敵は作っておきたくないものだ。  陽が落ちれば、妖魔《ようま》は活発になる。金剛山《こんごうざん》の稜線《りょうせん》に太陽が接した頃、誰ともなく、そろそろ野営の準備をしたほうがいいのでは、と言い出し、ちょうどそこで踏み開かれた草地に出て、それでのろのろと列が止まった。何しろ号令があってのことではなく、全員が止まろうという気になるまで列は止まらないから、実際に野営の準備を始めた頃には、すでに黄昏《たそがれ》が落ちていた。ある者はあわてて天幕《てんまく》を張り、それを持たないものは、あわてて薪《まき》を探しにいった。  それらを横目で見ながら、頑丘《がんきゅう》は森を見渡し、無造作《むぞうさ》に野営地を決めた。空き地からほんの少し森の中に入った木を選び、そこに駮《はく》を繋《つな》ぐ。 「頑丘、あっちの原っぱがいいわ」 「だめだ。珠晶《しゅしょう》はここに石を積め。──利広《りこう》、こっちの木に|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》を繋げ」  珠晶はそのぶっきらぼうな口調に利広を見たが、利広はおとなしく示された木に星彩《せいさい》を繋いでいる。仕方ないので珠晶もそれにならい、そのあたりから石を探して頑丘に言われるままに重ねた。 「なにかしらねえ、黄海《こうかい》に入ったら、いきなり偉《えら》そうなんだから」  珠晶のつぶやく声には構わず、頑丘は打ち落とした枝をその周囲を三方から囲うように立て並べ、火を熾《おこ》す。頑丘はここまでの道のり、すでに目につくだけの枯れ枝を珠晶と利広に拾わせてある。ある程度|溜《た》まれば、珠晶《しゅしょう》を騎乗《きじょう》させ、小束に分けて草で括《くく》っていかせた。──これは習慣づけておかねばならない。陽が暮れてから薪《まき》を探しても間に合わない。足下を見ながら枯れ枝を探していたのでは、みすみす妖魔《ようま》に襲撃の機会を与えるだけだ。  その甲斐《かい》あって、珠晶らは煮炊《にた》きを終えるのが早かった。ぐすくずと天幕《てんまく》を張っていた連中がやっと煮炊きに取りかかった頃には、すでに始末を終え、火を消して二頭の騎獣《きじゅう》の間に布を広げている。 「火は消していいの?」  珠晶が問うと、頑丘《がんきゅう》はうなずく。 「いいんだ。──始末がついたら寝ろ」  利広《りこう》が口を挟《はさ》んだ。 「こんなにあっさりと寝てしまっていいのかい?」 「構わない。三日は襲撃がない。よほど運が悪くなきゃな」 「どうして」  頑丘は薄く笑った。 「城塞《じょうさい》があるからな」 「分からないな。矢は届かないだろう?」 「矢は届かなくても、血のにおいは届くんだ」 「血……」 「連中は血のにおいのするところに集まる。昨夜の襲撃で人も妖魔《ようま》も死んだからな。血の流れた場所があれば、そこから三日程度は安全だ。その程度なら、連中は近くまで来ても、血のにおいを嗅《か》ぎつけてそっちに行く」  いって、頑丘《がんきゅう》は駮《はく》を横たわらせ、自分はそれに寄り添うようにして横になる。 「利広《りこう》、あんたは※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞を枕にして寝るんだな。俺が駮のそばにいるから、珠晶《しゅしょう》はその間だ」 「星彩《せいさい》のそばがいいわ」 「言われた通りにしろ。妖魔が来れば、真っ先に騎獣《きじゅう》が気づく。騎獣が身動きしただけで目が覚めるやつがそばにいないと意味がない」 「あら、あたしだって起きれるわ」 「どうだかな」  揶揄《やゆ》するように笑った頑丘をねめつけて、珠晶は媼袍《わたいれ》を引き寄せる。黄海《こうかい》の中は外よりも暖かい。歩くぶんにはすでに媼袍はいらなかったが、寝るとなると肌寒い感じもした。 「失礼しちゃう。すぐに起きられるわよ、小さい子供じゃないんだから」  珠晶《しゅしょう》は言って、半ばふてくされて横になった。広場では騒いでいる人がいるのに、と珠晶は媼袍《わたいれ》を被《かぶ》る。空《から》元気なのか、黄海《こうかい》に出て浮かれているのか、広場で大きな焚《た》き火《び》を囲んでいる大人《おとな》たちは、賑《にぎ》やかな声をあげていた。  均《なら》されてもいない地面の上は、寝場所は狭いし、頑丘《がんきゅう》は口やかましいし。これじゃあ、そもそも寝られるかどうか。  ──だが、実際には目を閉じて開けると、すでに朝だった。       6  頑丘に安全だと言われた三日を過ぎても、やはり珠晶ら昇山《しょうざん》の一行は森の中にいた。沿って歩いてきた沢は、今では細い川の様相を呈している。  例によって陽が西の金剛山《こんごうざん》にかかった頃に、一行は少しばかり広くなった窪地《くぼち》にたどりつき、そこで野営の準備を始めた。歩く間に薪《まき》になる枝を集めておくのもいつものことなら、頑丘が決めた場所に石を置いて珠晶が竈《かまど》を作るのも、いつものことだ。その日、頑丘が寝場所に決めたのは広場からほんの少し木立の中に入ったあたりで、こんもりと繁った灌木《かんぼく》の陰だった。何という木だろう、匂いの強い葉を繁らせた大木を背後に、灌木に抱えこまれるように広がったほんのわずかの草地に小さな竈《かまど》を作る。  頑丘《がんきゅう》が煮炊《にた》きしている間に、珠晶《しゅしょう》はすぐ下の沢に水を汲《く》みにいく。その行き帰りに声をかけてくる者も多かった。 「珠晶、どうだい、疲れたろう」 「そうでもないわ」  疲れていないと言えば嘘《うそ》になるが、もともとこの程度の苦労は覚悟している。むしろ、単に代《か》わり映《ば》えのしない森の中、均《なら》されていないとはいえ、道を歩くのだから気抜けしているくらいだ。 「珠晶や、どうだい、野宿は辛《つら》いだろう」  さらに声をかけてきたのは、室季和《しつきわ》という初老の男だった。この季和が、一行の中で最も多くの荷と、最も多くの随従《ずいじゅう》を持っている。 「まあね」 「どうだい、天幕《てんまく》に来ないかい。珠晶のような小さい娘が、草の上に寝るのじゃ、可哀想《かわいそう》だ」 「心の動くお誘いねえ」  珠晶《しゅしょう》は溜《た》め息《いき》をついた。季和《きわ》の天幕《てんまく》は大きく、噂《うわさ》によれば一応の寝床があるらしい。よくも運んだものだが、季和は馬車と荷車を連れている。 「──でも、頑丘《がんきゅう》に叱《しか》られるから」  珠晶が言うと、季和は眉《まゆ》をひそめる。 「あの男は何者だい」 「護衛よ、雇《やと》ったの。言ったでしょ?」 「剛氏《ごうし》かい?」 「そもそもは猟尸師《りょうしし》らしいけど。でも、黄海《こうかい》に詳《くわ》しいことには変わりはないわね」 「猟尸師。どうりで不遜《ふそん》な男だと思った」 「それは否定しないわ」  剛氏は昇山《しょうざん》の者を護衛する。猟尸師は黄海で狩りをする。当然のことながら、剛氏は重宝《ちょうほう》もされ、頼りにもされるが、猟尸師となると、どうしてそんな者が一行の中に、と誰もが思うらしかった。 「猟尸師じゃあ、専門家とはいかないだろう。しかも、話の分からない乱暴者が多いというじゃないか。そんなのと一緒で、だいじょうぶなのかい。なんだったら、私と一緒に来ていいんだよ」 「どうにも頼りにならなかったら、お願いするかも」 「うん、それがいい。そうおし。大変なことがあったら、いつでも言うんだよ」 「ありがとう」  季和《きわ》のように誘ってれる者は多い。子供だから、というのは大きいだろう。そのたびに断るのは、惜《お》しい気もするが、頑丘《がんきゅう》がうんと言わないのだからしょうがない。やかましいばかりの頑丘など、見捨てて天幕《てんまく》に逃げこみたい気もしないでもないけれど、なにしろ所持金の全部をかけて雇《やと》ったのだからそ、それも悔《くや》しい。 「やれやれ、だわ」  季和と別れて寝場所に戻りながら、珠晶《しゅしょう》をつぶやく。 「……もうちょっとお人好《ひとよ》しそうに見えたんだけどな」  お人好しどころか、細かいことにいちいちうるさい。命じるときには頭ごなしで、質問をすれば鬱陶《うっとう》しそうにする。黄海《こうかい》に入って気が立っているのかとも思うのだが、もっと余裕を持って乾《けん》に着けて、じっくり護衛を選ぶ暇《ひま》があったら良かったのに、という気はする。 「それも贅沢《ぜいたく》ってものかしら……」  大金を払ったとはいえ、十二の子供が黄海《こうかい》に入るのに、真面目《まじめ》につきあってくれるとは思わなかった。珠晶《しゅしょう》は頑丘《がんきゅう》のおかげで黄海《こうかい》に入ることができたわけだし、とりあえず、頑丘がいれば何とかなるのだろう。  途中、幾多の者たちに声をかけられ、それにおざなりに返事をしつつ、ここ二日ほどで、なんとなく一行の雰囲気《ふんいき》が変わっているのに気づいた。  多くの者は、広場を中心にぴったり集まる。大きな焚《た》き火《び》をし、賑《にぎ》やかにしていたりするのだが、いつのまにか、一組、二組とそれを外《はず》れて、頑丘のようにほんの少しとはいえ距離を作る者が増えている。今も黄昏《たそが》れ始めた木立のあちこちに、そういう人々の姿が点在するのが見えていた。彼らのほとんどが天幕《てんまく》を持たず、重石《おもし》をつけた縄《なわ》で木の枝を引き下ろして屋根の代わりにする、あるいは焚き火を打ち落とした梢《こずえ》で囲む。騎獣《きじゅう》や騎馬のすぐそばの、極めて狭い場所を寝場所にするなど、頑丘とよく似た寝場所の作り方をしている。  ひょっとしたら、昇山《しょうざん》の者たちを護衛する剛氏《ごうし》のいる集団なのだろうかと思いながら、珠晶は水を提《さ》げて自分の寝場所に戻る。ちょうど、頑丘が粥《かゆ》を器《うつわ》に盛っているところだった。  また、あれか、と思いながら、珠晶は少しげんなりする。頑丘が与えてくれる食事というのは、たいがいそのあたりから摘《つ》んできた草や乾《ほ》し肉《にく》の削《そ》いだのを入れて煮た粥《かゆ》で、味もそっけもない。どうやら、献立は変わる気配がなく、量もさほど多くない。 「蓬山《ほうざん》に着く頃には、がりがりになっちゃうわね、あたし」  口の中でつぶやいて、珠晶《しゅしょう》は頑丘《がんきゅう》に声をかける。 「お水、汲《く》んできたわ」  頑丘は目を上げたが、べつに誉《ほ》めてくれるわけでも、労《ねぎら》ってくれるわけでもない。 「お疲れだったね」  そういって労ってくれたのは水汲みを命じたわけでもない利広《りこう》で、利広がいてくれて良かった、と珠晶としては思わずにいられないところだ。黄海《こうかい》に入ってからの頑丘は無愛想《ぶあいそう》で息が詰《つ》まる。  味気ない食事をしている後ろでは、火を囲んで賑《にぎ》やかな声がしていた。 「ねえ、室《しつ》さんが、あたしたちにも天幕《てんまく》に来れば、って」 「だめだ」  例によって頑丘の答えは、にべもない。利広が笑む。この男はおよそ、渋面《じゅうめん》を作るということを知らないようだった。 「珠晶は疲れたかい?」 「疲れたわけないでしょ。まだいくらも進んでいないのに」 「そうだねえ」 「寒くないだけましだわ。──黄海《こうかい》って暖かいのね」  頑丘《がんきゅう》に言うと、頑丘は空《から》になった器《うつわ》を草で拭《ぬぐ》いながらうなずく。 「今のところはな」 「寒くなる?」 「暑くなる。黄海は暖かい」  へえ、とつぶやいた珠晶《しゅしょう》の前で、草で拭い終わった器の中に、水袋からほんの少し水を入れて濯《すす》ぎ、もう消えかけている焚《た》き火《び》の中に捨てた。大雑把《おおざっぱ》な始末の仕方に最初は呆《あき》れたが、汚いことや不潔なことに目くじらを立てても仕方がないと、諦《あきら》めるだけの分別はある。なにしろここは、黄海だから。 「ねえ、火を消さないといけないの? どうしても?」 「お嬢さまは明かりがないと怖《こわ》いか」  頑丘の語調にむっとするものを感じながら、珠晶は消えた焚き火を見る。 「そういうわけじゃないわ」 「火は目立たないほうがいい。今日は月があるから、明かりが必要ない」  言って頑丘は広場のほうを見る。つられて珠晶も利広《りこう》もそちらを見た。明々とした焚き火の明かり、賑《にぎ》やかな声。 「──どうして?」 「奴らは賢《かしこ》い。火のあるところには人がいるということを知っているからだ」  奴ら、と珠晶《しゅしょう》は口の中でつぶやいた。それは妖魔《ようま》のことだろうか。だとしたら──と珠晶は背後を振り返る。 「ねえ、あの人たちにも教えたほうがいいんじゃない?」 「余計なことをするな。連中はどうせ、俺の言うことなど聞きゃしない」 「言ってみないと分からないじゃない」 「言うべきことなら剛氏《ごうし》の誰かが義理を果たしているさ。猟尸師《りょうしし》の出番じゃない」 「でも……」 「つべこべ言わずに、喰《く》ったら始末して寝ろ」       7  珠晶は夜半に人の叫びで目を覚《さ》ました。  最初、それは夢だった。その叫びは父親のあげるもので、珠晶は格子《こうし》に覆《おお》われた家の中から、すぐ間近の園林《ていえん》にある植え込みの中を必死で見据《みす》えていた。整えられた木立の向こうで声がする。それも悲鳴だ。そこで父親が襲われている。助けにいかないと、と思うのに、家のどこもかしこも格子《こうし》に覆《おお》われていて、外に出ることができないのだ。  急がなければ、という焦燥《しょうそう》なのにどこにも出口がない。口汚く格子を罵《ののし》りながら、珠晶《しゅしょう》は助けにいけない自分に安堵《あんど》してもいる。出られないから、襲われた父親なんて見ずにすむ……。  叫びたいのか泣きたいのか分からない気分で格子を掴《つか》み、そして目覚《めざ》め、それが夢だったと分かった。安堵する暇《ひま》はなかった。もっと悪いことが起こっているのだと、瞬時に分かったからだ。驚いて飛び起きようとしたけれども、目覚めてみると、声を出すことはできなかった。羽交《はがい》い締《じ》めにするように抱かれ、誰かの手が、珠晶の口元を覆っていた。 (──なに?)  深く考えるまでもない。激しい声が聞こえている。幸か不幸か、珠晶は|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》に押しつけるようにされていたので、目線を動かしても見えるのは自分を捕まえている利広《りこう》の顔だけだった。夜目にも緊張した利広の表情、彼は珠晶を抱えた右手に抜き身の剣を握って、肩越しに背後を凝視していた。何が起こっているのか分からない。なのに悲鳴が聞こえてくる。男たちの、狼狽《ろうばい》した叫び声と怒鳴《どな》る声。発作的にあがき、秘《ひそ》かな秘かな利広の声を聞く。 「……静かに。言われたことを覚えてるね?」  珠晶《しゅしょう》は目線だけを上げて、うなずいた。  頑丘《がんきゅう》に言われたこと。決して人の列を離れない。どんなにすぐそこに見えても、道をそれて森の中に踏みこまない。影がさしたら空を見上げたりせずに、すぐさま木の下にはいる。妖魔《ようま》が来たら、木の下や繁みの中に入って何かに身を寄せ、絶対に声を上げたり身動きをしたりしない。──妖魔はあまり目が良くないのだ。木にぴったりと張りついた人間と、張りつかれた幹の区別がつかない。それが松程度に匂いのある樹木なら、下手《へた》に騒いだりしなければ、間近に来ない限り、気づかれないですむ。  言われたことは覚えている。覚えているからといって、震えが治まるわけではない。  悲鳴と馬の嘶《いなな》き、何かを狩りたてる叫び、何が起こって、どうなっているのだろう。確かめられないことが恐ろしいが、目覚《めざ》めなければ良かった、とも思う。目覚めたら全部もう片づいているんだったら良かったのに。  焦《あせ》りと不安を※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞に頬《ほお》を押し当ててやりすごす。星彩《せいさい》は眠っているかのようにおとなしかった。にもかかわらず腹の起伏が速く大きい。星彩もまたどうすればいいのか、分かっているのだ。  たまらず目を閉じて、身を縮《ちぢ》めていた。やがて、悲鳴に代わって、歓声が聞こえた。同時に利広《りこう》の手が緩《ゆる》んだ。 (終わった? でも、何が?)  おそるおそる目を開け、利広の肩越しに広場のほうを見ようとしたが、その前に頑丘《がんきゅう》の声を聞いた。 「──急げ! ここを離れる」  頑丘は声を上げながら広場のほうから走ってきた。なにやらぷんと生臭《なまぐさ》いにおいがした。広場のほうには焚《た》き火《び》の赤い明かりがあったものの、何かあったのか見てとれるほどには明るくない。ただ、人が右往左往しているのだけが分かった。 「頑丘、何があったの?」 「急げと言ってるだろうが!」  怒鳴《どな》りながら、頑丘はもはや駮《はく》に鞍《くら》を置き、いつでも積めるようにまとめてあった荷を駮の背に括《くく》りつけ、抱えた皮包みを手に、自らも荷を背負う。利広が同じように準備をする前に、布を引き剥《は》がして腕の中にまとめ、頑丘はすでに駮に乗っている。遅れることしばし、星彩《せいさい》の背に珠晶《しゅしょう》と利広が飛び乗ると、行くぞ、と短い声をあげて、駮を走らせ始める。利広が何をする間もなく、星彩が勝手にそれを追った。  頑丘《がんきゅう》の、どけ、という声に広場を右往左往していた人々が、驚いたように散る。狼狽《ろうばい》しているふう、怯《おび》えているふう、放心しているふう。それらの人々の向こうに、小山のような鳥の影が見えた。地に落ちて動かない。 「利広《りこう》……何があったの?」  しがみついた背中に訊《き》くと、利広は振り返る。月の明かりに、少し困ったような笑顔が見えて、珠晶《しゅしょう》は少し安堵《あんど》した。鷹揚《おうよう》に構えている人間の存在が心強い。 「……ちょっとね」 「妖魔《ようま》?」 「うん、たぶん」  短く言って、利広はすぐ脇を走る頑丘を振り返った。 「動いていいのか?」  頑丘はうなずく。同時に近くの木立の向こうから人の声がして、同じく荷をまとめて騎乗《きじょう》した人々が飛び出してきた。出てくる者、後を追ってくる者、それをぽかんと見ていた人々があわてたように走り出し、あるいは彼らを呼び止める。 「おい、どこに行くんだ!?」  これに答えたのは頑丘ではなかった。頑丘の後を追うようにして駆け出した者たちの間から答えがある。 「逃げろ。血のにおいを嗅《か》ぎつけて新手が来るぞ」  追ってきた男はぽかんとしたように口を開け、次いで妙な声をあげて、こけつまろびつしながら自分の荷のほうに走っていった。  それらの人々を置き去りにして、いつの間にか数十人ばかりが群れを作って走っていく。道を急ぎ、背後の明かりも人の声も絶えた頃にようやく疾走《しっそう》する速度を緩《ゆる》めたが、それでも乗騎《じょうき》の足は止めない。 「頑丘《がんきゅう》、いいの? 物陰から妖魔《ようま》が出てこない?」  珠晶《しゅしょう》はできるだけ、しゃんとした調子で言ったが、我ながら声が震えているのを認めないわけにはいかなかった。 「だいじょうぶだ、お嬢ちゃん」  答えてくれたのは頑丘ではなく、いつの間にか※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞の脇に鹿蜀《ろくしょく》を並べている男だった。 「奴らには縄張《なわば》りがあって、普段はそこに一頭しかいない。よその縄張りから新手が駆けつけてくるまでには、もう少し時間がかかる」 「そう……なの?」  男はうなずく。大刀《だいとう》を背負った巌《いわお》のような男だった。 「それより、嬢ちゃんだろう、朱氏《しゅし》を連れているのは。──その男か?」  男は利広《りこう》を顎《あご》でしゃくって示したが、珠晶《しゅしょう》には男が何を言ったのか分からなかった。 「朱氏?」  これには利広が答えた。 「私じゃない。駮《はく》の彼だ」  そうか、と言って男は鹿蜀《ろくしょく》に※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞を迂回《うかい》させ、頑丘《がんきゅう》の脇に出る。何事かを話しかけた。 「──利広、朱氏って何?」  利広は珠晶を振り返り、星彩《せいさい》を止める。 「前においで。そのほうが安心だろう?」  確かに利広の背に掴《つか》まっているのは、背中が心細くてたまらなかったので、えいやと星彩から飛び降りて、改めて利広の前に引き上げてもらった。手綱《たづな》を取る利広の腕の間にいるほうが、前は見えるし背後は塞《ふさ》がっているしで、安心できる。 「朱氏というのは、猟尸師《りょうしし》のことだね」  言って利広は星彩を再び歩かせる。星彩は落ち着いて淡々とそれをこなしている。 「──頑丘《がんきゅう》のような人たちを、人は猟尸師《りょうしし》と言うけれども、彼ら自身や、黄海《こうかい》に出入りする人間は朱氏《しゅし》と呼ぶんだそうだよ」 「頑丘《がんきゅう》は自分のことを猟尸師《りょうしし》って言うわ」 「それは頑丘が、そういう性格だからだろうな。獲物の代わりに仲間の屍《しかばね》を獲《と》って帰る人々──なんて、本人たちが自分たちに対してそんなことを言うはずがない。それは彼らを揶揄《やゆ》するための名前なんだ。だから、本当は当人たちに対しては使わない」 「……へえ」  珠晶《しゅしょう》は、先ほどの大きな男と話しながら駮《はく》を進ませている頑丘を見た。 「朱氏も剛氏《ごうし》も朱民《しゅみん》と言ってね」 「朱民って何? 朱氏とは違うの?」 「珠晶も、朱旌《たびげいにん》を見たことがあるだろう? どうして朱旌《しゅせい》というかは知ってるかい?」 「ええと……旌券《りょけん》が朱《あか》く塗られているからだ、って聞いたことがあるわ」  うん、と利広《りこう》がうなずく。 「定住せずに諸国を巡《めぐ》って、芸をしたり、ものを売り買いする浮民《ふみん》を、朱民というんだ。みんな旌券が朱いから」  もともとは、と利広は笑う。 「旌券をなくした人が府第《やくしょ》に届け出て、仮の旌券をもらうだろう? それには仮のものであることを示す朱線が入っている。そもそもはその旌券《りょけん》を朱旌《しゅせい》と言うんだ。その朱旌をもらって、どこにも定住しないまま諸国をさすらう人々を、それで朱旌というんだね。朱旌を持った人々だから、朱民《しゅみん》と言う」 「へえ」 「彼らは猟尸師《りょうしし》を朱氏《しゅし》と呼ぶ。朱民の中の筆頭だから朱氏なんだ。頑丘《がんきゅう》のような黄海《こうかい》で狩りをする人たちは、朱民の中では最も尊敬されている」 「ほんとに? じゃあ、剛氏《ごうし》は?」 「剛氏はね、同じく朱民で、黄海に入るとはいえ、朱民ではない人たちからお金をもらって雇《やと》われることで生活をする。雇われる剛氏よりも、雇われない朱氏のほうがね、朱民にとっては偉《えら》いんだよ」 「剛氏よりも朱氏がねえ」 「朱民は、別名を黄民《こうみん》とも言う。あるいは総じて黄朱《こうしゅ》の民《たみ》、と。彼らはみんな気持ちの上では黄海の生まれなんだよ。古くは自ら旌券を黄色く塗っていたとも言う。黄色は麒麟《きりん》の色だから、憚《はばか》ってやめたのか、──そうでなければ、昔に禁止されてしまったんだろうな」 「……ふうん」  珠晶《しゅしょう》がつぶやいたときに、遅ればせながら後を追ってきた人々の声が近づいてきた。       8  結局、この夜、失われたのは三人。広場の中程で火を囲んでいた男が三人、下降してきた妖鳥《ようちょう》のために命を失ったのだった。  夜が明け、人々はおそるおそる野営地に戻った。ほとんどの者が、そこに荷を置いて、取るものもとりあえず逃げ出してきたからだ。水に食料、薬、どれが欠けてもこの先の旅は続けられない。それで仕方なく、野営地に戻って、彼らはすでに骨の欠片《かけら》と肉片に変じた妖魔《ようま》と人の残骸《ざんがい》を見つけた。彼らが倒した妖魔は一羽の巨鳥だけだったが、その他にも、餌《えさ》を争ったのだろう、大小の妖魔らしきものの残骸が散っていて、その凄惨《せいさん》な光景は、戻った彼らを慄然《りつぜん》とさせた。──彼らはようやく、自分たちのいる場所がどこなのか、悟《さと》ったのだ。  一行はさらに歩き始めた。もはや先に進むしか術《すべ》がない。この黄海《こうかい》で安全を得ようとすれば蓬山《ほうざん》にたどりつくしかないのだ。城塞《じょうさい》に戻っても令乾門《れいけんもん》の安闔日《あんこうじつ》は春分のみ。次の春分まで一年を待たなくてはならず、しかも一人だけ列を離れ城塞に戻るような蛮勇《ばんゆう》を奮《ふる》い起こせるものもいなかった。他の四門《しもん》へ向かうことなど論外だろう。  それでしおしおと荷物をまとめ、再度前後しながら歩く。彼らにできることはそれしかない。そうしながら、彼らの多くが、仲間を見捨てて逃げた頑丘《がんきゅう》らをやわらかく責めた。先頭に立ったのは、今は雁国《えんこく》で商売をしているという聯紵台《れんちょだい》という羽振りの良さげな男だった。 「死んだ三人も、あの時に助けてやれば、まだ息があったかもしれない。それを確かめることなく、後先見ずに逃げてしまうというのは、いかがなものか」  これに対したのは、昨夜|珠晶《しゅしょう》に話しかけてきた鹿蜀《ろくしょく》に乗った男で、名を近迫《きんはく》というらしかった。昨夜、一足先に逃げ出した数十ほどの者たちは、連れ立つというわけではないにしろ、列の同じあたりをつかず離れず歩いている。 「あの場に残っていれば、危険なことは分かりきっていたから逃げただけだ。あいにく、俺たちの仕事は金を払ってくれた主人を守ることで、あんたたちを守ることじゃない」 「では、何のために我々はこうして集団となって蓬山《ほうざん》に向かっているのか」 「臆病《おくびょう》だからだろう」  揶揄《やゆ》するように言った近迫の言葉に、聯紵台は露骨に眉《まゆ》をひそめた。 「臆病と言うなら、不幸な者を見捨てて真っ先に逃げたお前たちの方が臆病であろう」 「べつにそういうことでも、いっこうに構わんがね。──そういうお前さんは、最後まで踏みとどまって、三人を守ってやったのかい」  紵台《ちょだい》は痩《や》せた面《つら》に血を昇らせた。 「……狗尾《こうび》が」 「なにを」  怒気を露《あらわ》にした大人《おとな》二人を見て、珠晶《しゅしょう》は駮《はく》の手綱《たづな》を取っている頑丘《がんきゅう》の衣を引いた。 「ねえ、止めないでいいの? 今にも殴《なぐ》り合いなりそうよ」 「好きにさせとけ」  頑丘はそっけなく言い捨てる。──先王|崩御《ほうぎょ》から二十七年、玉座《ぎょくざ》に野心のある者はとうに昇山《しょうざん》を終え、すでに王ではありえない自分を確認している。今頃になって昇山しようという者たちはいずれも、先を争って蓬山《ほうざん》に駆けつけるほどの覇気《はき》は持たないが、なかなか現れない王にじれた人々が強く昇山を勧める程度の人物ではあって、総じて傑物《けつぶつ》ではないが善良な者が多い。そうでなければ、ひとかどの人物が悄然《しょうぜん》と黄海《こうかい》から戻ってきたのを見て、けちな望みをにわかにかき立てられた小者だ。そういう者はあわてて自分に対しても他人に対しても己を繕《つくろ》うから、ともかくも善良であろうとする。紵台という男がどちらにせよ、ここで殺し合いになるようなこともあるまい。 「……ねえ、頑丘《がんきゅう》」 「狗尾《こうび》って何、という質問ならせんことだ。俺たちには侮蔑《ぶべつ》のための名前が無数にある」 「それも仕方ないかもね」  珠晶《しゅしょう》が小さくつぶやくと、頑丘は眉《まゆ》をあげて珠晶を振り返った。 「……逃げ出したのは事実でしょう。おまけに頑丘は火が危ないことを知っていたのに、教えなかったんだわ」  ち、と頑丘は舌打ちをする。 「俺が言って、聞くような連中か」 「聞くわよ、頑丘は黄海《こうかい》の専門家なんだもの」 「どうだかな。第一、聞かれたって迷惑だ」 「どうして」 「火は危ない。だが、それが必要なこともある。なまじ危ないからよせ、などと言ってみろ、次には必要があって使うときにも、やめろだ何だと騒ぐに決まっている。そもそもそれさえ知らないような素人《しろうと》が、黄海《こうかい》に入ること自体が無茶なんだ。俺は確かにお前に雇《やと》われちゃいるが、ここにいる人間の全部の無謀《むぼう》のつけを払ってやる気はないからな」 「主人の命令でも?」 「お断りだ」 「卑怯者《ひきょうもの》」  まあまあ、と中に入ったのは利広《りこう》だった。 「やめておくんだね」 「あんたも、あの卑怯者の味方をするの?」  珠晶《しゅしょう》の密《ひそ》めた声に、利広もまた小さな声で、答える。 「頑丘《がんきゅう》にとって私たちは、黄海《こうかい》のことなんか知りもしないのに足を踏み入れた無謀《むぼう》な人間なんだ。常に頑丘の足を引っ張る可能性がある。だからね、詳《くわ》しい者に任せておいたほうがいい」  珠晶が困ったように笑う利広の顔を少しの間ながめてから、息を吐いた。 「……杖身《じょうしん》ね」 「杖身?」 「そういうことなんでしょ。杖身を雇う余裕のある人だけが助かるのよ。……杖身を雇う才覚も余裕もなければ、死んでしまうしかないってことね」  なるほど、と利広は苦笑した。 「確かにそういうことなのかもしれない」 「黄海《こうかい》に入るっていうのに、詳《くわ》しい護衛を雇《やと》ってなかった人間が悪い、ってことだわ」 「それは、あながちまちがっていないと思うよ」 「でも、それと火を使うことが危険だと教えてあげなかったこととは別だと思うわ。頑丘《がんきゅう》は死んだ人たちを助けることができたの、その気にさえなればね。それをしなかったんだから、卑怯者《ひきょうもの》だという言葉は不当じゃないと思うわ」  利広《りこう》はさらに苦笑した。 「……そうかな」 「いいわ。──あたしがみんなに伝える」 「よせ!」  低く怒鳴《どな》ったのは、頑丘だった。珠晶《しゅしょう》はその顔をねめつけた。 「頑丘は言っても相手にされないから言わなかったんでしょ? あたしは相手にされないぐらい平気よ。それでいいじゃない」 「くだらないことをするな」 「どうしてくだらないの」  頑丘はほんの少し、険の籠《こ》もった目つきで珠晶を見た。 「それは俺たちだけが持っていればいい知識だ」  珠晶《しゅしょう》は頬《ほお》に血が昇るのを感じた。 「それ、誰もが安全に旅する方法を知ってしまうと、自分たちが面目をなくすから困る、って意味?」 「どう取られても構わん。くだらないことを広めるな」 「あたしの勝手だわ」 「珠晶がそれを吹聴《ふいちょう》してまわって何かがあれば、剛氏《ごうし》たちはお前に何をするか分からんぞ」 「……脅《おど》し?」  にらみつけた珠晶の視線を、頑丘は険しい顔で受けとめる。 「忠告だ」 「……言っておいてあげるけど、あんたって最低だわ」 「そうかい」  言い捨てて前を向いた頑丘の顔をにらみ、ぷいとそっぽを向いて珠晶は利広《りこう》を見上げる。 「どうやら本物の卑怯者《ひきょうもの》みたいね」  だが、同意を求めて見上げた顔には笑みがなかった。ふと珠晶が怯《ひる》むような種類の生真面目《きまじめ》な顔で、利広《りこう》は珠晶《しゅしょう》を見つめている。  なに、と訊《き》く間もなく、利広はつぶやく。 「……きみは、幼い」 「それ、どういう意味? あたしが子供なのは、あたしだって分かってるわ」  うん、とうなずいて、利広は笑った。 「ここは頑丘《がんきゅう》に任せておいたほうがいいよ、という意味だよ」  珠晶は頬《ほお》を膨《ふく》らませた。 「分かったわ。利広も卑怯者《ひきょうもの》の仲間ってことね。大人《おとな》には大人の理屈があるって言いたいんでしょ?」 「どうかな?」 「いいわよ。言ってれば? 王には大人も子供もないんだから。──どいつもこいつも、あたしが王になったら、覚えてらっしゃい」 [#改ページ] 三 章       1  森を抜けるのには、さらに五日がかかった。その間に一行は、さらに二人の人間を亡くした。森は幅の広い、浅い川によって断ち切られており、その広い河には、一条の鎖《くさり》が、対岸に向かって渡されていた。そこの滑《すべ》りやすい川を、鎖に縋《すが》って渡り、再び森の中に入った。あいかわらずそこには、沢に沿って踏み分けられた道があり、今度はその沢に沿って登っていかねばならなかったのだった。  日に日に、金剛山《こんごうざん》は色を薄くしていった。一行が休憩を取る広場のような、開けた場所に出れば、樹海の上に金剛山の稜線《りょうせん》が見える。それが薄くなり、どんどん緑に沈んでいき、やがて道が、ひとつ山を越えて下りになった頃には緑の下に没してしまった。  森の木の中に、倒木や枯れ木が増え、やがて折り重なったように倒れて苔《こけ》むした朽《く》ち木《き》の間に、骨のように白く枯れた幹が見えるばかりになり、そして、恐ろしくすんだ湖のほとりに出た。石を敷きつめたような大きな窪《くぼ》みがあり、そこに澄んだ水がたたえられている。そこまでに既に、城塞《じょうさい》を出てから十五日以上が経《た》っており、死亡した者は総計で十を越えた。  その頃には、一行の中にそれなりの秩序ができようとしていた。常に先頭を行くのは、剛氏《ごうし》や頑丘《がんきゅう》ら黄朱《こうしゅ》が寄り集まった一団だった。そこに室季和《しつきわ》という剛氏を持たない男が、随従《ずいじゅう》ともども黄朱を頼って続き、同じように剛氏をあてにしようとする人々が集まって二百人に近い集団を作っていた。その後に続く者たちは聯紵台《れんちょだい》が束ねる。紵台を中心とする百五十ほどの集団は、季和や剛氏らの集団と反目が多かった。それ以外の者たちは、それぞれに腕の達《た》つ随従で身を守っており、それなりの物資も持っていて、とりあえずどちらの陣営にも与《くみ》することなく点在している。  これらの中で、まがりなりにもある程度の統率が取れているのは、黄朱を連れた二十ばかりの人々と、季和と紵台と、どちらにも与することのない連中の作る小集団だけだった。季和の集団も紵台の集団も、もともとが面識のない人々が利害によって寄り集まっただけのものだから、もめごとが絶《た》えない。  黄朱《こうしゅ》の集団も、べつによくまとまっているというわけではないのだが、とりあえず彼らは互いに何をすべきで、何をすべきでないのか良く了解しており、何かあったときには誰の号令もなくとも力を合わせた。  何も言わずに集まって道を塞《ふさ》いだ倒木の山を片づければ、何も言わずに離れて、それぞれに先を進み、似たような場所に野営地を定める。するとだいたい、あわてて季和《きわ》が号令し、周りの人々に黄朱たちを手伝わせ、黄朱たちが足を止めれば、その近くに天幕《てんまく》を張った。その間、紵台《ちょだい》らは見て見ぬふりをし、あるいはあえて迂回《うかい》する道を探し、ことさら離れたところに天幕を張るのだった。 「……変なの」  湖畔の、折り重なった倒木の間にできた空洞の中に枯れ葉や草を投げ入れながら、珠晶《しゅしょう》はつぶやく、間近に屈《かが》みこんで倒木が崩れないよう縄《なわ》をかけていた利広《りこう》が手を止めた。 「変? 何が?」 「室《しつ》さんと聯《れん》さん。特に室さんって、妙な人だわ」  どうして、と利広は朽《く》ち木《き》を押しのけて探し出した地面に楔《くさび》を打ちこみ、そこに縄をかける。 「だって今もほら、同じように倒木のそばに天幕を張ってるじゃない? あの人、必ずあたしたちの真似《まね》をするのよね」 「そのほうが安全だと思ってるんじゃないのかな」 「それは分かるけど。でも、室《しつ》さんの集まりなんて、随従《ずいじゅう》だけでも四十人からいるんじゃない。あんな大所帯が、あたしたち三人の真似をしてどうするのかしら」  珠晶《しゅしょう》は賑《にぎ》やな季和《きわ》たちの一行を見やる。頑丘《がんきゅう》がこの場を野営地に選んだのは分かる。常にこうやって物陰に隠《かく》れるようにして野営地を定めるのだ。だが、さすがに季和の一行は、大人数なだけに隠れるもなにもない。 「そうだねえ……」 「訊《き》けばいいと思うの。この大所帯をどうすればいいんだ、って頑丘なり剛氏《ごうし》なり誰かに。でも、室さんって、常にこっちの動きを気にして真似をするくせに、ぜったいにどうしよう、なんて訊いてこないのよね」 「珠晶なら訊くかい?」 「もちろんよ。慣れた人のほうが、どうすればいいのか、分かってるに決まってるもの。黄朱《こうしゅ》はみんな少人数の旅だけど、大人数がどうすればいいか、知らないわけじゃないと思うわ」  実際、と珠晶は黄昏《たそがれ》に色を増した湖面を見た。見事に澄んだ水だが、あれは毒だ、と頑丘《がんきゅう》が教えてくれた。一口飲んで死ぬような猛毒ではないが、あの水は人も獣《けもの》も飲めない。頑丘に言われなければ、珠晶《しゅしょう》はおそらく飲んだだろうし、それを傍《かたわ》らで聞いていなければ、季和《きわ》たちの集団もあれを飲んだのにちがいない。 「聯《れん》さんたちだって変よね。さっきまで水際で集まって、本当に飲めないのか、相談してたのよ」  利広《りこう》は余った縄《なわ》を巻きながら笑った。 「……なるほど」 「あの人たちって、なんとかこちらの真似《まね》をしないですむ方法はないか、常に相談してる感じだわ。剛氏《ごうし》と喧嘩《けんか》しちゃったんだから、腹が立つのは分かるけど、そういうところで逆らっても仕方ないと思うんだけど」 「そうだねえ」 「どっちも頭が悪くて嫌《いや》になっちゃう。それとも、大人《おとな》ってみんな、こんなもの?」 「かもしれないね」  言って利広はまとめた縄を荷物に括《くく》りつけた。荷は常に、いつでもひと動作で騎獣《きじゅう》の背に括りつけられるようにまとめておく、これまた頑丘からやかましく言われていることのひとつだ。 「頑丘《がんきゅう》たちが、教えてあげないのが、そもそもいけないと思うわ。勿体《もったい》ぶって秘密にするなんて、すごくさもしくて嫌《いや》になっちゃう」  利広《りこう》はこれには、答えず立ち上がる。 「頑丘《がんきゅう》はどこに行ったんだろうねえ」 「剛氏《ごうし》の人たちのところに行ったわよ」 「何をしに?」 「頑丘がいつも狩りをするのって、昇山《しょうざん》のための道沿いじゃないのよね。先のことがよく分からないんでしょ。だから、訊《き》きに行ってるの。この湖の水が飲めないってのも、あの人たちに訊いたのよ」 「……そういうことだねえ」  利広が笑って、珠晶《しゅしょう》が瞬《またた》いた。 「──なに?」 「だから、訊けば教えてくれるわけだ、剛氏たちも。私もどこかの州師《しゅうし》から来たって人たちが剛氏に道を訊いているのを見かけたよ。室《しつ》さんは訊かない。聯《れん》さんも訊かない」 「……そういうことになるわね」 「頑丘《がんきゅう》は秘密にしたいわけじゃないと思うよ。訊《き》く気のない人に言うのが嫌《いや》なんだよ」 「それ、教えてくれ、って乞《こ》われるまで教えないってことでしょ? だったらやっぱり、勿体《もったい》をつける、って言わない?」 「少し違うような気がするけどね」 「そうかしら……」 「──あと三日というところだな。森をさらに下ると、一番低い場所に出る」  頑丘の前に屈《かが》みこんで、近迫《きんはく》は地面に図を描いている。鹿蜀《ろくしょく》を連れた屈強な男で、剛氏としての経験も長く、侠気《おとこぎ》があるので十数名ほどの剛氏の頭《かしら》的な存在になっていた。 「しばらく平地か?」 「沼地だな。ぬかるんでくるから、騎乗《きじょう》したほうがいい。沼地を渡るのに一日ってとこか。できるだけ沼の表面ぎりぎりを飛行したほうがいいぞ。泥の中に乱暴な蛭《ひる》がいるからな」 「毒がある?」 「ない。そのかわり、こっちの肉を食いちぎっていきやがる」 「見晴らしは」 「良くない。繁った木がかなりあるし、朽《く》ち木《き》もあれば丈の高い草もある」  頑丘《がんきゅう》はうなずく。 「じゃあ、昼間に進んでも問題はないな」 「あそこはな。その手前のほうが厳しい。枯れ木ばかりで、身を隠してくれるものがない。しかも岩や倒木がごろごろして足を取られる。早起きな妖魔《ようま》がふらふら飛んできたらひとたまりもない」 「水は」 「だめだ。ここから下の水は、まったく飲めん。満甕石《まんおうせき》がいる」  黄朱《こうしゅ》に伝わる、黄海《こうかい》で取れる石だ。それを甕《かめ》の中に投げこんでおけば、汚水でいっぱいの甕を清水で満たすことができる。 「……問題は沼地まで、か。夜のほうがいいんじゃないか」 「難しいところだな。危険性で言えばどっちもどっちというところだろう。問題は、俺たちについて来る連中が、夜の道中を辛抱《しんぼう》できるかということだ。夜は危険だのと、つべこべ言われるくらいなら、昼間に行ったほうがいい」 「なるほどな」 「お前さんたちには、足の速い騎獣《きじゅう》がある。一気に沼まで下りるのも手だ」 「あんたたちは」 「歩きの随従《ずいじゅう》が三人いるからな。亭主は馬だ」  言って、近迫《きんはく》は口元をわずかに歪《ゆが》める。 「今夜あたり、来てほしいところだ。──連中に」 「……そうだな」  頑丘《がんきゅう》が低く同意したところに、珠晶《しゅしょう》の声がした。 「──頑丘、食事の用意ができたけど」  頑丘も近迫もあわてて身を起こし、ほんの少し離れた場所から二人を見下ろしている少女を見上げた。 「いま行く」  頑丘は答え、立ち上がった。近迫はしゃがみこんだまま、低く笑った。 「よく保《も》つな、お宅のお嬢ちゃんは」 「まあな」 「最初に見たときはどうなることかと思ったが、意外に辛抱強《しんぼうづよい》い。ありゃあ、良いとこの娘じゃないのかい」 「のようだが。あれは辛抱強いというより、向こうっ気が強いんだ」 「それはそれで大変ってことか」  頑丘《がんきゅう》は斜面の上で待っている珠晶《しゅしょう》を見上げた。 「小賢《こざか》しくてな。……そこが難儀《なんぎ》なんだ」       2  湖畔の野営地が、襲撃を受けたのは、まさしくその夜のことだった。  珠晶は浅い眠りを頑丘と利広《りこう》が身動きする気配で起こされ、まさか、と思ってそのまま横になっている間に、野営地から悲鳴と叫びが聞こえ始めた。血の気が引くよりも呆然《ぼうぜん》とした。例によって叫びが快哉《かいさい》に変わるや否や、荷物をまとめて騎獣《きじゅう》に飛び乗り、一路、坂を下っていった。  その他の人々も既に慣れたもので、野営地を逃げ出す人々の数は、襲撃ごとに多くなる。人々は声も立てずにその場を逃げ出し、ひたすらに坂を下って湖畔を離れた。騎乗した者の足が緩《ゆる》み、徒歩の者を待ち受ける態勢になるのは明け方、少なくとも馬の速度で先行する者たちは、そこで他の者を待つ間、それなりの休息が取れる。  頑丘は、とりあえず休める場所を探して、駮《はく》を繋《つな》いだ。 「ここで──」  休んでいろ、と言うつもりで振り返ると、珠晶《しゅしょう》が射るような眼差《まなざ》しをして背後に立っている。 「……あたし、頑丘《がんきゅう》に話があるの」 「なんだ?」 「人目のないところまでつきあって」 「冗談じゃないぞ。今は──」 「つきあってもらうわ。頑丘だって、こんな人目のある場所で聞きたい話じゃないと思うわ」  頑丘はしばらく、暗がりの中に怒気《どき》も露《あらわ》にして立っている少女を見つめた。 「……いいだろう」  繋《つな》いだばかりの駮を放し、鞍《くら》もそのまま荷を抱《かか》えて騎乗《きじょう》する。珠晶に向かって手を差し出すと、おとなしく駮《はく》に乗った。 「私も行こう」  言ったのは利広《りこう》で、止めたのは珠晶だった。 「こないで」 「そういうわけにはいかない。……二人の話に口は挟《はさ》まないよ。黙《だま》って見張りだけしてると、約束する」  止める間もなく、利広《りこう》もまた騎乗《きじょう》したので、珠晶《しゅしょう》はそれ以上は言わなかった。頑丘《がんきゅう》も特に異論は唱えずに、駮《はく》を促《うなが》す。駮は倒木の間を地面すれすれに飛び、瞬《またた》く間に人々が足を止めた坂の途中を離れ、それを見下ろす小さな丘へとたどりついた。  そのなだらかに高くなった丘の頂上には、枯れても倒れてもいない木が、いくらか繁っていた。木の間には倒木が折り重なる。その陰に頑丘は駮を止め、利広もまた少し離れた場所に|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》を止めた。ちょうど倒木の上に座ると、繁った下枝の間から、人々が休んでいるのが見える。頑丘はその倒木の作った窪《くぼ》みに腰を下ろし、珠晶がその前に立ちはだかった。  珠晶はちらりと利広に目をやり、そして息を吸いこむ。苔《こけ》に覆《おお》われた倒木に座る頑丘に目を移した。 「あなた、夕方に、近迫《きんはく》と何を話していたの?」  切り出した科白《せりふ》に、頑丘は抱えた皮袋の口を開きながら軽く笑う。 「わざわざ呼び出したぐらいだ、聞いていたんじゃないのか?」 「……妖魔《ようま》が来ればいいのに、という話をしていたわ」 「そうだな」  言って、頑丘《がんきゅう》は皮袋を駮《はく》の前で逆さにする。鈍《にぶ》い音を立てて転がり出てきたのは、羽毛に包まれた翼の一部だった。 「……ちょっと、何よ、それ」 「妖魔《ようま》の一部だ」 「なんだってそんなもの……」  頑丘は、愚問《ぐもん》だ、というふうに珠晶《しゅしょう》を見返す。搏が待ちかねたように、それに鼻面《はなづら》を突っこんだ。 「た、……食べるの? ……妖魔を?」 「騎獣《きじゅう》は味に頓着《とんちゃく》しないからな」  こともなげに言って、頑丘はその翼の一部を剣で切りとる。羽根を掴《つか》んで、勢いをつけて投げた。それは弧《こ》を描いて、星彩《せいさい》の前に落ちる。星彩もまた、嬉々《きき》としてそれに貪《むさぼ》りついたのを見て、珠晶は震《ふる》えあがった。 「……そんな変なもの、食べさせないでよ」 「騎獣だって飯がなきゃ飢《う》えるんだ。駮は雑食だし、※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞は瑪瑙《めのう》で養えないこともないが、肉は必要だ。なければ騎獣が身体《からだ》を損なう。──で?」  珠晶《しゅしょう》は顔をしかめて、駮《はく》と※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞を見比べ、頭をひとつ振ってから頑丘《がんきゅう》の顔を見た。 「あんたは、妖魔《ようま》が来ればいいのに、と言ってた。そして、本当に妖魔が来た。──これってどういうこと?」 「運が良かったんだ」  草で剣を拭《ぬぐ》いながらさらりと言った頑丘に、珠晶は拳《こぶし》を握りしめる」 「そういう偶然が……あると思うの?」 「あったんだから仕方がない」 「嘘《うそ》よ。いくらなんでも、そんな都合のいいこと、あたしは信じないわ。頑丘と近迫《きんはく》は、今夜、襲撃があってほしいと言ってた。あれはそういう意味よね。そして実際に襲撃があって、人が死んだ──」 「まだ死んだとは限らんが」 「そういう問題じゃないわ!」  珠晶は声をあげる。 「どうして、あんたたちが襲撃を願うの!? あればいいと言っていたその晩に、本当に妖魔がやってきたのはなんで!?」  まったく、と頑丘は息を吐いた。 「小賢《こざか》しくて難儀《なんぎ》だよ、お前は。そのくせ、どうしようもない餓鬼《がき》だ」 「あたしの訊《き》いたことに答えなさい!!」  今にも地団駄《じだんだ》を踏みそうな少女を頑丘《がんきゅう》は見上げた。 「妖魔《ようま》に襲ってほしかったんだ。あの湖畔から三日ほどの間、危険な斜面が続く」 「だから、あそこで血が流されてほしかったというわけ?」 「その通りだ。そうすりゃあ、危険な三日をしのぐことができるからだ」 「それで……呼んだの?」  珠晶《しゅしょう》は頑丘を見据《みす》える。頑丘は軽く肩をすくめた。 「さあな。俺は知らん。近迫《きんはく》は、来ればいいと言った。俺は、その通りだとうなずいた。それだけのことだ」 「じゃあ、質問を変えるわ。──妖魔を呼ぶ手段があるの?」 「あるな。山羊《やぎ》でも馬でも鳥でも、一頭|犠牲《ぎせい》にすればそれでいい。だからと言って確実に呼べるというものでもないが」 「この、──人でなし!!」  珠晶は怒《いか》りに任せて手を振り下ろしたが、その手は頑丘にあっけなく掴《つか》まった。 「言っておくが。お前が、俺を雇《やと》ったんだ。蓬山《ほうざん》まで送れと言った」 「だから何よ!」 「俺を雇《やと》ったのがお前である以上、お前を守るために俺がやったことは、お前が自分を守るためにしたことに等しい」  珠晶《しゅしょう》は目を見開く。 「……冗談じゃないわ!!」 「なぜだ。そういうことだろうが。──俺がやったんじゃない。お前がやったんだ。だから想像で、うかつなことを言うな」 「ふざけないで!」  珠晶は身を捩《よじ》ったが、頑丘《がんきゅう》の手から自分の手首をもぎ取ることはできなかった。 「だれがそんなひどいことをしろって言ったの!?」 「安全に送れ、ということは、そういうことだ。剛氏《ごうし》が依頼主を守れるか否かは、依頼主以外の者をいかに上手《うま》く利用できるかにかかっている。そうでなかったことは一度もない」 「そんな……」  頑丘が手を放し、勢い余って珠晶はその場に尻餅《しりもち》をついた。立ち上がって飛びかかってやりたいのに、膝《ひざ》に力が入らない。 「……汚いことをやってくれるじゃない」 「それを汚いと思う、お前が甘いんだ」  頑丘《がんきゅう》は倒木の上を見上げた。利広《りこう》は膝の上に手を組んで、黙《だま》って頑丘を見下ろしている。 「黄海《こうかい》は人のいるべき場所じゃない。そもそも足を踏み入れること自体が無茶なんだ。妖魔《ようま》が襲ってくれば、斬《き》り捨ててしまえば終わりか? それこそ冗談じゃない。そんなことをしていたら、護衛についた俺のほうがいつかくたばる。妖魔の中には、俺どころか、軍から一師《いっし》率いてきても太刀打《たちう》ちできんやつがいるんだ。それともお前は、俺に命をかけて自分を守れ、守りきれなかったら、俺自身を盾《たて》にして逃がしてくれとでも言うつもりか」  それは、と珠晶《しゅしょう》は言葉に詰《つ》まる。 「護衛がいたら、そもそも妖魔が寄ってこないとでも思うのか。そんなことだから、餓鬼《がき》だと言うんだ。ここは妖魔の土地だ。人が入れば縄張《なわば》りを侵す。どうしたって連中は襲ってくる。蓬山《ほうざん》まで一月と半、その間に妖魔と出会わないような幸運があるとでも思うのか。お前は何日かけて恭《きょう》を旅した。その間に危険はなかったか」 「それは……」 「恭を歩いていてさえ、騎獣《きじゅう》を盗まれたんだろうが。黄海《こうかい》を一月半旅して、命を盗まれないと思うほうがおかしい」 「でも、だからって……」 「俺を盾《たて》にするのと、他の連中を盾にするのとどう違う。──お前は人に頼って黄海《こうかい》に足を踏み入れた時点で、他人を犠牲にして自分が安全に旅することを選んだんだ」 「……違うわ!」 「安全は只《ただ》では買えんのだ、残念ながら。昇山《しょうざん》の連中が群れるのはなぜだ? 大勢人が集まっていれば、それだけ妖魔《ようま》は人の気配をかぎつけやすい。目立つんだよ、当たり前だろうが。それでも群れるのは、原っぱに自分一人が立っているより、そばに人がいたほうが安全だからだ。なぜなら」 「やめて」 「──なぜなら、横にいる人間が襲われる間に、自分が逃げられる可能性があるからだ」  珠晶《しゅしょう》は唇《くちびる》を噛《か》んだ。──その通りだ、残念ながら。 「人が──人に限らず、力のない生き物が群れるのは、そのほうが安全だからだ。他人に危険を振り分けて、頭数の分だけ自分は安全でいられる」 「……ひどい話ね」 「ひどい? だからお前は甘いんだ。これはひどいことじゃない。自然の摂理《せつり》だ」  摂理《せつり》、と珠晶《しゅしょう》はつぶやく。 「群れで集《つど》って黄海《こうかい》を行けば、危険は頭数の分だけ分散される。五百人全員を、俺ひとりで蓬山《ほうざん》まで連れていけるわけがないだろうが。剛氏《ごうし》の十数で守りきれるとでも思うか? 俺にできるのは、自分の雇《やと》い主《ぬし》を守ることだけだ。雇い主さえ無事なら、俺はそれで責務を果たしている。他の連中が死んだところで、その血をもって妖魔《ようま》を引きつけてくれれば、ありがたいと思うだけだ」 「……もういい」  珠晶は膝《ひざ》を抱《かか》えて、うつむく。頑丘《がんきゅう》は息を吐き、倒木の上の利広《りこう》を見上げた。頑丘は何も言わなかったし、利広もまた何も言わなかったが、うなずいた。その表情は分からない。利広の背に、傾いた月が浮かび、利広の顔を影にしている。 「──珠晶」 「もういい。……自分が甘ちゃんだってことは、良く分かったわ」 「君は、黄海になんのために来たんだ?」  珠晶は顔を上げた。見上げた利広の表情は見えない。声音《こわね》からして、彼が笑っていないだろうことだけが確実だった。 「何のために蓬山《ほうざん》に行くのか、忘れたのか」 「忘れてないわ……だから」 「王朝の存続のために、国土の安寧《あんねい》のために、王は血を流すことを命じる。たとえ王自身が命じなくても、臣下が王のためにそれを行えば、流血の責任は王にかかる。いかなる意味においても、無血の玉座《ぎょくざ》はありえない」  珠晶《しゅしょう》はその、倒木の上の影を見つめた。 「自己のために他の血が流される。──それが玉座というものだ」 「あたしは……」  言いかけて、珠晶は目を伏せる。 「そうね。……そうなのかもしれないわ」       3  珠晶は、野営地に戻って、おとなしく倒木の影に入りこんで仮眠を取った。  頑丘《がんきゅう》は剣の束《つか》に手をかけたまま、それを黙《だま》って見守っていた。利広《りこう》もまた、同じようにして|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》の背に保たれている。空が白みはじめ、珠晶の深い寝息が聞こえてきて、頑丘は利広に問いかけた。「……ひとつ、訊《き》いていいか」 「うん?」 「お前さんは、この嬢ちゃんが王になると思ってるのか?」  利広《りこう》は首をかしげるようにして、空を見上げる。 「どうだろう。問題は、蓬山《ほうざん》に着けるかどうかだね。珠晶《しゅしょう》はしっかりした子供だけど、どう考えても黄海《こうかい》を越えるには小さいから」 「俺はてっきり、さっきの口振りで、お前さんは珠晶が王になるんだと、そう考えているんだと思ったんだが」  ああ、と利広は笑う。 「私はね、頑丘《がんきゅう》。珠晶が蓬山にたどりつきさえすれば、彼女が登極《とうきょく》するだろうと思ってるよ」  頑丘は目を見開く。 「どうしてだ?」  利広は、いつもの調子で笑んだ。 「私と出会ったから」  頑丘は深く溜《た》め息《いき》をついた。 「……大した自信だ。お前も珠晶《しゅしょう》も、どうしてそこまで自信家でいられるんだかな」 「そうかな?」  利広《りこう》の顔には、もう笑みがなかった。 「──天の配剤という言葉がある」 「天の……配剤」 「あの子は困っていた。私はあの子を助けることができた。他の誰でも、あの子に手を貸したりはしなかっただろう。そんな物好きは、たぶん私ぐらいなものだ」 「そうかもな」 「珠晶は私に会い、そして頑丘《がんきゅう》に会った。──そういうことだよ」 「俺は金に困ってたんだ」 「そこが良くできている。黄海《こうかい》に詳《くわ》しい朱氏《しゅし》が、たまたま金銭に困っていて、たまたま護衛のほしい珠晶と出会う」 「だが、騎獣《きじゅう》を盗まれている」 「命まで盗《と》られたわけじゃないし、頑丘を雇《やと》うための金銭だって取られてない。あんな子供が孟極《もうきょく》を連れて旅をして、乾海門《けんかいもん》を渡るまで無事でいられたことのほうが不思議だよ、私にとってはね」  そうかもしれない、と頑丘《がんきゅう》は思う。 「なるほど、その器量を見込んで、わざわざ未来の王を守りに来たというわけか。それが義侠心《ぎきょうしん》というやつか?」  頑丘が揶揄《やゆ》すると、利広《りこう》は笑う。 「義侠心じゃない、巡《めぐ》り合わせだよ。……あまり、そんな善人だと私を思わないほうがいい」 「へええ?」 「……それで頑丘たちは、呼んだのかい?」  何を、とは利広は言わなかったが、頑丘には何を言っているのか、もちろん分かった。 「俺は知らん。珠晶《しゅしょう》が言っていたような話をしたのは事実だし、それを望んでいたのも本当だ。ひょっとしたら、近迫《きんはく》たちが何かをしたのかもしれないが──」 「しただろうかね」 「……さてな」  そこまで緊迫した状況ではなかった。襲撃があれば助かる、と思っていたが、そういった頑丘こそが実は一番、驚いている。 「なるほど、頑丘も近迫《きんはく》たちがやったとは思っていないわけだ」  利広《りこう》が言うので、頑丘《がんきゅう》は黙した。 「だったらなぜ、頑丘はそう珠晶《しゅしょう》に言わなかったんだい? おそらく珠晶は、頑丘たちがやったものだと思っているよ」 「好きに思わせておくさ」 「どう取られても構わない──それが黄朱《こうしゅ》のものの考え方なのかな」  頑丘は苦笑した。 「どうせお前たちは俺たちを猟尸師《りょうしし》だの狗尾《こうび》だの、好き勝手に呼ぶんだ。ものはついでだ、好き勝手に解釈すればいい」 「そうか……」  利広はそれ以上、何も言わなかった。それで頑丘は立ち上がり、利広に軽く手を挙《あ》げて、頼む、と言い残す。朽《く》ち木《き》を踏み、倒木をいくつか迂回《うかい》して歩いた。複雑な形に苔《こけ》むした倒木が折り重なって小山を作った、その裏側に回り込むと、近迫ら剛氏《ごうし》たちが集まっていた。 「よう。朱氏《しゅし》の旦那《だんな》、助かったな」  剛氏の中の一人が手を挙げた。 「──まったく、いい案配だった」 「何人、死んだ?」  頑丘《がんきゅう》が問うと、これには近迫《きんはく》が答える。 「人が一人、馬が二頭。とりあえず、どさくさにまぎれて馬の肉を切ってこれたし、これは儲《もう》けた」 「と、いうことは、あんたたちが呼んだわけじゃないんだな、やはり」  近迫はおどけて目を上げる。 「てことは、あんたが呼んだわけでもないんだ。  まあな、と頑丘はその場に座る。剛氏《ごうし》の一人が竹筒《たけづつ》を差し出したので、ありがたく受け取って一口つけ、手近の者にそれをまわした。 「今も、あまりに都合が良すぎる、ってえ話をしていたところだ。だからと言って、あんたが呼ぶはずもねえ。それほどの状況じゃあなかった。──だが、助かったぜ、実際な」 「……まったくだ」 「やっぱり、いるな──これは」  剛氏の一人がつぶやく。頑丘が目をやると、男は口角を歪《ゆが》めて笑った。 「今回の連中の中に、鵬《ほう》がいる」  頑丘が近迫を振り返ると、近迫もまたうなずいた。 「ここまでで十三人、こりゃあ少ない。しかも、実に効率よく犠牲《ぎせい》が出てら。少し前に渡ったあの川、あれは鉄砲水が出るうえ、その急流にのって妖魚《ようぎょ》が出るんで、常には十人とは言わねえ犠牲者を出す難所だ。それがこの時期に、水が枯れてやがった」  そう、と別の男が声をあげる。 「ここらの朽《く》ち木《き》の林もな、雨風があったら難儀《なんぎ》な場所だ。足元はさらわれる、枯れ木は倒れる、それが雨といえば城塞《じょうさい》を出て以来、おしめり程度だ」  近迫《きんはく》はうなずいた。 「俺たちはどうも、鵬翼《ほうよく》に乗ってる。そうでなくちゃ、こうはいかん」  王を交えての旅は、格段に困難が軽減される。それを剛氏《ごうし》は「鵬翼に乗る」と言い、昇山《しょうざん》の者の中に混じった、近く王になるであろう人物を、鵬、または鵬雛《ほうすう》と呼ぶ。 「鵬雛は誰だと思う」  頑丘《がんきゅう》の問いに、近迫は笑った。 「選《よ》りによって朱氏《しゅし》を剛氏代わりに引っぱり出したお嬢ちゃんだ。それ以外に、王の器量を持った人間がどこにいる」 「俺が雇《やと》われたのは、器量の問題じゃない」 「巡《めぐ》り合わせの問題だ。その巡り合わせこそを、器量と言うんだ。少なくとも黄海《こうかい》じゃあ、人格にも容姿にも何の意味もねえ。他人を──一国を巻きこめるほどの運の強さ、それが王の器量ってもんなのさ」 「くだらんことを言って、あいつをのさばらせんでくれ。それでなくても気が強くて手を焼いている」 「まあ、仮にも王だ。そんなものだろう」 「まだ王と決まったわけじゃない」  頑丘《がんきゅう》は何となく己の手を見た。ひきつれた感触がするのは、先ほど妖魔《ようま》の肉を裂《さ》いて、そのまま手を拭《ぬぐ》うのを忘れていたからだ。  近迫《きんはく》は笑う。 「まあ、何でもいいがね。身内から被害が出ずに、何とか雇《やと》い主《ぬし》を連れて戻れりゃ。なにしろ、そうでなきゃ肝心《かんじん》の報酬の半額がふいだ」  お前が死ねば、後のことと半額は任せろ、と誰かが混ぜ返して、ひとしきり笑いが湧《わ》いた。 「そっくりその言葉、お前に返してやらあ。──まあ、俺たちにとっちゃ、誰が鵬《ほう》でも関係ないが、せっかく鵬翼《ほうよく》に乗って楽な商売ができようってのに、無にすることもあるまい」  近迫《きんはく》は言って、一同の顔を見渡した。 「確かに、お嬢ちゃんだと決まったものでもない。昇山《しょうざん》の連中の動向には気をつけろ。ともかく鵬《ほう》を落とすな。鵬雛《ほうすう》を失うと、良かった巡《めぐ》り合わせのつけが、一気に来るぞ」       4  崩《くず》れやすい倒木や石の重なった足場の悪い斜面を下りると、しっかりと根を下ろした樹木が増えた。それらはたとえば、その葉がありえないふうに紫を帯びていたり、枝が奇怪にねじくれていたりしたが、とりあえずあたりは樹影に遮《さえぎ》られ、道は腐葉土《ふようど》が踏み固められて足場が良くなり、旅人を安堵《あんど》させた。  その林の中を下りきると、瘤《こぶ》のある葉を繁らせた木と、針のような枝を持つ灌木《かんぼく》の点在する沼地だった。道は沼を迂回《うかい》し、対岸が近いあたりで沼の中に没した。遠くに見える対岸で、道は再び沼の中から現れて斜面を登っている。道が没するあたりには、いつ誰が組んだともしれない石の足場があり、ちょうど道に残る轍《わだち》のように、その中央が窪《くぼ》んでいた。対岸に渡る沼地の表面には石の小山があり、あるいは倒木の山があり、そうやって、せめても足場を作ろうとする努力の跡が見えた。  剛氏《ごうし》は薪《まき》の代わりに、ぞれぞれが一抱えはある石を拾ってきており、それを沼に投げこんだ。投げこんだ石のほとんどは沼の中に没して見えなくなったが、かろうじてひとつ、その角を水面に突き出したものがある。  ──こうやって昇山《しょうざん》の者が通るたびに石が投げこまれれば、いつか道になるのだろうか。  珠晶《しゅしょう》はそう思いながら、それでも拾った小石を投げた。近迫《きんはく》は主人の馬と、その随従《ずいじゅう》の足に布を巻き、その上からさらに薄い皮帯を巻いていた。近迫を──頑丘《がんきゅう》を怨《うら》んでいいものかどうか複雑な気分で珠晶はそれを見ていた。  近迫はちゃんと主人を守っている。だが、もしもその主人の安全のために妖魔《ようま》をあえて呼び寄せて犠牲《きせい》を出すことまでするのだとしたら、それはやり過ぎというものではないだろうか。彼らのやり口は、主人の安全以外、眼中にないように見える。 (蓬山《ほうざん》に行こうって人を守るのに……)  当の主人だって、剛氏のやったことを知れば、腹立たしく思うだろう。──それとも、それも仕方がないと割り切ることが、大人《おとな》のものの考え方というものなのだろうか。 「嫌《いや》になっちゃう……」  珠晶はつぶやく。こういう気分は本当に嫌だ。だが、確かにそういう剛氏ら黄朱《こうしゅ》に守られたからこそ、他ならぬ自分が安全にここまで来れたことも事実で。割り切れないまま、頑丘《がんきゅう》に呼ばれ、一足先に駮《はく》と|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》で沼を渡って、対岸で人々の到着を待った。  準備を終えた近迫《きんはく》らが沼に足を踏みこみ、そして追いついてきた室季和《しつきわ》の一行がそれに倣《なら》った。季和の随従《ずいじゅう》が沼に足を踏み入れ、最初の足場によじ登ろうとして悲鳴をあげた。  珠晶はとっさに頑丘を見た。 「まさか妖魔《ようま》がいるの? 沼の中に?」  珠晶の声は詰問の調子を帯びる。これに対して頑丘はそっけなく否定した。 「いや」  実際、悲鳴をあげた男は、なにやらひどく痛そうにして倒木でできた足場によじ登っていたが、特に命に別状があるふうではなかった。さらにすぐに、馬が棹立《さおだ》った。 「……沼の中に何かいるんだわ」 「蛭《ひる》がいるらしい」  頑丘が答えると、珠晶は頑丘をねめつける。 「また知っていたくせに、黙っていたのね」 「言ったところで始まらん」 「あんたって人は」 「珠晶《しゅしょう》ににらまれる覚えはないがな。沼には人を噛《か》む蛭《ひる》がいる。だから皮で足を保護して渡らないと痛い思いをすると、教えてやれば良かったのか?」 「そうよ」 「そりゃあ、大した親切だ。で、その皮をそもそも持ってない奴は、どうすりゃいいんだ?」 「それは……」 「俺たちには騎獣《きじゅう》がいるから問題ないが、あんたたちには災難だな、と笑ってやれば気に召したのかい、お嬢さん」  珠晶は頑丘《がんきゅう》を恨《うら》みをこめて見据《みす》えたが、かろうじて怒りは呑《の》みこんだ。 「──駮《はく》と※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞で、せめて馬のない人だけでも運べない?」 「ばかばかしい。連中に俺たちを頼る癖《くせ》をつけさせるな。あてにされても困る。俺はいざとなったら、珠晶だけを連れて逃げるからな」 「でも──」  どうした、と声をかけてきたのは、沼からあがってきた近迫《きんはく》だった。 「嬢ちゃんが、あの連中を助けろ、とさ」 「まさか」  珠晶《しゅしょう》は息を吐く。 「そう言えば、あんたたちには、助け合おうなんて気は端《はな》からないんだったわね」  珠晶が言うと、近迫《きんはく》は腹を抱えて笑う。 「なによ」 「助け合う、ってのはお前、最低限のことができる人間同士が集まって、それで初めて意味のあることじゃねえのかい。嬢ちゃんの気持ちは分かるが、できる人間ができない人間をただ助ける一方なのは、助け合うとは言わねえ。荷物を抱えるってんだ」  珠晶は近迫をにらみ据《す》えた。 「そう。──黄朱《こうしゅ》のものの考え方は、よおく分かったわ」  その日の野営地は、坂を登ったところにある、いつも通りの広場だった。旅をする間に、日は徐々に長くなっている。相変わらずの森の中だから、さほどに明るいとはいかないが、それでも煮炊《にた》きを終えても、まだそのあたりを歩けるほどの光があり、すでにそうやって歩き回っていると、腕まくりをしたいほどに暖かかった。  珠晶は歩いて、ようやく煮炊きに取りかかった室季和《しつきわ》の天幕《てんまく》のほうに向かった。随従《ずいじゅう》たちが四苦八苦して運んでいる馬車と荷車、それにさしかけられた天幕と、いつの間にか黄朱《こうしゅ》のやり方を見て学んだのだろう、小さく目立たないように焚《た》かれた火。 「おや、珠晶《しゅしょう》じゃないか」  真っ先に声をかけてきたのは、火のそばに座っていた季和《きわ》その人だった。 「どうしたね、天幕が恋しくなったかね?」 「そういうわけじゃないわ。沼で怪我《けが》をした人がいたみたいだったから」 「ああ、妙な蛭《ひる》がいてね。徒歩で渡った者は怪我だらけになった」  そして馬も、と言って、季和は息を吐く。 「室《しつ》さんはどうして、剛氏《ごうし》にどうやって渡ればいいか訊《き》かなかったの?」  珠晶が言うと、季和は驚いたように瞬《まばた》いた。 「いや、もちろん、剛氏たちが布や皮を足に巻いていたのは知っていたよ。だから、こちらも見よう見まねで布で覆《おお》ったのだけど、なにしろ剛氏の持っているような、あんな皮の帯なんてのはそもそも用意してなかった。それで怪我人を出してしまったわけだけどね」  言って季和はでっぷりと丸い顔に笑みを浮かべる。 「まあ、紵台《ちょだい》など、ぐずぐず迂回《うかい》する道を探していたから、まだ着いていない。暗くなる前にたどりつければいいんだけどねえ」 「あたしなら、頑丘《がんきゅう》よりも黄海《こうかい》に詳《くわ》しい人がここにいたら、その人にどうすれば安全に旅をすることができるのか、訊《き》くわ」 「教えてくれないんだよ、剛氏《ごうし》は」 「そんなことないはずよ。頑丘《がんきゅう》だって、始終、いろんなことを訊きにいってるわ」 「それは頑丘が猟尸師《りょうしし》で、剛氏とは仲間だからだ」 「そういうことじゃないわ。他の人だって行ってる。──真似《まね》をしているより、直接訊いたほうが正確だし早いわ。その方が誰もが安全でいられるのよ」  季和《きわ》は指輪をした両手を挙《あ》げた。 「珠晶《しゅしょう》。訊くだけなら、それとなく家生《かせい》に訊かせてみたよ。けれど剛氏の言うことは要領を得ない。いっそのこと剛氏を今からでも雇《やと》いたいところだけど、剛氏はみんな、今の主人をきちんと外まで送り出さないことには、半金がもらえないんだよ。主人ごと我々のところに迎え入れたいと思って、食事をしないか、天幕《てんまく》に泊まらないかと声をかけるけれども、実際に頑丘だって、全く耳を貸してくれないじゃないか」 「……そうね」 「まあ、剛氏の気持ちも分かるがね。誰もが黄海《こうかい》を行く智恵を身につけてしまえば、剛氏の値打ちは下がる。商売はあがったりだ。こう言っちゃあ何だが、剛氏はね、我々のような素人《しろうと》が横で多少苦労してくれないと、主人に対して面目をなくすのさ。誰もが造作《ぞうさ》もなく蓬山《ほうざん》に行って帰ったんじゃ、主人だって残りの半金を払い渋るだろう?」 「そういうものかしら」 「珠晶《しゅしょう》には汚らわしく見えるかもしれないが、それが商売というものだよ」  季和《きわ》が言って、珠晶は軽く眉《まゆ》をひそめた。 「もっともそれで私は、剛氏《ごうし》を雇《やと》わなかったのだけどね。黄海《こうかい》で商売をするものは、黄海を行くに際して、多少の汚いことは平気で行う。それが商売というものだからね。だが、そうやって守られたのでは、蓬山についても私は供麒《きょうき》にお会わせする顔がないよ。だからせめて自分にできることをやっているんだ」  季和はそう言って笑い、珠晶に何か困ったことはないか、足りないものはないか訊《き》いた。べつに何も、と答えている間に、聯紵台《れんちょだい》らの一団が、やっと着いた声がした。  珠晶は立ち上がり、季和と別れて、そのほうへ行ってみる。途中、剛氏が誰かと喧嘩《けんか》をしているらしのを見かけたけれども、とりあえずそれには構わず、着いたばかりの人々の間に紵台の姿を捜した。 「聯さん──」  紵台は渋い顔で、随従《ずいじゅう》に天幕《てんまく》を広げさせていた。珠晶の声に紵台は振り返り、声をかけたのが誰だか気づいてわずかに眉《まゆ》をひそめた。 「……なんだね」 「迂回路《うかいろ》は探せた?」  まあ、と紵台《ちょだい》は口ごもったが、随従《ずいじゅう》の中には足を抱えてうめいている者もいたから、やはり沼を全く渡らないわけにはいかなかったのだろう。 「剛氏《ごうし》は黄海《こうかい》に詳《くわ》しいのに。どうして聯《れん》さんは、剛氏に意見を訊《き》かないの?」  言うと紵台は露骨に顔をしかめた。 「他者に依存して旅する者など、天帝はお望みでないよ」 「死んだら元も子もないじゃない。剛氏に旅のこつを訊くなり、せめて剛氏たちの真似《まね》をしていれば、ずいぶんと危険が回避できるんじゃない? 少なくとも室《しつ》さんはそうしてるわ。そして、死人も怪我人《けがにん》も、聯さんのところより、ずっと少ないのよ」  ぴくりと紵台の眉じりが跳《は》ねた。 「それは、私が季和《きわ》に劣《おと》る、という意味かね」 「そういう……つもりじゃないけど」 「私は自力で黄海を越えてみせる。それこそが、私が王であることを自ら証《あか》すことだと思っている」  そう、と珠晶はつぶやいて紵台に背を向けた。 「おじさんの意地は分かったけど、その意地につきあわされる随従《ずいじゅう》は可哀想《かわいそう》ね」  珠晶《しゅしょう》はそそくさとその場を離れようとした。ちょっぴり腹が立っている。紵台の意地は勝手だが、迂回路《うかいろ》を探すにしても、まず随従が斥候《せっこう》に立たされるのだ。 「王というのは、傑物《けつぶつ》でなければならない」  紵台《ちょだい》の怒りを抑えかねた声が聞こえて、珠晶は足を止めて振り返った。 「民の中で最も傑出した者が王だ、そういうことではないのかね。傑物たる者が、他者に膝《ひざ》を折ってどうする」 「庠学《しょうがく》の老師《せんせい》は、他者に敬意を抱くことができない者は、決して他者から敬意を抱かれるようにはならない、と言っていたわ」 「だから季和《きわ》のように、剛氏《ごうし》を敬ってその真似《まね》をしろと言うのか。──敬うと言うなら、剛氏と並び立つべく努力して当然ではないのかね。確かに剛氏は黄海《こうかい》に詳《くわ》しいだろう、それが生業《なりわい》なのだからな。だが剛氏を敬うのなら、すべきことは、剛氏のように黄海を渡る術《すべ》を学ぶ努力をすることであって、剛氏に媚《こ》びてその物真似をして僕《しもべ》に成り下がることではない」  珠晶はまじまじと紵台の痩《や》せた顔を見上げた。 「私は剛氏の黄海に対する知識を尊敬する。だが、剛氏には、いま現在黄海にあって、苦難をかこつ者を助けようという意志がない。私は剛氏《ごうし》に助けてくれ、と言ったわけではない。黄海《こうかい》に詳《くわ》しい者だからこそ、黄海に疎《うと》い者たちを助けてやる責任がありはしないか、と言ったのだ」 「……そうね。それは良く分かるわ」 「剛氏がそれをできないことは分かる。なぜなら剛氏は主人を守るべく存在しているからだ。だが、黄海に不慣れな旅人には剛氏のような、よくよく黄海を理解している者の補助が必要なのだ。剛氏たちがそれをしないなら、私がそれをするまでだ。だがあいにく、私には剛氏のような知識がない。だからそれを得るべく、試行錯誤を繰り返している」 「試行錯誤をするより、剛氏に訊《き》いたほうが早くない?」 「お嬢さんは庠学《しょうがく》で、老師《せんせい》に答えだけを訊いていたのかね」 「ええ……そうね。しないわ」  珠晶《しゅしょう》は息を吐いて、手を振った。 「煩《わずら》わせてごめんなさい」  言って踵《きびす》を返す。いくらも戻らないうちに、利広《りこう》と出会った。 「もう薄暗いよ、お嬢さん。頑丘《がんきゅう》はかんかんだ」 「一緒に謝《あやま》ってね」  ちゃっかり言って、利広《りこう》に並んで歩きながら、珠晶《しゅしょう》は深い溜《た》め息《いき》を落とした。 「どうしたんだい?」 「とっても難しいの。……いろんなことが」       5  たとえば、黄海《こうかい》は人外《じんがい》の土地で、旅をするうえで苦労があるだろう、などということは、珠晶だって当然分かっていたことだ。黄海に入れば道はない。舎館《やどや》もないし、店もない。そこは妖魔《ようま》のうろつく土地で、もはや一夜たりとて安全ではいられないのだ。 「──そう聞いていたんだけどな」  珠晶はいつ果てるともしれない坂を、前屈《まえかが》みに登りながら言う。  実際には、今珠晶が登っているような道が、ちゃんと黄海にもあるのだ。 「うん?」  利広が訊《き》いてきて、珠晶は肩をすくめた。 「あたし、黄海には道がないって聞いたから、山の中に入るようなものだと思ってたの。以前、栗を拾いにいったことがあるの。下草《したくさ》をかき分けて、邪魔《じゃま》になる枝を打ち払って、木の幹に縋《すが》って登ったり、草の根本を掴《つか》んで下ったり。そういうものなんだな、と思って。問題はそうやって上り下りしている間に、方角を見失わないでいられるかどうかなの。だからね、それとなく山に詳《くわ》しい人に、方角の知り方を訊《き》いたりして」 「へえ?」  笑った利広《りこう》に苦笑を返して、珠晶《しゅしょう》は息を吐く。 「でも、黄海《こうかい》には道があるんだわ。とりあえず今までのところ、道なりに歩いてくれば良かったわけじゃない。問題は、行けども行けども、街がないということなのよね」 「ふうん?」 「街道を歩くんだったら、疲れたらそのあたりの街に寄ればいいのよね。必要なものは、ちょっと寄り道さえすればいくらでも手に入れられる。お腹《なか》が空《す》いたら食べ物を買ってくればいいんだし、喉《のど》が渇《かわ》いたら、ちょっと廬《むら》に寄って井戸を借りてもいいわけじゃない。あたし、乾《けん》に着くまでに宿が取れなくて冢堂《ちょうどう》の床下で寝たことがあったけど、でもって、黄海で野宿するのもそんなことなんだと思っていたんだけど、実は全然、性質が違うのよね。街道で野宿するときは、ちょっと街に寄っていろんなものを仕込んでこれるんだもの」  珠晶は言って、薪《まき》になりそうな小枝を拾う。 「道っていうのは、平らな地面が続いていることじゃないんだわ。そこを行く人が、飢《う》えたり渇《かわ》いたりしないような、疲れたら休んだりできるような、そういう、周囲の様子ごと道っていうのよね。だから確かに、黄海《こうかい》には道がないのよ」  驚いた、と半ば揶揄《やゆ》するように言ったのは近迫《きんはく》だった。ここ二日ほど、近迫らは必ず前後左右のどこかにいる。というより、黄朱《こうしゅ》を抱えた集団同士が、明らかに集まり始めているのだ。 「大した度胸《どきょう》だ。そんなことを考えながら、黄海を歩いてるのか」 「そうよ。──ねえ、剛氏《ごうし》とか朱氏《しゅし》って、どうやってなるの?」  近迫は驚いたように珠晶《しゅしょう》を見た。 「……妙なことに興味を抱くんだな。嬢ちゃんは剛氏にでもなりたいのか?」 「第一志望は王さまよ。……でも、そうね。王さまがだめだったら、朱氏も悪くないとは思うわ、思うところがないわけじゃないけど」  珠晶が頑丘《がんきゅう》を横目でにらみながら言うと、近迫は爆笑した。珠晶の隣を歩いていた利広《りこう》もまた声をあげて笑う。 「いいわよ、笑ってなさい。どうせその後には、朱氏って言うのは、黄朱の中でも特別なんだから、なりたくてなれるもんじゃない、とか言うわけでしょ」  何かになりたい、と珠晶《しゅしょう》が言うと、だいたい大人《おとな》はそう言って笑うのだ。 「だいたい、大人って勝手なのよね。たくさん騎獣《きじゅう》を扱えるから、騎商《きしょう》になりたいとか言うと、子供っぽいことを言う、と言って笑うの。なりたくてなれるもんじゃないんだ、って言うから、学校に行きさえすればなれる官吏《かんり》になろうとしたのに、そうすると今度は、この歳で官吏になりたいなんて、子供らしくない、と言うのよ。うんざりしちゃう」 「べつに、そんなことが言いたくて笑ったわけじゃねえが」  近迫《きんはく》はなおも笑いながら、手を振る。 「王と朱氏《しゅし》を秤《はかり》にかけるんで、意表を突かれただけだ。──珠晶は騎獣が好きか」 「好きなのよ。だから騎商《きしょう》とか朱氏って、いいな、と思うの。本当は、騎獣を馴《な》らすってやってみたいんだけど。でも、大人は騎商になる方法を教えてくれないのよね。──どうやってなるの?」 「そりゃあ、まず親が浮民《ふみん》でないとなあ」 「親の問題なの?」  珠晶が頑丘を見ると、頑丘はうんざりしたようにうなずく。笑ったのは近迫だった。 「そういうことだな。親が子を抱えて浮民になる。そこで親は喰《く》うために、子供を朱氏なり剛氏《ごうし》なりの宰領《おやかた》のところに売り払うってえ寸法だ。餓鬼《がき》の頃から修行させられて、そうして黄朱《こうしゅ》ってのは一人前になるんだ」 「頑丘《がんきゅう》も近迫《きんはく》もそうやって黄朱になったの?」 「まあな」 「……そう。だからそんなに性格がひねくれちゃったのね。せっかく黄朱になったんだから、誇《ほこ》り高く黄朱をやればいいのに」  近迫はさらに声をあげて笑った。 「せっかくも何も、そもそも黄朱になりたくてなる者もねえと思うが」 「人にはいろいろ好みってものがあるのよ。──ねえ、蓬山《ほうざん》に麒麟《きりん》がいなくなったら、剛氏はどうするの? あたしがもしも王さまになったら、近迫は職をなくしちゃうのかしら」 「昇山《しょうざん》の者が途切れりゃ、剛氏《ごうし》は朱氏《しゅし》に早変わりだ。どうせ仕事にあぶれりゃ、黄海《こうかい》に入って騎獣《きじゅう》を狩るんだ。ちっと朱氏とやり方が違うがな」 「違う?」 「俺が一人立ちする前、宰領《おやかた》のところには同じ歳くらいの徒弟《でし》が三人いたが、徒弟の間は護衛として働かせちゃもらえねえ。その間は、兄貴分について騎獣を狩る。ただし、昇山の道に沿って狩りをする。そこが朱氏と違うところだ」 「へえ……」 「道に沿って往復しながら騎獣を狩って、そうやって、道のりのどこに何があるのか、頭の中に叩《たた》きこむんだ。──そうだなあ、蓬山《ほうざん》に麒麟《きりん》がいなくなっても、そうするしかないだろう。たとえ剛氏だけでも、行き来してなきゃ道が消えちまうからな」 「道が消えるの?」 「人が通って枝を打ち払って、草を刈って、それだから道があるんだ。人が全く通らなくなったら、道なんざすぐに黄海《こうかい》に呑《の》まれて消えちまう。だが、道がなくなっちゃ、剛氏だって困るんだ。そうしたら、剛氏は一から安全な道筋を探さないとならねえ」  そうか、と珠晶《しゅしょう》は背後を振り返った。樹海の中の登り坂を、黙々と登ってくる昇山《しょうざん》の人々。 「この道は剛氏《ごうし》が引いた道なのね……」 「どうだ? 珠晶《しゅしょう》も剛氏になるか?」 「王さまがだめだったら、それも悪くないわね。道を引く、っていうのは気に入ったわ。気に入らないこともないわけじゃないけど」 「うん?」 「剛氏のやり口って、仕方がないと分かっても、納得がいかないだけよ。そうね、どうせ家は飛び出してきたんだし、このまま黄朱《こうしゅ》になっちゃおうかしら。でもって剛氏や朱氏《しゅし》にもう少しまともなものの考え方を教えてあげるのも悪くないかも」  妙な奴だ、と近迫《きんはく》は声をあげて笑ったが、頑丘《がんきゅう》は溜《た》め息《いき》をついた。 「ばかなことを言ってないで、さっと歩け」 「あらあたし、結構、本気よ?」 「じゃあ、ばかなことを考えないで、おとなしく歩いていろ」  なによ、と珠晶が反論しようとしたとき、列の先を行く剛氏の一人が声をあげた。 「──おい」  珠晶が顔を上げると、急な斜面の先に木が倒れ込んでいて、それが道を塞《ふさ》いでいるのだ。  ではまた、騎獣《きじゅう》と人とであれをどけないといけないんだわ、と珠晶《しゅしょう》は何度か経験した作業のことを思い出した。行程を妨げられた気がしてじりじりするのが半分、騎獣や馬が可哀想《かわいそう》でもあり、同時に彼らの働く姿が見られて嬉しくもある。  近迫《きんはく》ら剛氏《ごうし》たちと、頑丘《がんきゅう》とがその倒木に駆け寄った。背後から続く者たちの何人かがそれに気づき、そのうちの一人があわてて坂を下って戻っていった。室季和《しつきわ》に知らせるのだろう。頑丘たちは倒木と森の左手を示しては何事かを話し合っていた。見ると、左手の森の中にかろうじてそれと分かる細い踏み分け道が続いている。 「どうしたのかしら……」  珠晶がつぶやくと、利広《りこう》も、さあ、と首をかしげた。  頑丘らは、森を指し、あるいは天を見上げて、難しい顔をしていた。思わず珠晶も頭上を見上げる。陽は傾き、どちらかといえば午《ひる》よりも夕刻のほうに近い。  ようやく何かをうなずき合って、頑丘らが戻ってきた。 「どうしたの?」  珠晶が訊《き》くと、頑丘は駮《はく》の手綱《たづな》を森のほうへと引く。 「ここで野営する」 「だって、まだ」  珠晶《しゅしょう》は天を示した。 「この先の道は通れない。森の中を迂回《うかい》しないといけないが、道がない。ここで野営して、一気に明日、森を抜ける」 「どうして? 倒木なら、いつかみたいにどけてしまえば……」 「あの先に妖魔《ようま》がいる。それも、大物が」 「……え」 「あれは剛氏《ごうし》があえて塞《ふさ》いだものだ。それも新しい。この冬かそこらのものだ。──倒木が、左右から倒しこまれているだろう」  見てみると、実際、左右から道を塞いだ倒木の根本は、折れたというより、刃物をもって切り倒された形をしていた。 「あれは、手に負えない妖魔《ようま》が棲《す》みついたから迂回せよ、という印らしい」       6 「……この先が通れないというのは本当かね」  あわてたように室季和《しつきわ》をはじめとする数人がやってきた。黄朱《こうしゅ》は道を離れ、森をかなり入った場所に集まって、すでに野営地を設営していた。  うなずいたのは、例によって近迫《きんはく》だった。 「無理だ。通るな、と印が残っているくらいだから、諦《あきら》めたほうがいい」 「しかしだね……」 「それで、どうしようというわけだ?」  口を挟《はさ》んだのは聯紵台《れんちょだい》で、紵台が黄朱《こうしゅ》を訪ねてきたことに、珠晶《しゅしょう》は少し驚いた。 「仲間が迂回路《うかいろ》を示してある。道を逸《そ》れてこの森を突っ切って大廻りしていく」 「それはどれくらいかかるのかね。安全なのか」 「このまままっすぐ進むより安全だ。この森自体は、急げば一日で抜けられるだろう。そこから道に出るまでが難儀《なんぎ》だが、おそらく仲間が目印を置いてくれているだろうと思う」 「迷う可能性はないのか」 「ないとは言えんな。──だからそれなりの準備がいる」 「それほどの危険を冒すほどの相手なのか、その妖魔《ようま》とやらは」 「何がいるのかまでは分からんが、ああして通るなと塞《せ》き止めてある以上、よほどの相手だってことはまちがいがねえ」 「そうか──」 「ひとつ、頼みをしてもよござんすかね」  なんだ、と紵台《ちょだい》は眉《まゆ》を上げた。 「あんたのお仲間にも、森の中に潜《ひそ》むように言ってほしいんだがね。今夜は火を焚《た》かない、ましてや肉や魚は煮炊《にた》きしない。鳥や羊を絞《し》めるのも絶対にやめてもらいたい。できたら干した飯粒でも喰《く》って、できるだけ静かにしてもらいたいんだ。物音や気配が届かないだけの間合いを取って塞《ふさ》いであるとはいえ、用心に越したことはないんでね」 「確約はできないが、心がけよう」  言って踵《きびす》を返し、森の中を道へと向かって下っていく。それを見送って、季和《きわ》は不審そうに鼻を鳴らしてから、近迫《きんはく》に向かって笑みを浮かべた。 「いや、剛氏《ごうし》のおかけで助かった。なんにせよ、今夜は静かに身を潜《ひそ》めておれば、恐ろしいものの襲撃は受けずにすむんですな?」 「さてな」  近迫の答えはにべもない。 「あの倒木は、おそらくこの冬、それも早い頃に仕掛けられたものだろうよ。肝心《かんじん》の妖魔《ようま》が餌《えさ》を探してさらに移動してないとは限らんし、ましてやそれがこの付近やこの先でないという保証もねえ。ま、今夜は見張りを立てて、警戒しておくことだ」  季和《きわ》は少し不安そうな顔をしたが、重々しくうなずいた。 「しかし、この森の中をかき分けていくんじゃ、馬車は通れませんな」 「無理だ。荷車に移して人で押すか──一番いいのは馬車も荷車も捨てて、できるだけ馬と人に振り分けることだな。それで担《かつ》げないぶんは、他の連中に配《くば》っちまったほうがいい」 「そ、そんな」 「あんたはまさか、蓬山《ほうざん》まであの馬車を連れていけるとでも思ってたのかい。どうせもうじき、悪路にはいる。このまままっすぐ行ったって、いずれ捨てなきゃならなかったんだ」 「しかし──」 「できるだけ静かに荷を作るんだな。背負うものがなければ、幌《ほろ》と天幕《てんまく》を裂《さ》いて作れ。大事なのは水と食料だ。それでも背負いきれねえってんなら、水だ」 「水はいかほど──」  近迫《きんはく》は、軽く舌打ちをした。 「俺が知るか。この先は俺たちにも分からん。迂回《うかい》してどこに出られるのも分からんのだ。水が尽きたら、そこがあんたの死に場所だ」 「では、斥候《せっこう》を立てたらどうかね」 「やりたきゃ、勝手にやりな。俺たちはそういうことはしない」  季和《きわ》は困惑したように黙りこんだ。  とぼとぼと去っていく季和らを見送り、近迫《きんはく》たち剛氏《ごうし》は、今度は集まった珠晶《しゅしょう》ら、黄朱《こうしゅ》に守られる人々を見た。 「今、言った通りの状況だ。ここからどうなるか、俺たちにも分からん。申し訳ないが、しばらく、相当の苦労をしてもらわにゃならん」  近迫の主人は、温厚そうな初老の男で、これは近迫を全面的に信頼しているらしく、黙ってうなずいただけだった。中には、不安を述べる者もあったが、全員が己の雇《やと》った剛氏になだめられて、最後には納得したふうだった。  そうか、と珠晶は思った。これが季和たちとの違いなのだ。雇った者と雇われた者、雇ったほうには、そもそも剛氏抜きで黄海《こうかい》が越えられるはずがないという思いがある。あるからこそ、剛氏を雇う。自分の命を預ける相手を探して、連れてきたのだ。だからこそ、命を預けた相手に対する信頼がある。 「信頼してくれない人間の面倒まではみれないって、そういうこと?」  珠晶《しゅしょう》が小声で頑丘《がんきゅう》に訊《き》くと、頑丘はぽかんとしたように目を丸くした。 「──何だって?」 「頑丘たちが、他の人に冷たいわけ。……信頼してくれないのに、面倒だけ見てくれなんて、確かにそれは無理ってものかもしれないわね」  近迫《きんはく》は、彼自身のことを考えれば気の良い男だと珠晶は思う。頑丘だって嫌《いや》なところがないわけじゃないが、憎《にく》いとは思わない。少なくとも、珠晶を黄海《こうかい》に入れてくれたし、珠晶の面倒はきちんと見てくれている。それがどうして、他の者に対してはああも冷淡になれるのか、珠晶はどうしても納得できないのだ。その答えを見出した気分で、やっと小さく溜飲《りゅういん》を下げたのだが、頑丘の答えはそっけなかった。 「……お前は、ばかか?」  今度は、珠晶がぽかんとする番だった。 「……なによ、それ」  気色《けしき》ばんだ珠晶だったが、頑丘は呆《あき》れたように珠晶を見て、近迫のそばに何事かを相談しに行ってしまった。 「人がせっかく、善意に解釈してあげてるのにっ」  むっとして吐き出した珠晶の肩を、利広《りこう》が叩《たた》く。例によって気抜けするような笑みを浮かべている。 「まあまあ、座って。……とにかく、私たちはおとなしくしていよう。こういう場面ではお荷物なんだからね」 「でもね、あれってあり?」 「珠晶《しゅしょう》が剛氏《ごうし》について考えるのは、とてもいいことだと思うけどね」  利広《りこう》は笑う。 「自分の得たい答えを探すために考えるのじゃ、意味がない」 「なあに、それ」 「珠晶は聡明でいい子だと私は思うよ。何のかんのと言いながら、頑丘《がんきゅう》を気に入ってるんだろう。だから、良い人だと思いたい。──違うかい?」  不本意ながら、珠晶はうなずいた。しおしおと星彩《せいさい》のそばに座ってずいぶん汚れたように見える毛並みに背中をあずける。 「……そういうことに……なるのかしらね」 「だが、私には、珠晶の言う『良い人』と頑丘の思っている『良い人』がすれ違っているように思える。頑丘には頑丘の思惑《おもわく》や理屈があるんだ。それを珠晶の理屈で、是非を決めても意味がないんだよ」 「……分からないわ、そんなの」 「珠晶《しゅしょう》は騎獣《きじゅう》が好きだ。──だろう?」 「ええ、そうよ」 「だから、騎商《きしょう》や朱氏《しゅし》になりたいとさえ思う。黄朱《こうしゅ》の民になってみたいかい?」 「実を言えば、かなりそういう気もするわ」  うん、と利広《りこう》はうなずいて微笑《ほほえ》む。 「しかし珠晶は、黄朱であると言うことが、どういうことなのか分かっているんだろうか?」 「なによ、それ……」  珠晶が利広《りこう》を見上げたのと同時に、頑丘《がんきゅう》の溜《た》め息《いき》がした。 「|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》をやったり取ったりできる人に、そういうことを言われても何だかな」  利広は笑って頑丘が座るための場所を空《あ》けた。 「それは手厳しいな」 「本当のことだろう。※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞に乗って絹の袍《ほう》を着て黄海《こうかい》に入れる人間が、黄朱の何を理解できるとも思わんがね、俺は」 「まあ、そうだろうねえ」  苦笑するように笑った利広《りこう》の顔を見つめ、頑丘《がんきゅう》の渋面《じゅうめん》を見て、珠晶《しゅしょう》は手を握った。 「それは、あたしには分かるはずがない、ということ? 黄朱《こうしゅ》であることがどんなに大変だか分かってるはずがないから、って?」  頑丘はごく当たり前のことのようにうなずいた。 「お前は浮民《ふみん》になったことなどないだろう、お嬢さん」 「……そう。あんたたちがいかにばかか、良く分かったわ」  頑丘は顔色をなくして震えているその子供に笑ってみせる。 「珠晶は利口《りこう》なんだろう、分かっているとも」 「ええ、そうよ」  珠晶は傲然《ごうぜん》と言い放つ。 「あたしは万賈《ばんこ》の娘で、庠学《しょうがく》でも一番、お利口だったの。あたしが分かってないんじゃなくて、あんたたちが分かってないのよ」 「そういうことを言っている限り、黄朱のことは分からない」 「分からないと思うのは、あんたが狗尾《こうび》よりもましな人間になったことがなくて、利口になったことがないからだわ」  なに、と頑丘は思わず背を幹から浮かせた。珠晶はそれを冷たく見やって、立ち上がる。 「六十五両はくれてやるわ。──ここまでご苦労さま。さようなら」       7 「おや、お嬢ちゃん」  むっつりと木の下で車座《くるまざ》になった人々の中から、聯紵台《れんちょだい》が振り返った。 「──また何か話かな?」 「お願いがあって来たの、あたし」 「何かね?」 「あたし、朱氏《しゅし》を見限ることにしたの。下働きでも何でもするから、聯さんのところで雇《やと》ってもらえないかしら」  紵台は目を丸くした。 「その……君がかね?」 「ええ。ここまで来たのを見てもお分かりのように、少なくとも身体《からだ》は丈夫よ。足も丈夫だし、我ながら働き者だと思うわ。……だめかしら? 本当に一番の下っ端でいいんだけど」  紵台《ちょだい》は集まった人々に目配せをして、珠晶《しゅしょう》を招いた。 「悪いことは言わないから、朱氏《しゅし》のところに帰りなさい」 「いやよ。朱氏や剛氏《ごうし》のやり口には我慢できないの、あたし」 「やり口──?」 「ええ。それ以上は訊《き》かないで。口にしたくもないわ」  紵台は痩《や》せた顔を曇《くも》らせる。 「お嬢さん──珠晶だったか。珠晶がどうしても、と言うのなら客分として扱うことはたやすいことだが、残念ながら、私は珠晶の言う通り、黄海《こうかい》に関しては素人《しろうと》だ」 「いくら黄海に対する知識があっても、歪《ゆが》んだ心でそれを使うなら意味なんかないわ」 「歪んだ心、とは」  珠晶は地面をにらみ据《え》える。まだ怒りで手が震えていた。 「黄朱《こうしゅ》は浮民《ふみん》だわ。浮民が大変だということは分かる。家を持たずに、どこの王にも守ってもらえずに生きるということが、どれだけ大変なのか分からないわけじゃないわ」  だって、と珠晶は紵台を見上げた。 「王がいないと困るのよ。妖魔《ようま》が出ると困るのよ。だからこれだけの人が、危険を承知で蓬山《ほうざん》に向かっているんじゃないの!」  紵台《ちょだい》は黙って珠晶《しゅしょう》を見つめた。 「浮民は辛《つら》い、浮民になったことのないあたしたちには浮民《ふみん》の気持ちなんか分かるはずがない、と言うわけよ。それが分からなかったら、誰も黄海《こうかい》になんか来ないわ。分かってないのは黄朱のほうよ。黄朱が恵まれた民でないことなんか、少し考えれば誰にだって分かることだわ。だからって恵まれてないことに拗《す》ねて、恵まれた者を妬《ねた》んで、自分たちだけが詳《くわ》しい場所に入ったのをいいことに、日頃の溜飲《りゅういん》を下げようなんて」 「珠晶──?」 「どんなに黄海に対する知識があったって、それを報復のために使うのなら、そんな知識はないほうがましだわ。──これ以上は言いたくない。少なくともここまで連れてきてもらったことに対しては、恩義を感じているから」  そうか、と紵台は考えこむようにする。 「でももう、顔も見たくないの。どうせ聯《れん》さんは、このまま道を行くんでしょう?」  珠晶が訊《き》くと、紵台は首を振った。 「いや、我々は、今回ばかりは剛氏《ごうし》の助言に従って、剛氏の後について行こうと考えている」 「どうして? これまではずっと──」 「剛氏《ごうし》がわざわざ、知らせたいことがある、と言ってくれた種類のことだからだよ」 「剛氏が使いを出したの? 聯《れん》さんのところに?」  それで紵台《ちょだい》が珍しく、剛氏に話を聞きにきていたのか。 「剛氏がわざわざ知らせてくれるぐらいだから、この先は本当に行けないのだろう。そこで行ってみるほど、私は無謀《むぼう》ではない。これまでだって、何も剛氏に逆らうために、迂回路《うかいろ》を探していたわけではないのだから」 「でも」 「沼を迂回しようとしたのは、沼に何かがいるようだと分かったからだ。剛氏たちはそれを知っていて、それなりの備えをしてあったようだが、我々にはそれがなかった。剛氏が備えをもって渡る沼なら、備えがなければ渡れない、ということだ。──違うかね?」 「そういうことになるわね……」 「だから迂回路を探したのであって、剛氏に逆らうために道を探したわけではない。剛氏でさえこの先には行かないのというのなら、我々もやめておこうと思う。迂回するために道を探さなくてはならないというのなら、剛氏の後をついていくしかない」 「そう……」 「もっとも、季和《きわ》たちはあの倒木を除去して、このまま道を進むらしいが」  珠晶《しゅしょう》は目を見開いた。 「室《しつ》さんが──本当に?」 「……いいのかい?」  利広《りこう》は頑丘《がんきゅう》に問うた。頑丘は珠晶を追うように立ち上がったまま、それきり動かない。ただ視線だけが、珠晶の消えた方向に向かっていた。 「……勝手にするさ。どうせ代金は全額もらってあるからな」  頑丘は言ったが、その声はいささか覇気《はき》を欠いていた。 「ふうん?」 「お嬢さんの考えることは、俺にはさっぱり分からん」 「そうかい?」  言った利広を、頑丘は振り返った。 「そういうお前こそ、あのじゃじゃ馬を送るために、わざわざ来たんじゃないのか」 「そうなんだけどね」 「だったら、行け」  言って頑丘《がんきゅう》は、その場に腰を下ろした。利広《りこう》は笑む。 「それはひどいな。黄海《こうかい》で黄朱《こうしゅ》のそばを離れちゃあ危険だろう?」  そうだが、と頑丘が見た利広の顔は正体不明の笑みを浮かべていた。 「私だって命は惜《お》しいからね。あいにく、他人のために無駄に捨てる命は持ってない」 「だったらなぜ、黄海にまで来た」 「必要だと思ったからだよ。そしてたぶん、必要がなくなったんだろう」  頑丘は首をかしげた。 「……さっぱり分からん」 「珠晶《しゅしょう》を追っていくのは簡単だけど、頑丘がいないのじゃ、行ってもあまり意味はなさそうだ」  どういう意味だ、と訊《き》くように顔を上げた頑丘に、利広は苦笑した。 「たぶん珠晶は紵台《ちょだい》か季和《きわ》のところに行ったと思うよ。いくら何でも一人で蓬山《ほうざん》まで行けると思うほど、珠晶は愚かじゃないからね。そしてそばに黄朱がいなければ、珠晶は蓬山にたどりつくことはできないと思うんだ」  なるほど、と頑丘は口元を歪《ゆが》めた。 「登極《とうきょく》しない珠晶を守ってやる必要はないということか」 「登極《とうきょく》しない珠晶《しゅしょう》には、私が必要ない、ということだよ」  あの子供が蓬山《ほうざん》に行く、と言ったとき、利広《りこう》の中に、この子供が王だという直感が芽生《めば》えた。珠晶と会ったあの里《まち》に目的があって行ったわけではなかった。何となく足を止め、何となく墓場の様子を見てみたく思って里の裏手に回り、そして何となく星彩《せいさい》のそばを離れた。  頑丘《がんきゅう》が心中を読んだように言う。 「人と人との出会いなんてのは、総じてそういうものだと思うがな……」 「だろうね。……ただね、珠晶が誰かに会ったことが重大なんじゃない、珠晶が他ならぬ私に会ったことが重大なんだよ」 「酔狂《すいきょう》な人間など、お前さん以外にもいるかもしれん」 「頑丘は、……でないから、分からない」  途中が聞き取れず、利広を見た頑丘に、利広は笑った。 「頑丘は黄朱《こうしゅ》だ。だから、私の同類ではない。私たちの思惑《おもわく》は理解できない」 「へい、さようでございますか」  くすりと利広は、さらに笑った。 「これは理解を拒絶する言葉だ。説明されなければ、理解できるもできないもない」 「俺が狭量だと言いたいわけか」 「そんなことは言わないよ。黄朱《こうしゅ》の気持ちは黄朱にしか分からない。それも事実なんだよ。何事につけても、自分の身に起こってみなければ、理解できないものというのはあるからね。それは事実だけれども、同時に理解を拒絶する言葉でもある。理解を拒絶するくせに、理解できない相手を責める言葉だ」  頑丘《がんきゅう》は黙りこんだ。 「──けれども、珠晶《しゅしょう》は頑丘を理解したかったんだよ」 「できるとは思わない」 「説明するのが面倒かい?」 「そういうわけじゃない」 「では、頑丘は珠晶に理解されたくなかったのかな。そうでなければ、説明してなお、理解されないことが怖《こわ》かったのか」  頑丘は息を吐いた。 「……そういうことじゃない。単に俺は、珠晶には理解できないと思うだけだ」 「ふうん?」 「なぜなら、俺には、国土に王が必要だと言う者が理解できないからだ。なぜ昇山《しょうざん》してまで王をほしがるのか分からない」  そうか、と利広《りこう》は苦笑した。 「それは確かに、理解は難しいかもしれないな」  頑丘《がんきゅう》はそれきり黙りこみ、利広もそれで黙りこんだ。  野営地には火がない。そこここに散った人々は、重い沈黙と闇に包まれて一夜を明かした。  一夜が明け、十分に空間が明るむのを待って、黄朱《こうしゅ》はようやく立ち上がり、荷を作った。頑丘《がんきゅう》もまた、むっつりと黙りこんで同じように荷を駮《はく》に積む。そこにやってきたのは、近迫《きんはく》だった。 「頑丘──」  近迫の背後には紵台《ちょだい》の姿が見えた。 「嬢ちゃんが」 「あのじゃじゃ馬なら、ここにはいないぞ。俺は解雇《かいこ》されたんだ」 「知っています」  口を挟《はさ》んだのは紵台だった。 「そして、珠晶《しゅしょう》は季和《きわ》のところに行った」 「なるほど」 「季和は、昨夜のうちに倒木を除《よ》けて、道を行った」  頑丘《がんきゅう》は驚いて紵台《ちょだい》の硬い表情を見た。紵台はうなずく。近迫はその脇で口元を歪《ゆが》めた。 「どうやらあのお大尽《だいじん》は、どうあっても馬車を手放したくなかったらしいな。夜が明け始めると同時に、あの道を行きやがった。行くのは勝手だが、嬢ちゃんがついていったらしい。──いいのか、それで」  言った近迫《きんはく》に、頑丘はうなずく。 「あえて死にたいというなら、それも珠晶の勝手だろう。俺は解雇《かいこ》されたんだ。もう関係ない」 [#改ページ] 四 章       1 「頭っから、あたしには分かるはずがない、って。──あたし、そういうふうに、馬鹿者みたいに扱われるのって大っ嫌い」  珠晶《しゅしょう》はつぶやく。季和《きわ》はそれに大仰《おおぎょう》にうなずいた。 「確かにそれは失礼な話だ。珠晶は尋常の子供ではない。何しろ昇山《しょうざん》しようかというのだからね」 「……まあね」 「なに、猟尸師《りょうしし》などというものは、そんなものだよ。結局のところ世を拗《す》ねておるんだ。黄朱《こうしゅ》、黄朱と言うが、黄朱の中にも恭《きょう》の生まれの者がいる。しかし連中が昇山したという話は聞かない。もっともこれまで、黄朱《こうしゅ》の中から王が出たという話も聞かないがね」 「黄朱は、子供の頃から黄海《こうかい》で育つから、黄海の外のことが分からないのよ。そりゃあ、あたしは黄朱じゃないわ。けれどもそれで言うなら、黄朱だって商人の家のことなんて知らないわけじゃない。なのに自分は分かった顔なのよ。事あるごとにお嬢さま、って皮肉を言うの。黄朱のことは黄朱にしか分からない、と言うなら、あたしにだって豪商の家に生まれた人間でなきゃ、あたしのことは分からない、って言ってやる権利があると思うわ」 「いや、まったくだ。まあ、小物は他人の都合など理解できんということだよ」  季和《きわ》は言って、周囲を見回した。 「いったい、これだけの荷を、どうやって人で運べというのだろう。そうじゃないかね、珠晶《しゅしょう》」  そうね、と珠晶は同じく、周囲に視線を向かわせる。  うずたかく荷の積まれた馬車の荷台。その荷の間に厚い敷物を延べて、季和はどっしりと座っている。乗り心地はあまり良くなかった。道が良くないせいだ。 「確かに、こんなにあったんじゃ、人が全部運ぶことは不可能だわね」  一台の馬車と三台の荷車。  うなずいたものの、珠晶《しゅしょう》は少し居心地《いごこち》の悪い思いで季和《きわ》の顔を見た。 「本当にたくさんの荷物だわ。……どうしてこんなにたくさんの荷が必要なの?」  季和は笑った。 「私には多くの連れがいるからね。全員の分の食料だけでも、並大抵の量ではないんだよ。それを、何日かかるか分からない行程の、その間に必要な水と食料をどうやって運べというんだろうね」  確かに四十人分からの食料というと、大層な量になるだろう。でも、と珠晶は首を傾けた。 「随従《ずいじゅう》の一人一人が、自分のぶんを持つ、というのじゃだめなの?」  季和は話にならないというふうに手を振る。 「何日かかるか分かっていればね。第一、私は樽《たる》で水を積んできた。水一樽、背負えというのは簡単だが、それを実際に運ぶ苦労は並大抵ではないよ。小分けして運ぼうにも、そもそも入れ物がない」  そうね、とつぶやきながら、珠晶は背後を見た。紗《しゃ》の幕が下がっているせいで、荷物を背負った随従たちが荷車を懸命に押しているのが見えた。 「どうしたね、珠晶。落ち着かないね。──怖《こわ》いのかね?」 「ええ。──そうでもない気もするけど、どうかしら」  珠晶《しゅしょう》は言葉を濁す。妖魔《ようま》がいるという、まさにその場所に向かうのだから不安はもちろんある。怖《こわ》いとえば怖いのだが、これは自分で頑丘《がんきゅう》の顔を見るのが嫌《いや》さに選んだことだから不満を言う気はそもそもない。それよりも気になるのは、馬車で運ばれていることだ。黄海《こうかい》に入ってから、ずっとここまで歩いてきた。歩きながら薪《まき》を拾い、湧《わ》き水があれば水を汲《く》む。それを続けていたのに、座っているだけで進むというのが落ち着かない。 「だいじょうぶだよ、珠晶。妖魔がいるというが、あの倒木は冬の初めの頃のものだというじゃないか。それからどれだけの日数が経《た》っていると思う? 妖魔だって食べるものが必要だ。ああして道を閉ざしてしまえば、通る者もないわけじゃないか。餌《えさ》をなくしてとっくにどこかに行っているよ」 「ええ、そうね。そうかもしれないわ」  だろう、と季和《きわ》は自慢そうに笑みを浮かべた。 「これだけ長い間黄海を旅していれば、素人《しろうと》にだって知恵がつくというものだ。私だってそんなに侮《あなど》ったものでもない。なにしろ紵台《ちょだい》とは違って、ずっと剛氏《ごうし》のすることを見守ってきたのだからね。しかし、馬車を捨てろはないだろう。私にも私の都合というものがある」  荷の都合ね、と珠晶《しゅしょう》は曖昧《あいまい》に相槌《あいづち》を打った。 「でもね……全部の水を運ぼうと思うから無理があるんじゃないかしら。とりあえず、運べるだけ運んで、それをやりくりしたほうが」 「この先、ちゃんと飲める水が汲《く》めるかどうかも分からないのに?」 「それはそうだけど、でも、頑《がん》──黄朱《こうしゅ》は、みんな、せいぜい水袋ひとつだけだったわ。黄朱がそれでやっていけるんだから、室《しつ》さんたちだって、ひとり頭それくらいの水があれば十分じゃないの?」  季和《きわ》は手を振った。 「黄朱と一緒にしてもらっては困るな。黄朱はね、飲めない水を飲めるようにする石を持っているんだ」 「ああ……そう言えば」 「だが、我々はそんなものがあることなど知らなかった。当然、持ってもいない。だから黄朱よりもたくさんの水を持っておかねばならない」  言って季和は、どうしてだか、声を潜《ひそ》めた。 「ひどい話を聞いたかね?」 「ひどい……話?」 「ほら、飲めない水の湖があったろう」  ほんのわずか、珠晶《しゅしょう》はひやりとした。 「え……ええ」 「あそこから沼地まで、細い沢があったけれど、飲めなかった」 「それは、そうでしょう。あの湖から流れ落ちてる水だもの」 「そうとも。だから飲めない。ところが、全ての者が、私のようにたっぷりと水を持っているわけではない」 「ああ、そうね」 「剛氏《ごうし》たちは、あの水に石を入れて、それで飲み水にしている。その石を譲《ゆず》ってほしいと思わない者はいないだろう?」 「それは、思うでしょうね」 「水に困った者が、譲ってほしいと言ったのだそうだよ。それをにべもなく断られた。断られた以上、仕方がないが、汲《く》んできた水が尽きると、もう飲めない水を飲むしかない」 「それで、飲んだの?」  いやいや、と季和《きわ》は首を振った。 「もう一度、剛氏のところに行って、石を譲ってくれと縋《すが》ったんだ。ところが、剛氏は頑《がん》として譲《ゆず》らない。それでまあ、思いあまった者がいたんだ」 「まさか……盗んだの?」 「盗もうとしたんだよ。可哀想《かわいそう》に。わたしは盗んだ者を責める気はないよ。なにしろ、飲むものがなければ渇《かわ》き死ぬしかないのだからね。そうしたら、それを見つかってひどい目にあったそうだ」 「喧嘩《けんか》になったんだわ……。それ、沼をあがってからのことじゃない?」  たしか、そういう風景を見た。 「そう、それだよ。剛氏《ごうし》が集まって殴《なぐ》る蹴《け》るのしたあげく、本当なら妖魔《ようま》の巣の中に放り込んでやるところだ、と捨《す》て科白《ぜりふ》を吐いたというだ。それで困っていたのでね、結局わたしが水を分けてやったのだが」 「そう……」 「あんまりな話じゃないか。困っている人間がいるのだから、助けてやってもいいだろう。それをせずに思いあまると暴力でこらしめるというのかい。私はね、どうも剛氏にはついていけないものを感じていたんだ。──道が分かれたのは、ちょうど良い機会だった」 「そうね……」  確かに、季和《きわ》の言う通りだ。自分たちが渇かなければ、他人がどんなに渇いてもいいという、そういう話じゃないのだろうか。──だが。  季和《きわ》の言う石のことは知っている。満甕石《まんおうせき》ということも。頑丘《がんきゅう》はそれを小袋の中にたくさん持っていた。けれども、その石は、ひとつあればいつまででも使えるというものではない。一度使うと捨てていたから、そういうことなのだろう。捨てた石は、真っ白だったものが、薄く黒とも緑ともつかない色に変わっていた。 「まったく剛氏《ごうし》は理解しがたい」 「でもね……剛氏だって、そんなにたくさんの石を持っていたわけじゃないし」  珠晶《しゅしょう》が言うと、季和は顎《あご》を引いて目を丸くする。 「べつにあたしも庇《かば》う気はさらさらないんだけど。だけど剛氏だって自分たちのぶんしか石を持ってないわけでしょ。蓬山《ほうざん》までどれくらいかかるかを考えて、道のりのことを考えて、どのくらいの石が必要なのか、勘定をして用意してあるわけじゃない。それを、誰かにあげたりしたら、自分たちが困ってしまうわ。石があるから、水の入った樽《たる》なんて、持ってきていないんだもの」 「今、目の前に困っている者がいるんだよ?」 「それはそうだけど。剛氏だってそんなに余分を持っているわけじゃないわ。むしろ、雨が降らないのを、頑丘だって気にしていたから、ほんとうにぎりぎりしかなかったんだと思うの。目の前の人にあげるのは簡単だけど、そんなことをしたら、みんな、くれって言うでしょ? だからって全員にあげられるはずがないし、第一あれは、一度しか使えないの。一度あげてしまうと、また次も、って話になるじゃない。そうしたら、石なんてすぐになくなってしまうわ」 「それは要は、自分が先々で水に困るのが嫌《いや》だから、今困っている者を見捨てるってことじゃないのかね?」 「そういうことになるけど……。でも、目の前にいる困った人を見捨てることが酷いことなんだったら、目の前にいる人が将来困ることを承知で何かをねだるのも、同じくらいひどいということになりはしない? 剛氏《ごうし》は自分の命だけでなく、雇《やと》った主人の命を預かっているのよ。今、情けを他人に振る舞って、将来主人を渇《かわ》き死《じ》にさせてしまったら本末転倒《ほんまつてんとう》だわ」 「なるほど、雇い主さえ無事で、半金がもらえればそれでいいというわけだ 「そうじゃなくて。──ああ、なんか、うまく言えない」  息を吐いて、珠晶《しゅしょう》はそっぽを向いた。まあ、と季和《きわ》は笑う。 「珠晶が恩義を感じて剛氏を庇《かば》うのは分かるがね」 「そういうつもりじゃないわ」  そう、珠晶《しゅしょう》には剛氏《ごうし》を庇《かば》う気などない。剛氏──黄朱《こうしゅ》だって庇われたくもないだろう。 (でも、庇ってるようにしか見えないわよね)  白々と陽が当たる道、薄く埃《ほこり》を舞い上げて馬車は進む。荷車を押す随従《ずいじゅう》の額には汗が流れていた。なんて多くの荷物。  しかし、次に黄海《こうかい》から出られる夏至《げし》まで、三ヶ月あるのだ。飢《う》えて死にたくなければ、それなりの食料が必要になる。思えば、一頭の騎獣《きじゅう》に乗せた、あれだけの荷で往復しようとした頑丘《がんきゅう》のほうが、どうかしているのかもしれない。 「……そうじゃないわ」  珠晶は口の中でつぶやく。頑丘は米など持っていなかった。珠晶は当然、米や小麦を持っていくのだろうと思っていたが、頑丘はそんなものを全く用意していなかったのだ。穀物の粉らしいものを荷袋にひとつ持っていて、あれが主食の全てだった。一度に使うのは器《うつわ》に半分程度、水を入れて煮ると嵩《かさ》が増えて、器三つにたっぷりあった。そこに入れる草はそのあたりから摘《つ》んできたもので、他に入れるものといえば、干した肉を削《そ》いだものか、そうでなければ干した小エビや海草、お茶だった。米や麦なら、あんな荷物ではすまなかっただろう。頑丘は小さく荷をまとめられるよう、そもそもそういったものしか準備していなかったのだ。──そういえば、同じようなものを利広《りこう》も持っていたけども、利広《りこう》はあれが必要であることをどうして知っていたのだろう。  ともかくも、そうやって荷が小さかったからこそ、妖魔《ようま》の襲撃があれば素早く荷をまとめて走り出すことができたのだ。  季和《きわ》は荷を豊富に持っている。だから身が重い。しかしそれでいいのだろうか。──妖魔が襲って来るというのに。 「ねえ、室《しつ》さん、やっぱり戻《もど》ったほうが良くはない?」  珠晶《しゅしょう》が言うと、季和は渋面《じゅうめん》を作る。 「荷を捨ててでも、そのほうが安全なのじゃないかしら」 「そうすると、私も珠晶も歩いて旅をしなければならないんだよ、珠晶」 「みんな歩いてる。無理じゃないわ」 「それはできないよ、分かるだろう?」       2  季和は午《ひる》に足を止めるにも、小さな天幕《てんまく》を張り、布を敷いた。火を焚《た》いて小麦をこねたのを、素焼きの皿を使って焼き、湯菜《しるもの》やお茶や果物《くだもの》を添えた。  珠晶《しゅしょう》はかえってそれが喉《のど》を通らなかった。──これは黄海《こうかい》を往《い》く者が食べるものではない。  夜になれば、火を焚《た》いてきちんと米を炊《た》こうとする。 「火は焚かないほうがいいって」  珠晶は止めたけれども、季和《きわ》は驚いたようにするばかり。 「火がないと、何も食べられない」 「でも、剛氏《ごうし》たちが焚き火はするなって言ってたでしょ? 倒木を越える前」 「もう私たちはあそこを越えてしまっているんだよ」  驚いたようにされて、珠晶のほうが目を丸くしてしまった。  道の先に妖魔《ようま》がいる。少なくとも剛氏でさえ迂回《うかい》してやりすごそうとする種類の妖魔だ。だから気配を立てないよう、火を熾《おこ》さないよう、家畜を絞《し》めないよう、近迫《きんはく》は言ったのだ。なぜなら、近くに妖魔がおり、人の気配や焚き火や、血のにおいがその妖魔を呼んでしまうかもしれないから。だったらその妖魔に近づいているいま、同じようにしなくてどうするのだろう。 「あれは──あそこ、倒木の下の、あの場所では煮炊《にた》きをするな、という意味じゃないのよ。火は危険なの。だから」 「火が危険?」 「だから剛氏《ごうし》はあんなに火を小さくして、すぐに消していたじゃない」 「もちろん、すぐに消すとも、珠晶《しゅしょう》」 「でも、こんなところで──」  季和《きわ》は馬車を道沿いの木の下に停めている。それにさしかけるようにした天幕《てんまく》は、広くなったその場所に完全に露出しており、そこから少し離れた場所に焚《た》いた火は、光を遮《さえぎ》るものがない。それは剛氏たちがするように木の枝で囲まれていたけれども、そうやって囲うことになんの意味があるのか分からなかった。  ああも頑丘《がんきゅう》が気をつけていれば、説明されなくても意図は明らかだ。木の下に寝るのは、梢《こずえ》が明かりや人や騎獣《きじゅう》の姿を隠してくれるからだ。特に妖鳥《ようちょう》の目を遮るため。だから隠してくれる枝が高い位置にあれば、縄《なわ》で枝を引き下ろしてでも軒《のき》を作った。焚き火の周りに枝を置くのは、火の明かりができる限り見えないようにするため、いくら焚き火の周囲を囲っても、露天で焚いていたのでは意味がない。 「室《しつ》さん、焚き火の周りの枝は……」  季和は先を遮った。 「ああ、あれか。珠晶は見ていなかったかい? 珠晶のところの猟尸師《りょうしし》もああしていただろう。風|避《よ》けだろうか、それとも何かの呪《まじな》いだろうかね。猟尸師《りょうしし》は妙なことをする。ああする以上は、何か意味があるんだろうね」  この男は、と珠晶《しゅしょう》は愕然《がくぜん》とした。剛氏《ごうし》の後をついて歩いて、いろんなことを真似《まね》しながら、どうして剛氏がそんなことをしているのか、理由や目的を何一つ考えていないのだ。ただ、やみくもに真似さえすれば安全なのだと思っている。 「室《しつ》さん、お願いよ、あれを消して」 「珠晶──?」 「黄朱《こうしゅ》が火を消すのは、火が危険だからよ。妖魔《ようま》は、焚《た》き火《び》があれば、そこに人がいるんだってことを知っているの。焚き火をめがけてやってくるのよ……」  季和《きわ》は目をまんまるに見開いた。ぽかんと口を開けて、それから大声をあげる。 「──火を消せ! すぐに消しなさい!!」  きょとんとしたように振り返る随従《ずいじゅう》を、声をあげて叱《しか》りとばし、季和は全ての火を消すように命じる。言われて火を消した者たちは、暗くなった周囲に不安そうなざわめきをあげた。  幾人かが、季和を訪ねてきた。これは季和の随従ではなく、季和に従った他の昇山《しょうざん》の者たちだった。 「室《しつ》さん、こんなに暗くてだいじょうぶなのかね」 「まだ満足に煮炊《にた》きもできていないのだが」 「不安は分かるが、我慢してくれ。焚《た》き火《び》をめがけて妖魔《ようま》が来るんだ」  説明する季和《きわ》に安堵《あんど》して、珠晶《しゅしょう》は林の中を示す。 「大きな木の下ならだいじょうぶよ。できるだけ葉の繁った、しかも低いところに枝のある木を選んでその下で──」 「冗談じゃない」  季和は恐ろしいことを聞いたように震えあがった。 「妖魔は焚き火をめがけてくるのだろう?」 「そうよ。だから、木の下で、小さく焚いて、見えないように枝で囲って──」 「そんなことで火の明かりが遮《さえ》られるわけがないじゃないか!」 「でも」 「枝を通しても明かりは見えるのじゃないのかね。それでなくても妖魔は夜目が利《き》くのだろう? だめだ、だめだ、火は絶対に焚くんじゃない」 「それじゃあかえってあたりが見えなくて危険だわ。今夜みたいに月の光がないときには、寝場所から離したところに一晩じゅう火を焚いておくのよ。上に枝をかぶせて、消えないよう、燃えすぎないようしておくの」 「あたりが見えるということは、あたりからだって火が見えるということじゃないか」 「そうなんだけど」 「ということは、みすみす妖魔《ようま》に襲ってくれと言うようなものじゃないか」 「だから寝場所からは離して──」 「だめだ。そんな危険は御免だよ、私は」  珠晶《しゅしょう》は懸命に説明をしようとしたが、季和《きわ》は火をめがけて妖魔が来るのだ、という考えに取《と》り憑《つ》かれたようで、まったく聞く耳を持たなかった。 「呆《あき》れた。……何て分からず屋なの」  むくれて珠晶は、季和の随従《ずいじゅう》から山羊《やぎ》を一頭借りた。 「べつに盗んだりしないわ。枕代わりにしたいだけ。貸してね」  言って、さっさと近くのそれらしい木の下に入る。灌木《かんぼく》のそばを選んで山羊を繋《つな》いだ。 「……お嬢ちゃん」  声をかけられて振り返ると、季和と行動を共にしている昇山《しょうざん》の者が数人立っていた。 「お嬢ちゃんは猟尸師《りょうしし》から、安全な寝方を習ったろう?」 「べつに習ってはいないけど……」 「しかし近くで見ていただろう。どうすりゃいいのか、教えもらえないだろうか」 「木の下よ。できるだけよく繁った。ここみたいに灌木《かんぼく》とか石とか、倒木なんかの身を隠してくれるものがあれば言うことがないわ。地面の窪《くぼ》みでもいいけど」 「ああ、なるほど」 「天幕《てんまく》は白いから目立つの。だから何もないほうがかえっていいの。枝が高ければ縄《なわ》をかけて引き下ろす。そうでなければ枝を落として衾褥《ふとん》代わりにかぶってもいいわ」 「ああ、そうか」 「匂いの強い木の近くのほうが安全よ。できれば火も焚《た》いておいたほうがいいの」 「しかし、火は──」 「盛大な焚き火はだめよ。見える範囲内の遠いところに竈《かまど》を作って火を焚いておく。頑丘《がんきゅう》は、樅《もみ》みたいな枝を切って上にかぶせておいたけど、どうすればくすぶったまま消えないようにしていられるのかは知らないわ」 「火があったほうがいいんだね?」 「火は危険だけど、ぜんぜんないと、今夜みたいに月がないときには、妖魔《ようま》が近づいてきても見えないでしょ? 近くにあるとかえって闇《やみ》が深いから、わざと離しておくのよ。そのほうが安全でよく見えるから。しかも妖魔は夜目が利《き》くぶん、明かりがあるとものが見づらいの。でもって馬とか騎獣《きじゅう》と一緒に寝るの。枕代わりにぴったり寄り添っていたほうがいいわ。獣《けもの》のほうが敏感だから、妖魔《ようま》が近づいてきたら身動きするもの。そしたら人も目が覚めるでしょ?」 「ああ、なるほど」  納得したふうな人々を見回し、ふいに珠晶《しゅしょう》は居心地《いごこち》の悪いものを感じた。 (ちゃんと聞いてもらえたわ)  頑丘《がんきゅう》は聞いてくれない、と言ったけれども、そんなことはない。むしろ人はやはり黄朱《こうしゅ》の知識を必要としているのだ。──だが、本当にこれでいいのだろうか。  こんなに簡単に聞いてもらえて、それでかえって居心地が悪い。珠晶はべつに、黄朱のように黄海《こうかい》で育ったわけではない。頑丘の見よう見まね、言葉の端々から察しただけ、それでもまるで何もかも分かっているかのように御託を並べて良いものだろうか。 「あの……あのね」  珠晶はあわてて言い添える。 「あたしだって黄朱ってほど黄海に詳《くわ》しくないから、その……鵜呑《うの》みにされても困るんだけど」 「いや、いいんだ。ありがとう」  いいえ、と安堵《あんど》して微笑《ほほえ》み、去っていく人々を見送って、珠晶《しゅしょう》は山羊《やぎ》を抱き寄せる。 「今夜はよろしくね」  しかし山羊は珠晶が嫌《いや》なのか、じたばたと逃げようとする。それを何とかなだめているうちに、林のあちこちで焚《た》き火《び》の明かりが見えた。そして人の走る音と、怒声と。言い争っている声と、水を撒《ま》く音、あるいは焚き火を踏み消す音。きょとんとして見守っている間に、また周囲はもとの闇《やみ》に戻った。 「呆《あき》れた。……室《しつ》さんって、ぜんぜん人の話を聞かないんだから」       3  嫌がる山羊を諦《あき》めて、珠晶はできるだけ灌木《かんぼく》の下に潜りこむようにして眠った。心細くない、不安でないと言ったら嘘《うそ》になる。あたりが暗くなり、静まると、いろんなことが脳裏《のうり》に浮かんで、なかなか寝つくことができなかった。  たくさんの荷と馬車。それを守るために季和《きわ》はあえて妖魔《ようま》がいると分かっている道に踏みこんだ。だが、たくさんの荷は気持ちが悪い。どうしても黄海《こうかい》にふさわしくない気がしてしまう。頑丘《がんきゅう》の顔を見るのが嫌《いや》でうかつについてきたけれども、肝心《かんじん》の季和《きわ》は、本人が豪語するわりに黄海《こうかい》のことなどまるで分かっていないに等しい。 (剛氏《ごうし》がちゃんと教えてあげないからいけないんだわ……)  そう思う反面、火は危険だと聞くと、有無を言わさず火を消してまわる季和《きわ》の姿を思う。 (答えだけ……)  紵台《ちょだい》の科白《せりふ》が脳裏《のうり》に浮かんだ。「火は危険だ」と教えることは、答えだけを教えた、とは言わないだろうか。どういう場合に、どれだけの火なら危険なのか、珠晶《しゅしょう》は知っているわけではない。離して火を焚《た》く必要のあることもあれば、絶対に火を焚いてはいけないこともある。これまではそれを頑丘が見極めてきた。ただ単に「火は危険だ」と知っていることは、答えだけを知っているに等しい。 (もっとちゃんと、一から十まで説明してくれればいいのよね)  しかし、そんなことができるのだろうか。黄朱《こうしゅ》は黄海で育つことによって、それを長い年月をかけて身につけるのだ。──かえして言えば、長い経験を積まなければ、本当の意味での知識は身につかないということだ。 (あたし、後悔しているのかしら……)  後悔してないと言えば嘘《うそ》になる、それは認めないといけないだろう。なんというか、しっくりこないのだ。季和《きわ》と一緒にいると、ここは自分のいるべき場所ではない、という気がしてならない。自分が場所にそぐわない感じ。 (それとも朱氏《しゅし》に染まった、っていうのかしらね)  けれども、頑丘《がんきゅう》のことを思い出すと胸の中で憤《いきどお》りが重い。 (謝《あやま》りに来るわけじゃなし)  こちらの道は危険なのじゃないだろうか。だからといって、止めにも来なかった。仮にも大金を受け取っているのだから、一応、口先だけでも詫《わ》びて、止めたってよさそうなものなのに。それとも、止めにくるほど危険ではない、ということだろうか。 (違うわよね。あたしが解雇《かいこ》したんだし……そうなったらあたしのことなんて知ったことじゃないんだわ。そういう人間だもの)  なんだか本当に腹立たしい。 (おまけに利広《りこう》まで来ないんだもの……)  自分から黄海《こうかい》までやってきたくせに。 (嫌《いや》だわ、……あたし、子供みたいな拗《す》ね方をしてる……)  それが、一番、腹が立つ。  一旦寝つけば、眠りは深かったが、珠晶《しゅしょう》は夜半に目覚《めざ》めた。どうして目覚めたのか、自分にもよく分からなかった。  まだ睡魔《すいま》は全身を覆《おお》っていて、半ば珠晶は朦朧《もうろう》としている。何となく目線で山羊《やぎ》の姿を捜したが、夜目に白いはずのその姿は見えなかった。木の裏側、灌木《かんぼく》の向こう側にでも入って眠っているのだろうか。そう思い、本当に何気なく手を伸ばして、木に括《くく》った綱《つな》を引いた。  珠晶は足を灌木の下に突っこむようにして、木の根を枕にしていた。ちょうど頭は幹についており、頭を動かしたすぐそこに、山羊を繋《つな》いだ綱の結び目があった。手先でたぐって縄《なわ》を掴《つか》み、軽く引くとするりと動いた。何の気なしにさらに引けば、抵抗なくいくらでもたぐりよせることができる。  何かがおかしい、と思ったとき、たぐった綱の先が濡《ぬ》れていることに気づいた。  ──何かで濡れて……。  その意味を考える間もなく、綱の端が手の中に入った。  綱が切れている。 (山羊は……?)  ようやく芯《しん》から目が覚めた。かざした綱の先は裂《さ》けてちぎれている。 (山羊《やぎ》が……いない)  震えが立ち上ってきた。ちぎれた綱《つな》、たぐった手は濡《ぬ》れて粘《ねば》る。  悲鳴をあげそうになったが、珠晶《しゅしょう》はかろうじてもちこたえた。綱を投げ捨て、起き上がりたかったが、これも意志の力を総動員して堪《こら》えることができた。かわりに震える手の中に綱を抱きこみ、じっと息を殺して耳を澄ます。 (動いちゃだめ……。じっとして、声をあげない)  自分に言い聞かせたが、目が闇《やみ》を探ることだけは止めることができず、同時に息が荒くなることも止めることはできなかった。できるだけ静かに深く吸って吐く、それで精一杯。鼓動《こどう》が耳を聾《ろう》するほど、周囲の音は聞き取れない。少なくとも、それさえかき消して悲鳴が聞こえるような、そういうことはなかった。 (近くにいるの……? それとも──)  気配を探ろうとしたが、自分の呼吸と鼓動の音以外、何も聞こえなかった。微《かす》かに見える幹の線、根本《ねもと》に隆起した根の瘤《こぶ》、手の届く範囲の灌木《かんぼく》や草むら、誰も──何もいないように思える。 (どこかに行った──?)  思ったとき、横向いた珠晶の頬《ほお》に何かがこぼれ落ちてきた。  水の滴《したた》るような感触、それがひとつ、ふたつ。頬に落ちて、水滴は珠晶の顔を流れる。また、水滴が落ちてきた。蟀谷《こめかみ》に当たったそれが、目元へと流れてきた。  雨か、……それとも。 (……上)  木の上だ。そこから、何かが。  目に映《うつ》るのは、間近の木の根、木の枝は視野の中に見えない。視線だけを上向けても、頭上を覆《おお》った枝の先が影のようにわずかに見えるばかり。  ま、何かが滴ってきた。生臭《なまぐさ》い、錆《さ》びを含んだ臭気がした。  それ以上、無視はできなかった。珠晶はおそるおそる、仰向《あおむ》いた。身動きしないよう全身に力をこめ、息を殺して頭だけを動かす。  白いものが見えた。頭上の枝に引っかかった白い何かと、その傍《かたわ》らの黒い大きな影。それはすぐ頭上の枝の上にうずくまっている。  悲鳴が痙攣《けいれん》のように胸の下から突き上げてきて、胸郭《きょうかく》をひきつらせて喉《のど》をこすった。それは音にならなかった。悲鳴を呑《の》みこむことができたのではない。声を発することができなかったのだ。  全身は麻痺《まひ》したよう、間断なく胸が痙攣した。  目の前で、白いものが伸び、裂《さ》けた。ぽたぽたと滴《しずく》が降ってきた。 (気づかれるわ……絶対)  じっとしていたら、いつか必ず気づかれる。それよりも、あいつが山羊《やぎ》に取りかかっている間に、逃げたほうが。  ほんの少し目線を下げるだけでいいのだ。ふっと下を見てみれば、それは珠晶《しゅしょう》に気づく。 (その前に、逃げないと)  けれどもどうやって音を立てずに逃げ出せばいいのだろう。 (音なんて)  気にしても仕方ない。鼓動《こどう》の音も、噛《か》みしめた歯が鳴っているのも、そもそも聞こえていないはずがないのだから。 (でも、……動けない)  指一本、動かない。 (あたし……ばかだったと思うわ……)  とっても反省しているから。 (頑丘《がんきゅう》……助けて……)  その祈りが聞こえたかのようだった。どこかで叫び声がした。 「──おい! 馬が!!」  頭上の枝が鳴った。上のそれは身動きをした。  呼び交わす声と、人があわてて動く音。ついで白いものが、珠晶《しゅしょう》の間近に降ってきて、そして嫌《いや》な音と嫌なにおいの飛沫《ひまつ》をあげた。さらに枝が鳴った。大きくしなり、たわんで跳《は》ねた。  人の悲鳴と、馬の嘶《いなな》き、大勢の人々が右往左往を始める音。  それを聞きながら、珠晶はじっと頭上を見ていた。揺れた枝は静かに動きを止めた。そこにはもう、あの黒い影は見あたらなかった。       4  彼らのうちの一人が目覚《めざ》め、自分の近くにいた馬が消えているのを見つけた。まさか逃げたのかとあたりを見渡し、近くの草むらに横倒しになっている姿を見つけた。あわてて近寄ると、そこには馬の下半身しかなかった。  彼は声をあげ、周囲の者たちはそれで飛び起きた。誰かがたまりかねて火を熾《おこ》し、そして彼ら人の群れの端々で、馬や人が一部だけを残して消え失せているのを見つけた。彼らは武器を掲《かか》げ、松明《たいまつ》をかざしてあたりを捜した。  ある木の下で、山羊《やぎ》の残骸《ざんがい》と少女を見つけた。誰もが一瞬、少女もまた犠牲《ぎせい》になったのだと思ったが、人の姿を見た少女が悲鳴をあげて、彼女は助かったのだと分かった。  夜明けまで探索は続いたが、四人を引き裂《さ》き、数頭の家畜を屠《ほふ》ったものの姿はついに見つからなかった。 「珠晶《しゅしょう》や……だいじょうぶかね」  季和《きわ》は水で顔を拭《ぬぐ》った少女を引き寄せる。少女はともかくもうなずいた。 「平気……だいじょうぶよ。ちゃんと命はあるわ」 「しかし」 「お願い、離して。髪からも着るものからも血のにおいがするの。洗いに行かせて」  けれども、と言いかけて、季和は黙り、随従《ずいじゅう》の中から屈強な女を三人ばかり呼んで、下の沢までついていくよう命じた。  陽の昇った野営地は緑で、道は白い。嘘《うそ》のように何もかもが明るかった。珠晶は女たちに付き添われ、道の端から斜面に下りる。下りたすぐそこが細い沢だった。ともかくも思い切って顔をつけ、髪を解《と》いて洗う。がっしりとした女の手が、それを手伝ってくれた。  沢の水は冷たい。それでずいぶんと頭が冷えた。着るのを脱《ぬ》ぐと、女たちのひとりが、痛ましそうにそれを洗ってくれ、別の女が手巾《てぬぐい》を濡《ぬ》らして身体《からだ》を拭《ぬぐ》ってくれた。 「怖《こわ》かったでしょう、なんて可哀想《かわいそう》に」 「だいじょうぶよ。ともかくも、助かったんだから、平気」 「平気だなんて。そんな無理をすることなんか、ありゃしないんだよ」 「本当にだいじょうぶなの。……そうね。怖かったけど」  思い出すだに恐ろしいが、少なくともいま、震えているのは寒いからで、怖いからではないはずだ。ひととおり拭《ふ》いてもらい、乾いた布に包まれると、震えは治まった。暖かな道の上に戻ると、気持ちはしゃんとしてきた。──命があったのだから、運が良かった。  広場の隅には、人と獣《けもの》が葬《ほうむ》られようとしていた。妖魔《ようま》の襲撃は初めてではないが、あんなふうにきちんと葬ることができるほど、人の身体が残っていたことは初めてでないだろうか。──それが、怖い。  慄然《りつぜん》とする思いで、それを見ていると、季和《きわ》がおろおろと珠晶《しゅしょう》のほうにやってきた。 「だいじょうぶか? 落ち着いたかね?」 「ええ。もうすっかり。ごめんなさい、あの山羊《やぎ》は室《しつ》さんの山羊だわ」  季和《きわ》は手を振った。 「謝《あやま》ることなどない。珠晶《しゅしょう》が無事で本当に良かった」  言って、季和は珠晶の視線の行方《ゆくえ》を追って、あわてたように珠晶の背を押す。 「あんなものを見ていないで。さあ、なにか温かいものをあげよう」  季和は馬車のほうへと珠晶を導く。小さな焚《た》き火《び》があって、湯が沸《わ》いていた。緑茶をもらい、火のそばに座っていると、いっそう気分が落ち着いてきた。落ち着いてみると、火のそばにあまり人がいないのもそのはず、かなり暑《あつ》い。 「まったく何ということだ。昨夜、教えてやったにもかかわらず、火を焚いている馬鹿者がいた。おそらくそれのせいだろう。あの火が妖魔《ようま》を呼んだんだ。ああいう愚《おろ》かな者たちには、戻れといってやらねばならない」 「──え?」 「愚かなことをするのは勝手だが、それで他の者まで危険にさらされたのでは堪《たま》らない。だいじょうぶだよ、珠晶。もう、こんなことはないからね」 「ちょっと待って」 「落ち着いたら、馬車にお乗り。弔《とむら》いがすんだら、そろそろ出るからね」 「待ってよ、室《しつ》さん」 「どうした? 怯《おび》えているのかい? 無理もないが、留まっていても危険なだけだ。早くこんな場所は通り過ぎてしまわないと」  いって、季和《きわ》はそそくさと随従《ずいじゅう》たちを指揮《しき》するために行ってしまう。珠晶《しゅしょう》はその後ろ姿を唖然《あぜん》として見送った。 「何を考えてるの? いい大人《おとな》のくせに」  季和は本当に分かっていないのだろうか。そもそも妖魔《ようま》に襲われたのは、来てはならない道に踏みこんでしまったからだ。ここですべきことは、一刻も早く戻ることで、先に進むことではないのではなかろうか。──それに、と珠晶は思う。  襲われた死体が残っていた。妖魔は探しても見つからなかった。それが何を意味するのか、季和は考えてみないのだろうか。血のにおいがしたはずだ。にもかかわらず他の妖魔が来なかった。だから死体が残っていたのだ。──それはつまり、他の妖魔でさえ恐れて近寄れないほどの、大物がここにいるということではないのだろうか。 「先へ行っちゃ、いけないわ」  剛氏《ごうし》たちが迂回《うかい》するはずだ。これはこれまでの妖魔とは事情が違う。  珠晶は立ち上がった。自分だけでも戻り、黄朱《こうしゅ》を追いかけようか、と思った。だが、足を踏み出すことはできなかった。季和たちは進む気だ。それを見捨てて自分だけが逃げだして良いものだろうか。季和《きわ》たちを説得しないといけないのではないか。  季和たちに、いかにこの道が危険であるかを説《と》いて、戻るように説得する。今からなら、急げば剛氏《ごうし》たちに追いつけるかもしれない。 「ああ、だめだわ。……室《しつ》さんには馬車があるのよ」  そこから説得しなければ。その手間を思うと、ここは自分だけでも戻ったほうがいいのではないかと思えた。戻って、追いかけて、事情を話す。剛氏たちなら、こんなときどうすればいいのか心得ているはず。  思って珠晶《しゅしょう》は軽く頭を抱えた。 「剛氏がそれで、助けに来てくれるはずがないわよね……」  そもそも珠晶たちは、剛氏の忠告を無視して、こちらに来てしまったのだ。それにたとえ、ひとりで戻ったとして、道のない道を珠晶の足で黄朱《こうしゅ》に追いつくことができるだろうか。騎獣《きじゅう》でもあれば、ともかくも。 「やっぱり、全員を説得して、戻るしかないんだわ。とにかく室さんに馬車を捨てさせて、荷を分けて……」  しかし、これだけの人間が道を戻り、黄朱を追いかければ、自分たちを追って妖魔《ようま》がついてこないだろうか。妖魔は人の声に隠れた。これまでに襲ってきたどの妖魔よりも利口《りこう》な証《あかし》だ。あちらの道を進んだ人々までも危険にさらすことになったら。 「あたし、本当にばかだわ」  頑丘《がんきゅう》に腹が立った。利広《りこう》にもだ。だが、いくら腹が立っても、我慢しなければならなかった。珠晶《しゅしょう》はそうするべきだったのだ。 「……どうしよう」  季和《きわ》たちは道を進む。珠晶はどうしていいのか分からず、それでとりあえず、季和の馬車に乗っていた。途中、三度、隊列は停まった。端を歩いていた者が消えたのだ。  ──妖魔《ようま》につけられている。  それは林の中に身を潜《ひそ》め、隙《すき》あらば遅れた者や、はみだした者をさらっていった。そのくせ獲物《えもの》は裂《さ》いただけ、ほとんど殺して楽しんでいるとしか思えない。  人々の足取りは、自然、速くなった。恐怖に急《せ》かされるようにして、騎馬《きば》のある者は騎乗し、ともかくも道の中央に肩をぶつけ合うようにして集まり、先を急ぐ。夜には声もなく身を寄せあって夜通し起きていたが、それでも端々から人が消えていった。 「どこかで狩らないと……」  このまま道を進んで黄朱《こうしゅ》たちと合流することがあれば、彼らもまた危険にさらされる。その前に足を止めてでも、狡猾《こうかつ》な妖魔《ようま》を狩っておかなければ。そう訴えたが、もちろん季和《きわ》がうなずくはずもない。  消えた者を捜して葬《ほうむ》る努力はすぐに放棄《ほうき》された。ともかくも砂塵《さじん》を上げて、隊列は先へ先へと進んだ。ろくな休息もないまま、急ぐこと丸二日で、人々が歓声をあげた。林が途切れたのだ。  これで妖魔は身を隠せない。目の前には灌木《かんぼく》が繁り、岩の転がる草地が開けている。荒涼とした起伏が続き、遙か彼方《かなた》までが一望できた。 「こりゃあ、いい。妖魔も身を隠す場所をなくして、諦《あきら》めるだろう」  季和は言って笑い、人馬を急《せ》かした。かろうじて道と分かる道を、彼らは解き放たれたように急いだ。その長い列の後尾から悲鳴があがったのは午《ひる》過ぎたころのことだった。  珠晶《しゅしょう》はちらりと、その巨大な猿《さる》に似た影を見た。列の後尾から、隊列は崩《くず》れ、人々は見晴らしの良い野に散っていった。馬車は疾走《しっそう》し、跳《は》ねた。みるみるうちに、徒歩の者が置き去りにされ、荒野の起伏に見えなくなった。 「室《しつ》さん、だめよ。あんなに人が……!」 「私たちが行っても、何もできはしないよ、珠晶。この間に逃げるんだ」 「でも!」 「襲われた者には可哀想《かわいそう》だが、戻ったところで私たちに何ができる。そりゃあ、気は楽になるだろう。けれどもそれよりも、私たちには使命があるのじゃないのかね」 「使命──?」 「そうとも。何のために昇山《しょうざん》するのだね。私たちは蓬山《ほうざん》へ行かなければならないのだよ。行って王になって、恭国《きょうこく》三百万人の民を助けなければ。今ここで数名の命を惜しんで、王たる者が死ねば、三百万の民の命が危険にさらされるんだからね」  珠晶《しゅしょう》は季和《きわ》をにらんだ。 「ここで数名の命を助けられない者が、三百万人を助けられると思うの?」 「では、王になれば、ただのひとりも殺さずにすむと思うかね?」  珠晶は口を噤《つぐ》む。 「数人を見捨てて民の全部を助けるか、それとも情に流されて数人を助け、国土を亡国の荒廃にさらすか。……そういう選択をしなければならないことなんて、玉座《ぎょくざ》に就《つ》けば無数にあるんだよ、珠晶」 「それは──」 「もちろん私とて、彼らを犠牲《ぎせい》にすることが辛《つら》くないわけではない。もしも私に、いま彼らを助けるだけの力があれば、すぐさま助けに戻るとも。だが、私にはそれだけの力がない。ここはもう、彼らの尊い犠牲《ぎせい》に感謝して先に進み、後に彼らへの感謝を忘れずそのぶんを他に施すことでしか、彼らの無念に報いる術《すべ》がないのだ」 「そんなこと……」  これでは黄朱《こうしゅ》と何の変わりもないではないか。結局のところ、誰かが犠牲になっている間に、少しでも逃げる。──だが、それ以外の方法が、人に残されているだろうか。 「……あたしって、本当にばかだわ」  つぶやいた声は、疾走《しっそう》する馬車の音にかき消された。  強い者が弱い者を助ける。それは強い者の義務だ。だが、この黄海《こうかい》で強い者などいない。それは強い者が、弱い者を助けてなお、自分も弱者も守ることができる世界での話で、剛氏《ごうし》たちだって黄海の中においては、決して強者ではないのだ。  自分の身を守ることで精一杯、とりあえず思いもかけないような──迂回路《うかいろ》を示さねばならないような大物の妖魔《ようま》がいるとか──ことがなければ、何とか自分の他に二、三人を助けることはできる。だから雇《やと》われて護衛をしているわけだけれども、それは黄海において剛氏が強者であるということを意味するわけではない。  剛氏は黄海で自分の身を守ることができる。最低限生き延びることができ、ほんのわずか余力があって、なんとか主人ぐらいなら守ることができる、そういうことではないだろうか。だが、それ以上は分《ぶん》を超える。だから主人以外の者が襲われても、助けに行くことなどしないし、したくともできない。 「そういうことなんだわ……」  いくら黄海《こうかい》に慣れた黄朱《こうしゅ》でも、黄海においては強者ではない。何の備えも心構えもない他人までを抱えて旅はできないのだ。最初から剛氏《ごうし》の助言を受けて、最大限に安全でいられるよう、全員が準備をする。そうでなければならないのだ。水が飲めない場所もある。だから満甕石《まんおうせき》がいる。準備して持ちこまなければ、黄海に店はないのだ。黄海には道がない。平らな場所はあっても、それは道ではない。後悔しても戻ることはできず、旅を途中でやめる術《すべ》もない。だから黄海に入る前に、どれだけの備えができたかで全てが決する。  剛氏の助言を受けて、最初からおこたりなく備えをし、剛氏の知識に相応の敬意をもって、その指示には信頼を寄せて従う──そういった人間でなければ、剛氏といえども守りきれるはずがない。人は剛氏を雇《やと》っても、剛氏の主人ではない。旅の主導権は剛氏が握っていなければならないのだ。  火を焚《た》き、火を消す、たったそれだけのことでも、黄朱ならばどこでは焚くべきでどこでは消すべきなのかを知っている。彼らは地形を見て状況を見て、それを決める。それは子供の頃から黄海《こうかい》で生きてきた経験が蓄積した生きるための智恵だ。だから旅の主導権は経験のある者が握っていなければならない。  剛氏《ごうし》を雇《やと》う、ということは、そういうことなのだ。 「お金を払って、蓬山《ほうざん》に連れていってもらう……」  護衛を雇うというのとは、微妙に違う。剛氏を雇って蓬山へ行ってもらう。彼らは蓬山まで旅をする。雇い主はそれについていく。指揮され指導されて面倒を見てもらう。剛氏は対価を払った人間のことを考慮に入れて最初から準備をする。そもそも季和《きわ》や紵台《ちょだい》の安全は考慮の中に入っていないし、それを考慮に入れるなら、もっと多くの剛氏がいなければならない。 「全員が剛氏を連れているんじゃなければ、意味がないんだわ」  ひとりにつき、剛氏を複数。それでようやく、力を合わせれば危難を回避する余力を持ち得る。だが実際はほとんどの者が剛氏など連れていない。季和が連れた随従《ずいじゅう》は四十余り、黄海を知らないということにおいては、季和も随従もまったく等しい。もしも黄海に入る前に剛氏がいれば、随従をもっと減らしてそのぶん剛氏なり朱氏《しゅし》なりを連れて行けと助言しただろう。いくら頭数が増えたところで、誰もが黄海で身を守る術《すべ》を持たないのなら、互いを犠牲《ぎせい》にしてその間に逃げる以外に、できることがあるはずがないのだ。 「自己嫌悪だわ。……今頃こんなことに気づくなんて」  馬車は徒歩の者を置き捨てて、荒野を疾走《しっそう》する。 「これはちょっと……頑丘《がんきゅう》にばかにされても、仕方なかったかも……」  ようやくその速度が衰《おとろ》えたのは夕刻、人々は妖魔《ようま》の潜《ひそ》む林を犠牲と一緒に置き去りにしてきた安堵《あんど》で、ようやく笑った。  珠晶《しゅしょう》は馬車から降り、まだ砂塵《さじん》が薄くたゆっている後方を見た。あそこに置き去りにされた人々がいる。隊列を見渡すと、残った数は三分の一程度。それだけの人間が見捨てられてしまったのだ。  まだ揺れている気がする地面を踏みしめて、珠晶は火を焚《た》こうとしている季和《きわ》のそばに行った。 「室《しつ》さん、お願いがあるの」  なんだい、と振り返った季和の顔は柔和《にゅうわ》だった。 「たくさん助けてもらったうえで、こんなことを言うのはとっても申し訳ないんだけど」 「おや、どうしたんだね?」 「水と食料を、少しだけ分けてほしいの」 「──珠晶《しゅしょう》?」 「できたら、槍《やり》か剣も。お願いできないかしら」 「珠晶! いったい、どうしたんだい。そんなものが、どうして──」 「あたし、戻るわ」 「珠晶!!」 「歩きの人たちと合流できないか、戻ってみるの。もしもうまく合流できて、しかも妖魔《ようま》が本当に諦《あきら》めたのならそれでよし、そうでなかったら、なんとかあの妖魔を始末できないものか、みんなで考えてみるわ」  おろおろと季和《きわ》は珠晶の腕を引いた。 「ばかなことを言うものじゃない」 「室《しつ》さんも、分かってるでしょ? こちらの道には来てはいけなかったの。妖魔はあたしたちを追ってきてるわ。諦めたとは限らない。そしてこの道をずっと行くと、妖魔に襲われないようちゃんと用心する分別があった人たちと出会ってしまうのよ」 「……しかし」 「あたしたちがばかをしたのは、もうすんだことだし、考えても仕方のないことだわ。運の悪い人を見捨てて逃げるのも、弱い生き物が生き残るための摂理《せつり》というものなのかも。でも、このままばかでなかった人たちのところに、妖魔《ようま》を連れていくようなことだけはしたらいけないと思うの」 「しかし、珠晶《しゅしょう》、落ち着いて考えてごらん」  珠晶は首を振る。 「ちゃんと考えたわ。あたし、剛氏《ごうし》のやり口に腹が立って、室《しつ》さんと一緒に来たの。でも、馬を持ってない人のことなんて関係ないって言えば、剛氏と何も変わりないじゃない」 「いいかい、珠晶」 「──それが仕方ないことだというのは分かるの。でも、黄朱《こうしゅ》のやり口に腹を立ててきてしまった以上、ここで同じことはできないわ。腹を立てたの、ばかだったと思うの、あたし。だからこのまま戻って、自分が愚《おろ》かでした、って身を伏せて謝るのもひとつの手かもね。──けれどもそれは、妖魔が後をついてきてないなら、の話よ」 「──珠晶!」 「黄朱の事情なんてぜんぜん分かってもあげないで、勝手に腹を立てて、忠告を無視して危険な道に踏みこんで、このうえ、歩きの人を見捨てて逃げ戻って、今度は黄朱たちを危険にさらすの? それだけはできないわ。お願いよ、荷を分けてくれない? あたしが抱《かか》えられる程度でいいの。もしもだめなら、それでも怨《うら》んだりしないからそう言って」 「渡せるわけがないだろう。戻るなんて、そんな──」 「そう。分かったわ」  珠晶《しゅしょう》は踵《きびす》を返す。手ぶらのほうが身が軽くていいかもしれない。 「珠晶、お待ち」 「あんたが戻る勇気がないというなら、勝手にすればいいのよ。あたしだって戻れとは言わないわ。自分の愚《おろ》かさのつけを支払うことさえできない腑抜《ふぬ》けなんて来てもらわなくても結構。──だからって、あたしまで腑抜けにしないで」 「珠晶!」  珠晶は振り返って手を振る。 「お世話してくれて、ありがとう。室《しつ》さんも気をつけてね。夜の闇《やみ》は、林の木陰《こかげ》と大差ないわよ」       5  大地には薄く、消え残った砂塵《さじん》がたゆたって、空気の色に黄味を加えていた。  男は喘《あえ》いだ。走りづめに道を急いでも、前方には薄い砂塵《さじん》がたちこめているだけ、その向こうには、もはや主人の馬車の影さえ見えない。ひとつ坂を登り、うねりの頂上に出るたびに、今度こそ視野が開けて馬車の姿が見えるのではないか、あるいは休息して待ち構えている人々の姿が見えるのではないか、もっと運が良ければ、戻ってくる人影が見えるのではないかと期待したが、どれもこれもが期待するだけ虚《むな》しかった。  期待すまいと思いながら、それでも背伸びするようにしてひとつ登りを越え、主人が残していった砂塵だけを見て、うつむく。傾斜の下りは、だからひとつ隆起を越えるごとに長くなる自分の影だけを見ている。 「鉦担《しょうたん》、家公《だんな》さまは、本当に行っちまったのかい」  喘ぎながら訊《き》いた同輩に、男──鉦担はうなずかざるを得なかった。 「ああ……そのようだ……」  言って息を吐き出すと、脇腹が差しこむように痛んだ。走りづめでここまで、だがもう、四十を過ぎた身体《からだ》のほうに限界が来ている。 「家公さまたちは休息を取るだろうから、このまま休まずに行けば──」  鉦担は言いさしたが、それも虚《むな》しかった。馬を疾走《しっそう》させて逃げていった季和《きわ》に、果たして人の足で追いつけるだろうか。よしんば、季和たちが休んでいる間に距離をかせぎ、なんとか追いつくことができたとしても、また妖魔《ようま》が現れれば、季和《きわ》は馬車を急《せ》かして行ってしまうのだ、──鉦担《しょうたん》たちを置き去りにして。 「くそ……」  鉦担と一緒に走っていた男が足を止めて膝《ひざ》をついた。 「おい──」  鉦担は声をかけたが、男は首を横に振る。 「もういい。──だめだ。俺ぁ、これ以上、走れねえ」  そうか、と鉦担もまた足を止めた。さらに男が一人、ものも言わずに座りこみ、そしてその場に寝転がった。またひとり、それに倣《なら》う者がいる。  あと少し、走れば季和に追いつけるというのなら、全員を叱咤《しった》もしてみよう。だが、そういう望みはどこにもない。それを認めて、鉦担もまた座りこんだ。喉《のど》は荒い息に切れるよう、脇腹が差しこみ、鉦担はその場に寝転がる。  妖魔が来る。追ってきているのだから、いつ襲われるとも限らない。こうしている間にも季和との距離は開く。──しかしもう、そういうことの一切がどうでもよかった。  誰も何も言わないまま、全員がそこで寝転がり、座りこみ、荒い息を繰り返す。そうしているうちに後から走ってきた連中が追いついて、鉦担たちを見て足を止めた。足を止めたほうも、止めた者を見上げたほうも、もはや言葉がなかった。止めたほうは顔を歪《ゆが》め、そして堰《せき》が切れたように座りこんで喘《あえ》いだ。そうやって誰も何も言わないまま、月は昇り、累々《るいるい》と逃走を放棄した人々が、ひとつ窪地《くぼち》に折り重なっていく。  彼らは主人に見捨てられたのだ。背後で悲鳴がしているというのに、荷車を押しているうちに主人の馬車は遠ざかっていった。叱責《しっせき》覚悟で、あわてて荷車を捨てて走ったけれども、六頭の馬が曳《ひ》く馬車に追いつけるはずもなく、荒野の中に、同じく徒歩の者たちと残されたのだ。妖魔《ようま》と一緒に。  昇山《しょうざん》の者は、おおむね馬ぐらいは持っているから、残ったのはほとんどが随従《ずいじゅう》ばかりだった。鉦担《しょうたん》のように主人に置いていかれた者がほとんどで、中には主人を亡くして、ただもう先へと進むしかない不幸な者もいないでもなかった。  ともかくも二本の足で走って逃げた。それしかなかったのだ。息も絶え絶えに走り、妖魔が荒野から躍り出てきた場所を離れても、もちろん生きた心地もしなかった。彼らにしたところで、馬や騎獣《きじゅう》に乗って逃げるほどに安全ではいられないことを誰もが理解していた。それを思うと、逃げる足も鈍る。どうにでもなれ、という捨て鉢な気分が誰の胸にも去来した。ひとりが諦《あきら》めると、だからもう、先に進めなかった。  月が完全に昇りきる頃には、その窪地《くぼち》に百名余りの者が押し黙って座りこんでいた。ときおり短く、罵倒《ばとう》の言葉を吐き捨てる者もあったが、特にそれに応える者もない。 「夜が来たなあ……」  誰かの声が、重い沈黙の中で、ぽっかりと浮いた。 「そうだな」  鉦担《しょうたん》は誰にともなくつぶやく。夜が来た。危険は増すのだ。こうしている間にも、件《くだん》の妖魔《ようま》は近づいてきているのかもしれない。 「どうでもいい、そんなこたあ」  投《な》げ遣《や》りに言う者があって、鉦担はこれにもうなずいた。自分たちは見捨ててられたのだ。誰一人、好んで黄海《こうかい》に来たわけではない。主人に従ってここまで来た結果がこれ。  鉦担はそもそも季和《きわ》の家の家生《かせい》だった。供《とも》をせよと命じられても拒むこともできずに黄海にまで来た。馬車に乗った主人を横目で見ながら、遠大な距離を歩き、主人が休んでいる間にも働いてきたのだ。その季和は鉦担を見捨てて逃げた。鉦担らが徒歩で逃げ、妖魔に襲われている間に馬や騎獣《きじゅう》の俊足で逃げきろうという、そういうことだ。 「いい気なもんだ……」  誰かがぼそりと言って、鉦担はこれにも同意した。 「まったくだ」 「あたしたちの手を借りて、楽して旅をしてさ……危険がありゃあ、あたしたちを盾《たて》にして逃げるんだ」 「そうして自分だけは助かって蓬山《ほうざん》に駆けこもうって肚《はら》だ」 「運が良けりゃあ王になって、栄華を極める、と」 「は。随従《ずいじゅう》を置き捨てるような奴が、まちがったって王になんかなれるものかい」 「どうだかね。しょせん世の中なんてのは、ろくでもない連中が動かすのさ」 「その通りだ……」 「どっちにしても、確かめる方法もねえや」 「だろうとも。連中の鼻先で蓬山の門が閉まるのを、見ることはねえだろうよ」 「まあ、連中がお偉くなるのを見ることもないのは幸いってもんだ」  まったくだ、と自嘲《じちょう》するような笑いが、漣《さざなみ》のように窪地《くぼち》に満ちる。鉦担《しょうたん》もまた笑った。──笑うしかなかった。 「おい……」  どこかで緊張した声がした。鉦担は反射的に身をすくめる。もうどうでもいい、と思ったはずなのに、緊張した声に妖魔《ようま》の襲来を予感したとたん、すでに足が立ち上がって逃げ出そうとしている。同じく身じろぎをした者は多かった。その、命に対する執着の深さ。 「……何か──来る」  はっと全員が、さらに先へと続くだらだらした傾斜を見上げた。窪地《くぼち》の縁に休んだ者たちは、そちらほうを首を伸ばして見つめた。 「妖魔《ようま》か」 「いや……」 「違う、人だ」 「戻ってくる」  鉦担《しょうたん》を含め、全員がわけもなく固唾《かたず》を呑《の》んでその方向を見た。 「ひとりだ……」 「しかし、ありゃあ」  縁にいた者たちがぴたりと口を閉ざした。斜面にいる鉦担にも、軽い足音が聞こえた。足音が聞こえるほどの静寂の中、さらにいっそう軽やかな声が、彼らの頭上から降ってきた。 「──そこにいるの?」  軽く駆ける足音、斜面の上に影がひとつ、現れた。 「あなたたち、だいじょうぶ?」  声が、溢《あふ》れた。窪地《くぼち》に淀《よど》んだ人々が、我知らず声をあげる。鉦担《しょうたん》も例外ではなかった。たったひとりの少女。それが戻ってきたところで、彼らのために何をしてくれるだろう。──だが、そういうことは問題ではない。彼らの誰もが、彼女が随従《ずいじゅう》ではなく、昇山《しょうざん》の者であることを知っている。  いつの間にか歓声になった。それにすくんだように足を止めた少女は、斜面の上から困ったように窪地を見渡す。 「歓迎してもらってるみたいなのに心苦しいんだけど、あたし、荷も剣も持ってないの。身ひとつなのよ」  そんなことはいいんです、と答える者があった。 「そう? 全員、無事? 怪我《けが》をした人は?」  少女は言って、困ったように笑う。 「全員無事、とはいかないわよね。でも、これだけの人が無事に逃げられて良かったわ」  鉦担は感謝をこめて少女を見上げた。昇山の者が何をしてくれるか、ではない。昇山の者が彼らの命と無事を案じてくれることが重大なのだ。  少女は窪地に下りてきて、一同を見渡す。 「──あなたたち、荷物は?」  それを叱責《しっせき》だと感じたのか、言い訳するように捨ててきた、と答える者があった。 「逃げ出す時には、邪魔《じゃま》にしかならないのよね。でも、取りに戻らないといけないわ。水も食料も無しじゃ、この先どうにもならないわよ」  この先、と鉦担《しょうたん》はつぶやく。ちょうど間近に足を止めていた少女は、鉦担を振り返る。 「あら、室《しつ》さんのところの人ね。無事だったのね、良かったわ」 「……はい、でも」 「荷を取りに戻りましょう。それとも、もう誰も動けない?」 「けれど」 「このままここにいても飢《う》え死《じ》にか渇《かわ》き死《じ》によ。荷が必要だわ。水と食べるもの。──自分のぶんを持ってる人がどれだけいる?」  ぽつぽつと手が挙《あ》がった。 「……それじゃ、これだけの人数には足りないわ。やっぱり戻らなきゃ」 「しかし」  戻ってどうするのだろう。馬もいないのに。 「どうしたの? 荷が必要でしょう? そうでないなんて、まるで先行きを諦《あきら》めてるみたいよ」  言って珠晶《しゅしょう》は笑う。 「足で歩いたって、蓬山《ほうざん》には行けるわよ。でもって、蓬山に着けば、妖魔《ようま》は来ないんですって。──さ、行きましょ」  造作《ぞうさ》もなく言って、珠晶は窪地《くぼち》を横切り、戻り始める。 「けれど、お嬢さん──珠晶さま」 「あたしたち、ここまで歩いてきたじゃない。もう残りのほうが、これまで歩いてきた距離よりも、うんと短いのよ。せいぜいが、半月かそこらだわ。これまで一月近く歩いてきたのに、ここで音《ね》を上げるの?」 「しかし、妖魔が──」 「これまでだって出たでしょ。しかも黄海《こうかい》の外でだって出たわ。みんな運があってここまで来れたんだもの、この先だって全員が襲われて死ぬようなことはないわよ」 「そんな……」 「でも、水と食料がなければ、絶対に全員、長生きできないわよ」 「けれども、帰りのこともあるんですよ」 「そうね。でも、あたしの連れてきた朱氏《しゅし》は、あたしと二人で往復するための荷を持ってたけど、力の強い男の人なら背負えない量じゃなかったわ。いざとなれば、蓬山までもてばいいわよ。蓬山《ほうざん》に着けば何とかなるわ」 「何とかって」 「あら、蓬山って麒麟《きりん》がいるんでしょ? 麒麟のお宅の門前でこれだけの人間が餓死《がし》してごらんなさい、麒麟なんてばったりいっちゃうわよ。おつきの人たちがそれを黙って放置するわけがないじゃない。とりあえず死なない程度のものは恵んでくれるわよ。帰りの荷がもらえればよし、もらえなかったら、そのまま蓬山に居候《いそうろう》してやるわ。どうせ仕えるなら、黄海《こうかい》に置き捨てていく主人より、とりあえず麒麟のほうがましだと思わない? なんたって慈悲《じひ》の生き物ですもの」  鉦担《しょうたん》は口を開け、そして軽く吹き出した。 「そう……ですね」 「だからね、戻りましょう。妖魔《ようま》だって、いまつでもひとつところにいないわよ。これまでだってそんな例《ためし》はなかったじゃない。今のうちに戻って、荷物をまとめるの。自分が蓬山に着けるぶんだけを、自分で持つのよ」  のろのろと、少女の周囲から人々が立ち上がった。 「そうそう。元気を出すの。ともかくも蓬山に行けば、随従《ずいじゅう》の者だって王に選ばれることがあるのよ、麒麟《きりん》に対面できることには変わりがないんだから、随従《ずいじゅう》だって昇山《しょうざん》するようなものよ。だから、不甲斐《ふがい》ない真似《まね》はしないようにしなきゃ」  彼らは少女に励まされて、道を戻り始めた。そんなに甘いものではなかろう、とは鉦担《しょうたん》も思う。それでもそうやって、虫の良い望みとはいえ、先々のことを示され、一旦、目が自分の将来に向き始めると、もうどうでもいいと思われた命がいかにも惜しかった。 「とにかく、離れないことよ。みんなで固まっていくの。常に周囲に気を配ってね。妖魔《ようま》らしき姿を見たら、声をあげる。でもって声が聞こえたら、自分のことだけ考えて、とにかく逃げなさい」 「けども、妖魔は足が速いです」  珠晶《しゅしょう》は息を吐く。 「そうなのよね。でも、逃げないわけにはいかないでしょ。ともかくも逃げるの。逃げて、灌木《かんぼく》とか岩の陰に身を隠すのよ」  鉦担は目を丸くした。 「隠れるって、そんな」 「灌木や岩がなければ、地面に伏せるのでもいいわ。ぴったり何かに身を寄せて、絶対に声をあげたり身動きをしたりしないの。妖魔《ようま》はそうすると、人が見えなくなってしまうのよ。怖《こわ》いけど、だいじょうぶ。あたしは前にもそうやって助かったのよ、知らないの?」  ああ、と鉦担《しょうたん》はうなずいた。 「妖魔の影を見たわ。あたしとおじさんくらいの距離しかなかったわよ。すぐ真上の木の枝にいたんだもの。でも、怖いのを我慢してじっと横になってたら、本当に襲われなかったわ。こうしてちゃんと生き残ったもの」  周囲にいた者がうなずいた。妖魔を間近にして、それでも生き残った少女の言葉には説得力があった。  それに励まされて、彼らは休み休み、道を戻った。明け方には置き捨てられた荷に出会った。例によって、妖魔は死体だけを残して立ち去っていた。それであわてて荷をまとめる。荷造りができたときには、誰もが疲労|困憊《こんぱい》して、もはや歩くことができなかった。  そうか、と少女は昇り始めた陽を見上げる。 「どうせ身を隠してくれる場所なんていくらもないんだもの、だったら、妖魔が少しでもおとなしくしている昼間に休んだほうが利口《りこう》かもしれないわ」 「昼間に? ──じゃあ、歩くのは」 「夜に歩けばいいのよ。林や森の、見通しの悪い中で、しかも夜で、物陰がいっぱいあるところを歩くのは危険だわよね。どこに妖魔《ようま》が潜《ひそ》んでいるか分からないんだもの。でも、少なくともこれだけ見通しが良ければ、たとえ夜でも、月さえあれば近づく影に気づくことができるじゃない」 「そう……ですね」 「そうよ、妖魔は明かりに弱いの。夜目が利《き》くぶん、光があると目が弱るんだわ。寝ていたら、誰も声をあげたり身動きしたりしないでしょ。灌木《かんぼく》や岩に寄り添って寝れば、余計に見つけにくいはずよ」 「ああ、なるほど」 「そうと決まったら、寝ちゃいましょ。夜には頑張って歩かなきゃ。──荷物はすぐに掴《つか》める場所に置いてね。特に水は手首に引っかけて寝るくらいの気持ちでいなきゃだめよ」  そこからは決して離れないように、見晴らしの極力良い場所を選んで歩いた。珠晶《しゅしょう》がいつの間にか采配《さいはい》を振ることには、誰も異論を唱えなかった。そもそも彼らは人に命じられることに慣れている。むしろ自らの裁量で何かをすることのほうに違和感があった。  あいかわらず妖魔の襲撃は続いたが、襲われた者は運がなかったと諦《あきら》めて、その間に残りはできるだけ逃げる。珠晶《しゅしょう》に言われた通り、灌木《かんぼく》や岩の陰に身を隠した。それで助かる例が増えると、次第に人々は活気づいた。襲撃があればすぐさま手近の者と手を取り合い、駆けて荒野に身を潜《ひそ》める。ひとりで息を殺しているのには途方もない胆力が必要だったが、そばに人がいて互いに互いを制していれば、さほどに難しいことではないと学んだ。  妖魔《ようま》が去ったら、荷を拾いに戻る。そうやって小刻《こきざ》みに行って戻ってを繰り返して三昼夜、人も荷もじりじりと減りながら、それでもとりあえず大多数は無事で、人々は前に進んでいく。       6 「……轍跡《わだちあと》がないな」  近迫《きんはく》は道に屈《かが》みこみ、硬い土の表面を検《あらた》めた。 「連中はまだ着いていない」  森の中を抜け、そこからは剛氏《ごうし》の置いた目印を頼りに荒野を進み、なんとか浅い谷に沿った道に戻ってきた。妖魔の襲撃はなかったし、これという難所もなかったが、道に戻っても季和《きわ》たちがたどりついた形跡がない。  あたりは白々と明るい。その中で近迫《きんはく》が頑丘《がんきゅう》を振り返った。 「襲われたかもな」 「当然だろう」  朱氏《しゅし》の声はそっけなかった。 「どうする」 「どうするもこうするもないだろう。陽が昇る。野営の準備をするんだな。生きていれば、俺たちが寝てる間に着くかもしれん。どうせ連中には、見晴らしの良い場所では、昼に寝て夜に進んだほうが良いという智恵もないだろう」  近迫《きんはく》はうなずいたが、道の向こうが気になった。果たして妖魔《ようま》に襲われたか、それとも。  岩ばかりの低い丘を迂回《うかい》して登る道の先には、砂塵《さじん》さえ見えなかった。それに落胆して振り返ると、頑丘《がんきゅう》はさっさと寝場所を探しに行っている。 「朱氏《しゅし》は朱氏か……」  近迫は苦笑した。朱氏は剛氏《ごうし》ではない。そして剛氏は、鵬雛《ほうすう》を失った昇山《しょうざん》が、どれほど無惨《むざん》なことになり得るのか、よく知っている。少なくとも近迫自身は知らなくても、古老から聞かされた逸話《いつわ》なら、いくらでも思い出すことができた。  どうする、と剛氏《ごうし》の仲間が訊《き》いてきて、ともかくも野営するよう、近迫《きんはく》は命じる。 「起きても、連中の姿が見えなかったら?」 「どうするかな。たとえ妖魔《ようま》が出たにしろ、ひとりふたりくらいは生き残ってここまでたどりつくだろう。それを待つしかあるまい」 「それよりも助けに行かせたほうが。誰か使いを──」 「そっから先は口にすんじゃねえ」  言いさした仲間を、近迫はにらんで黙らせた。 「言うな。──真君《しんくん》の加護を失う」  彼らはそこで日没までを過ごしたが、やはり道をやってくる者の姿はなかった。  先を急ぎたがる者たちをなだめて、かろうじてそこに留まって一夜を過ごし、さらに翌日の昼、陽も傾こうかという頃に、ようやく道の彼方《かなた》に砂塵《さじん》が見えた。低い崖《がけ》に沿って迂回《うかい》するように延びた道の向こうから漂《ただよ》ってくる砂塵、水のない谷底へと石が落ちていくのが見えた。 「──来た」  誰からともなく歓声が湧《わ》く。道をやってきたのは、騎獣《きじゅう》とは名ばかりの騎獣に乗った者と騎馬の者が十と少し。彼らは道の先で待ち受ける人々の群れに気づくと、形相《ぎょうそう》を変えて疾走《しっそう》してきた。 「まさか、生き残ったのは、これだけか」  迎えた近迫《きんはく》に、騎乗した者が息も絶え絶えに答える。 「いや、まだ、ずっと後に」 「妖魔《ようま》が出て」  近迫はうなずく。 「そんなことは分かってて行ったんだろうが、お前らは。──他にもいるんだな? 遅れてるのか」 「そうだ。……季和《きわ》たちが、その後から。けれども、徒歩の、者が」  近迫はその男をにらんだ。 「まさかお前ら、歩きの者を置き去りにして逃げてきたのか」  そうだ、というようにうなずいた男に、近迫は舌打ちする。 「嬢ちゃんを知らないか。どうしている、無事か」 「分からない。……季和と一緒にいたと思う」 「その季和《きわ》は」 「遅れて、いる」  いや、と騎獣《きじゅう》に乗った男が口を挟《はさ》んだ。 「季和のところにはいない。馬車を降りて戻ったのを見た」 「戻った? 徒歩の者のところへか」  たぶん、と騎獣の男はうなずく。 「それで妖魔《ようま》は。倒したのか」 「いや、それどころじゃ、ない」 「──くそ!」  近迫《きんはく》は仲間たちのそばに駆け戻る。 「誰か五名だ。ここに残れ。陽が暮れたら全員を連れて構わず先に進め!」 「どうした」 「妖魔だ。連中、片づけずに逃げてきやがった」 「それじゃ──」 「追ってきてるぞ、あの調子じゃ。妖魔だって味をしめてる。妖魔を襲うより、人を襲ったほうがはるかに簡単だからな」  言って、近迫《きんはく》は頑丘《がんきゅう》を振り返った。 「朱氏《しゅし》の旦那《だんな》はどうする。嬢ちゃんはどうやら徒歩の者が置き捨てられたのに哀れを催《もよお》して、助けにか泣きにか、戻ったらしいぜ」 「らしいことだ」  頑丘は低くつぶやいて苦笑をこぼした。 「俺はここらで別れて狩りに行かせてもらおうと思ってたんだが、まあ、残って他の者を預かるくらいのことはしてやってもいい」  なるほどね、と苦笑した近迫だったが、頑丘の隣にいた利広《りこう》のほうがそれを遮《さえぎ》った。 「頑丘は、あなたたちと行く。私もだ」  おい、と頑丘は利広を見る。 「一緒に来てくれ」 「お前は珠晶《しゅしょう》には、もう興味をなくしたんじゃなかったのか?」 「興味をなくした、などとは言ってないよ」  頑丘は息を吐く。 「では、額面通りに復唱してやろう。お前はもう、珠晶にとって必要ではなくなったんじゃないのか?」 「うん。ただ、ひょっとしたら、私はまだ珠晶《しゅしょう》にとって必要があるのかもしれない。それはを確かめに行ってみたいんだ」 「妖魔《ようま》が追ってきている。お前も命は惜しいんだったろうが。俺だってそういう人助けはしない」 「人助けをしろなどと言ってないよ。雇《やと》う、と言ってるんだ」  頑丘《がんきゅう》は揶揄《やゆ》をこめて笑った。 「ほう? いくらで? 言っておくが、半金は現金でもらうからな」 「こいつで」  利広《りこう》は星彩《せいさい》の手綱《たづな》を投げ、岩場に繋《つな》いだ駮《はく》を解き放った。 「|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》一頭から駮を差し引きしたぶんだ。不満はなかろう。──来い」       7  気丈な足取りで歩く人々を見ながら、鉦担《しょうたん》と笑って声を交わしながらも、珠晶《しゅしょう》は内心、困惑していた。とりあえず道に従って進んではいるものの、このまま道を行って、頑丘たちと合流してしまったらどうしよう。明らかに妖魔《ようま》は珠晶たちをつけてきている。  だからといって、そこに道がある以上、先に進まないわけにはいかず、どこかで妖魔《ようま》を狩ろうにも、どうすればいいのか皆目《かいもく》見当がつかなかった。  武器を携行《けいこう》していない者も多かったが、きちんと武器を携《たずさ》えている者も多い。妖魔がたとえば、襲った人を喰《く》うために足を止めてくれるなら、数を頼りになんとかすることもできるのかもしれない。しかしながら、肝心《かんじん》の妖魔は疾風《はやて》のように現れて、ひとりふたりを引き裂《さ》いて、また疾風《はやて》のように去ってしまう。餌《えさ》が欲しいときには、その場に留まらずに攫《さら》っていく。どうにもつけいる隙《すき》がなかった。 「どうなさいました?」  鉦担《しょうたん》に訊《か》かれて、珠晶《しゅしょう》はなんとか笑う。 「逃げるだけじゃどうにもならないから、何とかあいつを狩る方法がないかと思って」 「あいつを、ですか」 「何かで足止めできるといいのよね。あいつを少しでもいいから、動けなくする方法はないかしら」  そうですね、とつぶやくように言って、鉦担は声をあげた。 「珠晶さま、あれを」  鉦担の声に顔を上げると、行く手に黒いものがうずくまっていた。さっと血の気が引くのを感じたが、月の光に、それが妖魔《ようま》ではなく、馬車だと分かる。惨憺《さんたん》たる有り様になった馬車が、行く手に置き捨てられているのだった。 「家公《だんな》さまの馬車だ」 「なるほど、とうとう、馬車を捨てるはめになったのね」  皮肉な話だ。あれを失いたくなくて、季和《きわ》はわざわざ愚《おろ》かにも道を進んできたというのに。  近づいていくと、数人がその馬車の陰から現れた。騎馬《きば》を殺されたか、それとも季和にやはり置き捨てられたのか、そういう不遇な人々だろう。 「室《しつ》さんは?」  そう訊《き》くと、馬に乗って逃げた、と言う。 「そう。……すてきな家公さまね。でもまあ、あたたちが生き残って良かったわ」  どうします、と鉦担《しょうたん》が訊いてきたので、珠晶《しょしょう》は馬車を見た。 「とりあえず、何か役に立つものがないか、見てみましょ」  全員に休憩させ、珠晶は馬車を探る。 「幌《ほろ》に天幕《てんまく》は使えるわ。これ、昼間に被《かぶ》って寝ると、周囲の石と、色が似ていて見分けがつかないと思わない?」  鉦担《しょうたん》がうなずく。 「そうですね、たぶん。切って、できる限り、配っておきましょうか」 「そうしてあげて。足腰の弱い人からね。怪我人《けがにん》が先よ」 「はい。分かりました。──おい」  鉦担が仲間にそれを命じたのを確認して、さらに珠晶《しゅしょう》は荷物を引っかき回す。 「水樽《みずたる》があるわ。いくらかはだめになってるけど、だいじょうぶなのもある。これも分けてしまいましょう。──こっちの小さい樽は何かしら」 「油《あぶら》か酒ではないでしょうか」 「油もあるに越したことはないし、お酒も怪我《けが》の手当てに使えるわ。問題は器《うつわ》があるかどうかだけど。器《うつわ》になるものがある人がいたら、分けてあげましょ」  言って珠晶《しゅしょう》は手を止める。 「絹地があるわ……」  鉦担は苦笑した。 「家公《だんな》さまが、蓬山《ほうざん》の方々にさしあげるために持ってきたものでしょう」 「……呆《あき》れた。そんなもののために、この大層な馬車を使ってたのね。とーっても商人らしい発想だわ」  上物《じょうもの》の布、壷《つぼ》や置物。 「器《うつわ》があるわ。立派過ぎて困るということはないわよね。こっちにある裘《かわごろも》を切って、蓋《ふた》をすればきっと役に立つわ」  はい、と鉦担《しょうたん》はさらに苦く笑った。家公《しゅじん》が愚《おろ》かなようでもあり、少女の思いきりの良さがおかしくもあった。 「──これは何かしら」  樫《かし》か何かの堅牢《けんろう》な材木で作れられた箱があった。蓋が緩《ゆる》んでいたので、そこにそのあたりのものを突っこんでこじあけてもらう。開いた中を見て、珠晶《しゅしょう》は呆《あき》れた。 「まあ……」  季和《きわ》は何を考えていたのか。そこにはぎっしり首飾りや簪《かんざし》が入っている。 「首飾りはねえ……どうしようも」  珠晶はそれを放り出そうとして、そしてふと、手を止めた。美しい細工の金銀と玉《ぎょく》。 「それを珠晶さまが持っていらっしゃっても、家公《だんな》さまは返せとはおっしゃれないでしょう」  鉦担がやんわり言ったが、珠晶は首を振る。袍《ほう》の胸元を握りしめた。 「できるだけ集めて。……金や銀はどうなのかしら。──とにかく、ちょっとでも玉のついているものは全部。荷物をひっくり返しても探して」 「はあ……全部ですか?」 「そうよ。──その油だかお酒だかもね」  珠晶は袍《ほう》の下、布越しに木札を掴《つか》んで、祠廟《しびょう》を思い出していた。黄海《こうかい》の守護、犬狼真君《けんろうしんくん》。その皮甲《よろい》と玉《ぎょく》の披巾《ひれ》。あの、朱《あか》い猿《さる》に果たして玉が通用するかどうか。──けれども、やってみる値打ちはある。 「それから、武器を持った人を集めてちょうだい」  珠晶は集まった人々を見る。月の下、一通り顔を見る限り、あまり頼りになりそうにもなかったが、数十人が集まれば、そう侮《あなど》ったものでもないかもしれない。 「ここに、室《しつ》さんが残してくれた油があるわ。それとお酒。──首飾りや簪《かんざし》もね」  ざわと人の群れが揺れる。 「あいつを狩らない限り、いつまでもつけ狙《ねら》われる。そして人がどんどん減っていくの。次は自分かもしれないわよね。運良く自分でなくたって、人が減ったぶんだけ自分の危険は大きくなってる。そうでしょ?」  あんな疫病神《やくびょうがみ》を連れている限り、黄朱《こうしゅ》たちの率いる人々には合流できない。──少なくとも珠晶《しゅしょう》にはさせる気がない。 「妖魔《ようま》の中には玉《ぎょく》に酔う者がいると聞いたわ。あいつにそれが通用するかどうかは分からない。だめかもしれないの。でも、ここにお酒もあって、油もある。玉でだめでもお酒なら効《き》くかもしれないし、そうでなくても、油で火をつけることはできると思うの」  目の前の人々がどよめいた。 「幌《ほろ》の支えが竹だわ。これをうまく使って弓を作れないかしら。ええと、なんて言うのだったかしら。城塞《じょうさい》にある、大きな床置きの弓」 「床子弩《しょうしど》──ですか」 「そう、それよ。武器のない人は竹槍《たけやり》でもいい。どんなことでもやってみる値打ちはあるわ」 「しかし」 「これだけの屈強な人がいるんだもの」  珠晶は無理にも笑ってみせる。 「あいつの足さえ止めることができれば、きっと仕留めることができるわ」  不安そうに目を見交わした人々を、珠晶は見渡す。 「囮《おとり》には、あたしがなるわ。こんな小さな、か弱い子供を、あなたたち、見捨てたりしないわよね?」       8  それは、人によって朱厭《しゅえん》と呼ばれていた。  巨大な赤毛の猿《さる》に似ており、その首だけが白い。ひときわ赤いのはその足だ。良く尖《とが》った牙《きば》と、猛禽《もうきん》のような爪《つめ》を持っており、そして狡賢《こうけん》な知恵を持っている。  その朱厭は、黄海《こうかい》の一郭に棲《す》みついた。常には妖魔《ようま》などを狩っており、獰猛《どうもう》な連中が威嚇《いかく》するのをせせら笑い、一本気に襲ってくるのの裏をかき、引き裂《さ》き仕留めるのを楽しみにしていた。そうやってあらかた獲物を狩り尽くすと、餌場《えさば》を変え、そうして黄海を転々としている。時には、二本足の弱い獣《けもの》が狩り場に迷いこむこともある。二本足の獣は弱く、小さくて腹の足しにはあまりならなかったが、苦もなく裂いてしまえるのが楽しい。  ある日、どういうわけかたくさんの二本足が餌場に迷いこんできた。全部を一時に狩るのは楽しくない。殺した獣はすぐに腐《くさ》るし、それよりは少しずつ仕留めていくほうが面白い。それでその二本足の獣の群れを、追いかけてつけまわし、時には背後から、時には先に回って襲ってきたのだ。  そうやって爪《つめ》の先に引っかけた二本足を岩の陰に連れこみ、ちょっとばかり毟《むし》って食べた。ほくそ笑む気分で短い眠りに落ち、目覚《めざ》めてから残りを毟ってほおばる。あまり腹の足しにはならなかったが、味は悪くなかった。  腹ごしらえをして岩の陰から出ると、見渡すかぎりの荒野の中に赤い火が灯っていた。朱厭《しゅえん》はそのそばに、あの二本足がいるものだということを知っている。くつくつと笑いながら──朱厭は笑うことができた──岩の陰を出る。  小さな明かりまで、朱厭の足なら、力一杯に飛んで三歩の距離だ。それでも今夜は月があったので、最初の一歩分は身を低くしてそろそろと這《は》った。近頃の二本足はなかなか抜け目がなくて、最初の頃ほど簡単に朱厭の接近を許してくれない。朱厭が近づくのを見ると、ぱっと散ってしまって、二、三匹を捕《つか》まえる間に、残り全部が逃げてしまうという、なんだかそういう有り様だった。  それで身を低くしてそろそろと這い寄る。光が目に浸《し》みてどうにも見にくかったが、火のそばに二、三人ほど大小の二本足がいるのが分かった。視線を荒野に転じてみたが、付近にはとりあえず、それ以上の獲物は見あたらない。  朱厭は試《ため》しに軽く顔を上げて、あたりの空気を嗅《か》いでみた。──いないわけではない。隠れているだけだ。たくさんの匂《にお》いがする。それと同時に、これは何の匂いだろう。何かひどく良い匂いがした。  わけもなく気分が浮き立って、それを抑えるために、朱厭はさらに地を這《は》っていった。こういう気分の時には、我慢したほうが楽しい。きっとそのほうが、良いことがある。  前肢《まえあし》と後肢《あとあし》を器用に使い、その赤い獣《けもの》は地を這っていった。灌木《かんぼく》に触れて音を立てないよう、朱厭はたいそう気を配っていた。  これ以上は気づかれずには近づけない、そう思ったときに、一気に地を蹴《け》って飛び出した。残りの距離は一歩で跳躍《ちょうやく》し、狙《ねら》った獲物のそばに降り立ち、足が地に着きざま、それを薙《な》ぎ払う。何だか妙な手応《てごた》えがして、爪《つめ》の先から痛みが走った。  思わずそれを見ると、板だのを束ねたのに、皮を着せてあるだけだった。裏をかくつもりがかかれたことが分かり、朱厭はむっとして周囲を見る。後退《あとじさ》るようにする人間が大小ふたり。──悪くない。  襲ってやろうとしたのだが、何となく気がふわふわした。良い匂《にお》いが立ちこめていて、それのありかを捜さずにおれない。小さい方が何かを放り出した。きらきら光って落ちたそれは、器《うつわ》のそばに落ち、面白くもない器のそばには、何やら良い匂《にお》いのするものが小さく積まれていた。  さて、あの二本足を片づけてからこれに取りかかろうか。  そのほうが楽しいのだということは分っていたが、朱厭《しゅえん》はその匂《にお》いに抵抗できなかった。  そう、二本足を狩る機会なら、いくらでもある。けれどもこれは、今しか見あたらないものかもしれないのだ。実際、これまでこのようなものに出会ったことがない。  じりじりと退《さ》がる小さいのに目をやりながら、朱厭はそれに近づいた。うっとりするくらい良い匂いがした。良い匂いのものもあり、そうでないものも混じっている。ともかくも鼻面《はなづら》を突っこみ、前肢《まえあし》でそれを掻《か》き回す。さらに芳香が強くなって、どうにも我慢ができなかった。すぐに匂いの元は見つかった。それが幾つも。  旨《うま》そうに思えて、朱厭はそれを口に含む。芳香が口の中に広がって、噛《か》み砕《くだ》くと一層それが強かった。頭の芯《しん》のほうが、ふわりとした。後退《あとじさ》る小さいもののことも、何もかもが念頭から消えた。  後肢《あとあし》から力が抜けたが、そういうことはどうでもよかった。だらりと横倒しになり、さらに前肢の先で小さな山を掻き回す。次のひとつを見つけた。嫌《いや》なにおいのぬるぬるしたものがかかったけれども、それさえもがどうでもよかった。  次を口の中に放りこんで、さらにうっとりしたとき、突然目の前が真っ赤になった。視野が白熱して、何も見えない。痛みは感じなかったし、良い気分も消えなかったが、尋常《じんじょう》でないことが起こったことは分かった。  何が、と思う間もなく、硬いものが当たる感触がした。これは身を起こさねばと思ったが、どうにも後肢《あとあし》に力が入らない。かろうじて立ち上がったものの、目は見えず、頭がくらくらとする。さらに何かが当たる感触がした。手を振って払いのけようとしたが、うまくいかなかった。さらに強く当たる。──いや、刺さる。  そう、何かが刺さっているのだ。突き刺さり、掻《か》かれる痛み。  痛みが鈍《にぶ》く戻ってきた。刺さった場所だけでなく、今や全身が痛んでいた。  一旦痛みが戻ると、それは灼熱《しゃくねつ》の痛みとなって朱厭《しゅえん》を貫いた。前肢《まえあし》も後肢も、首も背中も、目も。  何が起こったのか分からない。危険が迫っていることだけが分かった。やみくもに跳《は》ねて手足を振り回した。手応《てごた》えがあったものかどうかすら、分からない。  音は聞こえず、真っ白な光以外、何も見えなかった。振り回した爪《つめ》の先に何かが引っかかったのは感じた。爪の先に、何か重みのあるものがかかった感じ。  それを振りほどこうとしながら、朱厭《しゅえん》は跳《は》ねた。跳ねて跳ねて転び、なおも跳ねた。  真っ白な視野に黒い斑点《はんてん》が現れ、それがみるみる大きくなった。痛みも増したが、やがてそれを感じなくなった。痛みが遠のいて安堵《あんど》した頃には、目の前は真っ暗になっていた。  鉦担《しょうたん》は走った。妖魔《ようま》が恐ろしい勢いで跳躍《ちょうやく》した先。岩があり、灌木《かんぼく》があり、足を取られて転んだ。  遙《はる》か遠くに火だるまになって生き物が跳《は》ねるのが見えたが、それは下降して、そして見えなくなった。 「あっちだ──追え!」  声を限りに叫んで、武器を掲《かか》げた人々が走る。  鉦担もまた立ち上がって駆けた。膝《ひざ》が震え、足元がおぼつかない。自分の目の前に、あの赤い獣《けもの》が──おそらくは朱厭《しゅえん》が──立ち現れたときの比ではなかった。  朱厭は玉《ぎょく》に酔った。油は役に立った。足腰が立たず、暴れる朱厭を襲うのはたやすかった。なのに。 「──珠晶《しゅしょう》さま!」  選《よ》りによって、その爪《つめ》が、珠晶《しゅしょう》を掛けてしまうなど。  鉦担は走り、また、近くに潜《ひそ》んでいた者も走った。明るみ始めた荒野をこけつまろびつしながら駆け、朱厭《しゅえん》の消え去ったほうへと向かう。息も絶え絶えになりながら走っていくと、段差があった。あわてて立ち止まったその足下、三丈ほどの距離を隔てた下に、明かりがある。まだ朱厭は燃えていた。 「どこか──このあたりに」  それとも、途中で振り落とされたのだろうか。  鉦担《しょうたん》は周囲を這《は》いずるようにして、少女を捜した。やがて夜が明け、あたりには明るい光が満ちた。彼らはなおも、周囲を探したが、少女の姿は見あたらなかった。 「そんな……」  座りこみそうになったとき、遠くで同じく腰を屈《かが》めるようにして探していた者が、声をあげた。  鉦担は立ち上がり、駆ける。だが、その年かさの女が示しているのは、遠方からこちらに向かってくる砂塵《さじん》なのだった。  十ほどの騎獣《きじゅう》の姿が見えて、鉦担は立ちつくした。  これが、一日早ければ、どんなに頼もしく、心強く思ったろう。──だが、もう遅い。 [#改ページ] 五 章       1  珠晶《しゅしょう》は目を開けた。  開けて息を吸った瞬間、ひどく胸が痛んだけれども、起きあがろうとして、ちゃんと起きあがることができたから、さほどにひどい傷があるわけではなさそうだった。  周囲は薄暗かったが、ずいぶんと上の方に細く明かりが見えていた。 「すごいわ……あたし、生きてるじゃない」  珠晶は石の壁に挟《はさ》まれた細い明かりを見上げて、ぽかんと声をあげた。小さなつぶやくほどの声は左右から迫った岩壁《いわかべ》に反響した。岩の間の細い亀裂《きれつ》のような場所。  声は出る、目も見える。あちこち動かしてみると、痛みはしたものの、きちんと動いた。無傷とはいかなかったようだが、掻《か》き傷や打ち身だけだろう。 「あらまあ。……驚き」  火だるまになった妖魔《ようま》が珠晶《しゅしょう》に向かって前肢《まえあし》を上げたとき、これは死んだな、と我がことながら思ったのだが。  片側には大きな岩が丸くのしかかるように突き出しており、もう一方の片側には同じく丸みをおびた岩が二つほど重なって、段差を持った斜面を作っていた。二つの岩壁《いわかべ》に挟《はさ》まれ、斜めにできた亀裂《きれつ》の底には、しっとりと湿《しめ》った土の上に、枯れ草がいくらか降り積もっている。底の広さは珠晶が横になって、ほんの少し余る程度。  試《ため》しに立ち上がった斜面に手をかけ、上をのぞきこむと、開口部は割と大きな裂《さ》け目であることが分かった。一方の大岩はせり出して地上まで切れ目なく続いている。大岩の下に水が流れこんで穿《うが》ったのがこの裂け目らしかった。 「へえ……」  珠晶は岩の斜面をよじ登る。岩の表面は滑《なめ》らかで、苔《こけ》が付着して枯れ葉が積もったりもしていたけれども、とりあえず一度も転落することなく斜面を登り切ることができた。  穴の外に顔を突き出してみると、暖かな陽光がいっぱいに降り注いでいた。穴の外は、大きな岩の根本を抉《えぐ》るようにしてできた広い擂《す》り鉢形《ばちがた》の窪《くぼ》みで、たっぷり草が生《は》えている。その草の根本を掴《つか》んで穴の外に這《は》い出し、半円を描く草地に寝転がると、いかにも気持ちが良かった。  青い空を見上げて一息ついて、珠晶《しゅしょう》は起きあがる。草を踏んで窪地《くぼち》を登り、灌木《かんぼく》の繁みをかき分けて越えると、その向こうが荒れ地だった。ここ何日か見慣れた、白い石と土、草と灌木の連なり。大地は白くうねって、はるかに森を望む。  荒れ地に立って周囲を見渡したが、見慣れたものの姿は見えなかった。人の影も、あの置き捨てられた馬車の影も見あたらない。  どうやら──と、さらに大岩の上によじ登りながら珠晶は思った。大岩は地面の上ではさほどに高くはない平らな岩の小山だった。その岩の上から見ても、やはり壊れた馬車の影は見えない。  どうやら、妖魔《ようま》の爪《つめ》にひっかけられて、どこかに運ばれてしまったらしい。袍《ほう》の片袖《かたそで》が肩のあたりから大きく裂《さ》けていたので、どこかその辺を引っかけられて運ばれるうちに、着ているもののほうが裂けて振り落とされてしまったのだろう。落ちた先が、この草の生《は》えた窪みの中で、窪みを転がり落ちて底にある大岩と地面の間の亀裂《きれつ》にくを滑《すべ》り落ちた。そういうことに違いない。 「あたしって、本当に強運の持ち主よねえ。……とりあえずは」  助かったのは運が良かったが、いま自分がどこにいるのか分からず、昇山《しょうざん》の者たち──正確にはそれに置き去りにされた随従《ずいじゅう》たちだ──の居場所も分からず、しかも水も食料もないのでは、さほどに喜んでばかりはいられないかもしれない。  とりあえず、裂《さ》けた袖《そで》を思い切ってちぎった。それを灌木《かんぼく》に結びつける。これを窪地《くぼち》の目印にして少しばかりあたりを歩いてみることにした。 「この運の良さから考えると、妖魔《ようま》はたぶん仕留められたわよね。きっとそうだわ」  あの猿《さる》を恐れて他の妖魔がうろついていなかったのは幸いだった。少なくともしばらくは妖魔の心配はしなくてもいいだろう。  影はかなり長い。いくらも寝ていた気がしないけれども、ひょっとしたらもう夕方のほうに近いのかもしれなかった。  大岩の形をしっかり観察し、とりあえず大岩からまっすぐに離れた。やはり馬車の影はどこにも見えなかった。これ以上離れると、大岩の姿が起伏の影に没する、そういうぎりぎりのあたりまで歩いて、そこからぐるりと円を描くように一周する。やはり馬車の影は見えない。試しに何度か声をあげ、耳を澄ましてみたけれども、返答はなかったし、人の声のようなものも聞こえなかった。 「これは、ちょっと難儀《なんぎ》だわ」  何とか道まで戻らないといけないのだが、さて、その道がどこにあるのだろう。 「迷子になったときの心得は動かないこと、なんだけど……」  問題は、本当に自分が探してもらえているのだろうか、ということだった。何しろあの妖魔《ようま》に攫《さら》われたわけだし、みんな珠晶《しゅしょう》のことは死んだものと諦《あきら》めて、先に行ってしまったかもしれない。──少なくとも、これまではそうやって歩いてきたのだ。姿を消した者は、死んだとみなす。すると、ここでただ待っているのは、あまり利口《りこう》なやり方ではない。 「とりあえず、行けるところまで行ってみるしかないか」  袖《そで》をちぎった肩から腕を検分する。触ると痛んだが、特に血が出ている様子はない。肌を裂《さ》かれたわけではないのだから、本当にほんの少し着るものが爪《つめ》に引っかかっただけなのだろう。ならばまさか何|里《り》も離れてしまったわけではないはずだ。とにかく道を探すことさえできれば、先に行った人々を追いかけることもできるかもしれない。 「やれるだけ、やってみるしかないわよね」  自分で言って、うなずいて、珠晶は大岩の上に戻り、そこに石を積んで塚を作った。ついでに灌木《かんぼく》の枝をむしって、そこに刺していく。 「これで、この岩を見失うことはないはずだわ」  大岩さえ見失わなければ、あの安全な亀裂《きれつ》も失わずにすむ。亀裂の底は湿《しめ》っていた。いざとなれば底を掘って、水を探すことだってできるかもしれない。  そうしておいて、太陽の位置と大地の起伏の感じから、漠然とこちらではないかと思われるほうに行く先を定め、歩数を数えながら歩いた。大岩の見えるあたりで足を止めて、さらに石を積み、塚を作る。  珠晶《しゅしょう》はさらに歩き、そこでも石を拾って塚を作った。──こうしておけば、少なくとも、あの窪《くぼ》みには戻ることができる。  影はさらに長くなった。陽が暮れようとしているのだった。四つ、石の山を作り、五つ目を作って、それが見えるぎりぎりの場所まで歩いて、珠晶は諦《あきら》めた。どうやら、方向をぜんぜんまちがえたようだった。  とぼとぼと大岩まで戻り、今度は正反対の方向へ向かって、同じことを試みる。こちらにもやはり何も見いだせなくて、しょんぼりと岩に戻る間に、陽が落ちた。  あたりには薄闇《うすやみ》が漂《ただよ》いはじめたけれども、火を焚《た》く術《すべ》もなければ、食事をする術はおろか、水を飲む術もなかった。 「くじけてもしょうがないわ……」  自分に言い聞かせながら大岩に座って休み、細い月が昇るのを待って、再び歩いた。  月明かりの下で石を探すのは難儀《なんぎ》だったし、そのうえ見通しは利《き》かないので、こまめに塚を作っていかねばならなかった。夜になって最初に歩いた方角には何も見えなかった。次に向かった方角にも何も見えなかった。そして三度目、五つ目の塚を積み、その塚が見える範囲を歩いていると、遠くに傾いた馬車らしき影が見えたのだった。 「やっぱり、あたしって運がいいわ」  その周囲には明かりがなく、そして人の気配もなかった。 「──みななもう、薄情なんだからっ」  つぶやきながらも、足取りも軽く、珠晶《しゅしょう》は荒野を小走りに駆ける。息が切れて脇腹が痛むほど駆けて、そうして足を止めた。 「あら……?」  すぐ近くに見えるのは、単なる岩で、馬車などではなかった。珠晶が足を止めた位置からは、もはやあまり馬車のようには見えなかった。珠晶はあわてて振り返ったが、もちろん、最後に積んだ塚はどこにも見えない。 「……迷っちゃったわ、あたし」       2  頑丘《がんきゅう》は、むっつりと押し黙って荒野に座りこんだ人々を見渡した。  彼らは一様に悄然《しょうぜん》として、怒りとも悲しみともつかないものを持てあましているように見えた。特に落胆が激しかったのは、季和《きわ》の随従《ずいじゅう》だったという、鉦担《しょうたん》という中年の男だった。  近迫《きんはく》はそれらの人々を困ったように見渡した。 「その……なあ。嬢ちゃんが消えてそろそろ一昼夜|経《た》つわけだし、今日一日探して、見つからなかったんだから……」  彼らは一日、主に朱厭《しゅえん》を罠《わな》にかけた馬車に近い焚《た》き火《び》の跡と、実際に朱厭が落ちた低い崖《がけ》とを結ぶ方角を徹底的に探した。  頑丘らが到着するまでに、彼らは焚き火跡と崖の間については、手を尽くしてあらかた捜索を行《おこな》っていた。彼らのうちの一人は、斜面を下り、平らな岩を見たが、そのいくらも高さのない岩の陰に窪《くぼ》みがあろうとは思わなかった。岩の陰には子供一人、隠れていることができるとは思えなかったので、その陰には回ってみなかったし、声を限りに珠晶《しゅしょう》を呼んでもいたが、その声を聞く相手が必ずしも意識があるとは限らないということを失念していた。  問題は、朱厭《しゅえん》が落ちた崖の先であろうということになった。朱厭が落ちた際に放り出されて、その下の灌木《かんぼく》がどっさり繁った、緩《ゆる》やかで広大な下り斜面に投げ出されたのではないかと、灌木を掻《か》き分けて捜索が行われたのだ。しかし、それは徒労に終わった。 「だからだな……」  近迫《きんはく》の声は尻《しり》すぼみに消える。 「どうぞ、先に行ってください。私は残ります」  言ったのは鉦担《しょうたん》だった。 「せめて明日、もう一度お探しします。私と珠晶《しゅしょう》さまのぶんだけ、水と食料をください」 「しかしな、お前……」 「私たちがこの荒れ地に見捨てられたとき、珠晶さまだけが見捨てずに戻ってきてくださった。それで助けられた私が珠晶さまを見捨てては、天に申し開きができません」  その通りだ、という声がいくつか、静かにあって、近迫は息を吐いた。 「どうする」  近迫は頑丘《がんきゅう》を見る。頑丘は利広《りこう》を示した。 「現在の俺の雇《やと》い主《ぬし》は、あちらさんだ」  頑丘《がんきゅう》の視線を受けて、利広《りこう》は笑う。 「こうしよう。──私たちが残る。私と頑丘はそもそも、珠晶《しゅしょう》と一緒に来た。もとより三人の旅だ。私と頑丘で探して珠晶を連れて、蓬山《ほうざん》に行く。最初からその予定だったんだから、それで平常通りだね」  けれど、と言った鉦担《しょうたん》を、利広は笑んで遮《さえ》った。 「私たちには駮《はく》と|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》がいるからね。珠晶を見つけさえすれば、すぐに追いつく。あなたたちは近迫《きんはく》と一緒に先に行って、少しね、隊列の足を引っ張っておいてください」 「足を引っ張る、のですか」 「そう。紵台《ちょだい》などは、早く先に行きたくて、じりじりしているからね。そこをうまくあなたたちが重荷になって、足を引っ張っておいてくれれば、すぐに追いつく」 「はい、でも──」 「だいじょうぶだよ、珠晶はね。剛氏《ごうし》の助けもなしにこれだけの人間を率いてこれて、おまけに朱厭《しゅえん》まで狩ってしまうような子供だから」  そうですね、と鉦担は口元を綻《ほころ》ばせた。近迫もまた軽く笑う。 「そりゃあ、そうだ。──夜に歩いていたとはね、畏《おそ》れいった」  首を傾けた鉦担《しょうたん》に、近迫《きんはく》はさらに笑う。 「開けた場所では、夜に歩く。少なくも黄朱《こうしゅ》はそうする。──頑丘《がんきゅう》が教えたんでなきゃ、珠晶《しゅしょう》は自分の頭で考えたんだろう。たいしたもんだ。あの嬢ちゃんなら心配がねえや」  言って近迫は、座りこんだ人々を見た。 「そういうわけで、夜明けまで、少しでも歩いておこうじゃないか。珠晶のことは朱氏《しゅし》の旦那《だんな》に任せておけば心配ねえ。それよりも前のめりになった紵台《ちょだい》と、怖《お》じ気《け》づいて蓬山《ほうざん》まで走っていきそうな季和《きわ》に早く合流して、のらくらと足踏みさせておかねえとな」  はい、とようやく鉦担がうなずき、人々が身動きする気配を見せた。安堵《あんど》したように頑丘を見た近迫に、頑丘は軽く息を吐きながら手を挙《あ》げて応《こた》える。 「まったく……」  小さくつぶやいた頑丘を、利広《りこう》が小声でなだめる。 「まあまあ。どうせ朱氏は、黄海《こうかい》を少人数で渡るのなんて、お手のものだろう?」 「素人《しろうと》が二人もいなきゃな」 「頑丘は私に雇《やと》われたんだから、そのへんは問答無用だ。──私たちはどうする?」 「火を焚《た》いたまま軽く寝ておくんだな。人捜しなら、陽の光がなきゃ、どうにもならない。運が良ければこの明かりを見て、珠晶のほうからのこのこ出てくるだろう」 「それは、そうだね」       3  一行は近迫《きんはく》ら剛氏《ごうし》たちが率いていき、頑丘《がんきゅう》は利広《りこう》とそこに残された。騎獣《きじゅう》に──今や主が逆になった騎獣に──もたれて軽く眠り、払暁《ふつぎょう》の頃に目覚《めざ》めて腹ごしらえをする。 「珠晶《しゅしょう》は水も食べ物も持っていないんだね。……このあたりに水の飲める場所はあるのかな」 「掘れば、なくもないらしいが」 「昨日、あれだけ探したのだから、崖《がけ》の下の斜面はない……」  言って周囲を見渡す利広を、頑丘は複雑な気分でながめた。 「何というか──お前さんってのは、妙な人間だ」 「私がかい?」 「そうとも。お前、何者だ? ──という質問には答えちゃもらえないんだろうな」 「単なる旅のひと」  頑丘は苦笑した。 「まあ、そういう答えだろうとは思った。しかし、利広《りこう》は何だって、いまさら珠晶《しゅしょう》を捜すんだ?」 「まさか放ってはおけないだろう?」 「それはない」 「ひどいな、それは。──そういう頑丘《がんきゅう》だって、今日まで列を離れずについてきたくせに」  それは、と頑丘は言いよどんだ。 「頑丘は珠晶に解雇《かいこ》されてしまったんだから、列なんてさっさと見捨てて狩りに行ってしまえば良かったんじゃないのかい? それをどうして今まで列に留まっていたんだ。何のかんのいいながら、珠晶のことが気になったんじゃないのかい?」 「そんなことじゃない」  頑丘はつぶやく。 「俺には俺の事情がある。狩りをするといっても、それなりの狩り場というものがあるんだ。留まっていたほうが都合が良かったから一緒に来ただけのことだ」 「そうかい? まあ、それを言うなら、私には私の事情があるんだよ」 「お前な……」  息を吐いた頑丘《がんきゅう》に、利広《りこう》はあくまでも笑う。 「頑丘、それはずるい。自分の本音は言わないでおいて、ひとの本音を探ろうなんて。それをやりたければ、もう少しうまくやる必要があると思うな」  さようで、と頑丘は再度、溜《た》め息《いき》を落とした。 「……本音が聞きたいわけじゃないが」 「が?」 「釈然としない。お前のやることは、理も何もないように見える」 「ないのかもしれないねえ」 「時々お前は、とんでもない悪党に見えるぞ」 「それでも構わないよ」  にこにことあくまでも朗らかに笑う顔に、頑丘は軽く頭を抱えた。 「……そもそも、お前は珠晶《しゅしょう》を気にして黄海《こうかい》に来たんだったろう。にもかかわらず、珠晶が季和《きわ》たちと行くと見捨てる。少なくとも、一緒に行ってはやらなかった。命が惜《お》しいという、それは俺にも分かるが、だったらなぜいま、危険を承知で珠晶を捜す」 「もう危険はないだろう? 朱厭《しゅえん》は珠晶が狩ってしまった」  言って利広はくつくつと笑う。 「たいしたものだ」 「朱厭《しゅえん》がいなければ、他の妖魔《ようま》が来るだけだ。命が惜《お》しいのならこんなところをうろうろせず、紵台《ちょだい》たちと一緒に蓬山《ほうざん》に向かえばいいんだ。それをわざわざ列を抜けて、おまけに|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》まで差し出して珠晶《しゅしょう》を探しに来る。ここで捜すくらいなら、最初から季和《きわ》と一緒に行けば良かったんじゃないのか?」 「それは、問題が違うな」  利広《りこう》は笑う。人の好《よ》さげな笑いだが、どうもこれが曲者《くせもの》だと、頑丘《がんきゅう》は近頃思う。 「私は恭《きょう》で珠晶に会った。会って気まぐれで助けてやって、蓬山に行くんだと聞いて納得した。珠晶は蓬山にたどりつけば、きっと登極《とうきょく》するだろう。およそ歴史の中でも最年少の王になる。──だからついてきたんだ。そう言ったろう?」 「珠晶が王になるのを見に?」 「平たく言うと、そういうことだね。実を言えば、黄海《こうかい》がどういうところなのか、昇山《しょうざん》というものがどういうものなのか興味があった。ついでに珠晶が登極する前に、できるだけ面識を得ておこう、というのもあったな」 「……そういうことか」  頑丘は苦笑したが、利広は声を上げて笑った。 「だめだよ、頑丘《がんきゅう》。君がいま考えたことは正しくない。そんな勝手な想像をするものじゃないよ」 「はいはい。お前さんにはお前さんの都合があるんだよな」 「そう。私には私の思惑《おもわく》があるんだ。私は頑丘の言うように、※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞をやったり取ったりできるような人間だから、王と面識を得て地位や財を得る必要なんか、最初からない」 「そうでしょうとも」 「けれども、珠晶《しゅしょう》と面識は得ておきたかった」 「──どうして?」 「何度も言ってるじゃないか。珠晶が助けと出会ったことが重要なんじゃない。珠晶が他ならぬ私と出会ったことが重要なんだ。せっかく出会ったものだから、会って別れるより、もっとちゃんと縁《よしみ》を結んでおいたほうがより良い、そういうことなんだよ」 「……さっぱり分からん」  頑丘がこぼすと、利広《りこう》は笑う。 「うん。それが私の私なりの事情というものだね。──けれども、もしも珠晶が登極《とうきょく》しないのなら、私のそういう行為には何の意味もないんだよ。そして、黄朱《こうしゅ》と一緒に行くか、季和《きわ》と一緒に行くかは、珠晶が登極できるかどうかの、分かれ目になりそうだった」 「珠晶《しゅしょう》が登極《とうきょく》できなきゃ、珠晶には意味がない、ってか?」 「だから、それは逆だと言っているだろう? 珠晶が登極しないのなら、私には意味がないんだ。私には私なりの思惑《おもわく》があって珠晶について黄海《こうかい》に来た。珠晶が登極するなら、それはそれなりの意味があることだけれども、珠晶が登極しないのなら、これは私の酔狂《すいきょう》でしかない。そして私は、酔狂で失ってもいいような命は持ち合わせがないんだ」 「そりゃあ、そうだろうが」 「君はまだ誤解している。──私には私なりに課せられたものがある。昇山《しょうざん》の者を守る剛氏《ごうし》と同じように。そしてそれは、酔狂で投げ出すことが許されるようなものじゃないんだ。どんなものにせよ、課せられたものというのは、そういう性質のものだ。違うかい?」 「そうかもな」 「だから、珠晶が登極できないのなら、珠晶の安全よりも自分の安全が優先する。珠晶がもしも登極するのなら、多少安全でないことであっても、やってみる値打ちがある」 「……やっぱり分からんな、俺には」  だろうね、と利広《りこう》は笑う。 「珠晶は愚《おろ》かにも頑丘《がんきゅう》と喧嘩《けんか》をして、季和《きわ》についていった」 「愚《おろ》かなのか、それが?」 「もちろんだ。もしも珠晶《しゅしょう》が王になるのなら、あそこで朱氏《しゅし》と喧嘩《けんか》をしてはならない。なぜなら、王の安全は、他のいかなる民の安全にも先立つからだ」 「無茶苦茶を言う奴だ」 「それが、王を欲する世界の理屈なんだよ。随従《ずいじゅう》を捨てた季和《きわ》を君たちは冷たい目で見るが、もしも季和が王になるのなら、そうでなければならなかった。なぜなら百やそこらの人の命と、王の命は引き替えにされてはならないからだ。王の肩には三百万の民の命がかかっている」 「嫌《いや》な理屈だ……」 「そうかい? それは剛氏《ごうし》が主人を守る理屈と同種のものじゃないのかな。主人を犠牲《ぎせい》にしないために、他の者を犠牲にしても仕方がない。王を求める世界の理屈というのも、結局はそれにとても似ている。──恭《きょう》には王がいない。これから先、幾万の民を犠牲にしないために、いまここで数百の者が犠牲になっても仕方がない」 「薄汚い理屈だよ、それは」  頑丘《がんきゅう》は吐き捨てたが、利広《りこう》はやはり笑った。 「その通りだね。けれどもそれが、王を欲する世界の理屈なんだよ。──そして、王はその世界を制するゆえに、その理屈を踏み越えねばならない。 「……は?」  利広《りこう》はくすくすと笑う。 「だからね、それは王に支配される者──臣下《しんか》の理屈なんだよ。そして玉座《ぎょくざ》に就《つ》く者は、臣下であってはいけない。王だから玉座に着くのであって、玉座に着いた臣下を王と呼ぶのではないのだから。ゆえに王は臣下の理屈を超越せねばならない」  頑丘《がんきゅう》は軽く蟀谷《こめかみ》を押さえた。 「さっぱり分からない。が……」 「が?」 「お前が、珠晶《しゅしょう》が季和《きわ》たちと行って生き残ったからこそ、探しに行こうということは何となく分かった。あそこで迂回《うかい》しないのは愚《おろ》か者、迂回するのが並の剛氏《ごうし》、迂回せずに行って主人を守りながら妖魔《ようま》を狩り、道の安全を確保するのが傑出した剛氏というものだ。──そういうことだろう?」 「ああ、それはうまい喩《たと》えだね」 「だから珠晶を連れ戻しに行かなかったな。しかしお前、それは珠晶が王の器《うつわ》なのかどうか、試したということじゃないのか」  利広《りこう》は笑った。 「もちろん、私は試《ため》したんだよ」       4  珠晶《しゅしょう》はとぼとぼと歩き、岩陰《いわかげ》で眠った。陽が昇ってから再び、自分の作った塚を探して歩いたけれども、これはいたずらにさらに道を見失う結果を招いた。 「困ったわ……どうしよう」  つぶやきながら歩いていると、そこにすい、と影が射《さ》した。  何を考える間もなかった。とっさに近くの岩に抱きつき、そのまま岩の根本に身を縮《ちぢ》める。屈《かが》みこんだ後で、迎えかもしれない、と思ったのだが、頭上から奇声《きせい》が轟《とどろ》いて、珠晶は思わず顔を上げた。  空に翼が見えた。昇山《しょうざん》の者の中に、翼のある騎獣《きじゅう》や妖鳥《ようちょう》を連れた者はいなかった。  あの大猿《おおざる》は、やはり死んだのだ。だから、妖魔《ようま》が舞い戻ってきた。 「頑丘《がんきゅう》、……あれ」  利広《りこう》は荒野を示す。頑丘《がんきゅう》が見ると、石を積んだ塚が見えた。 「塚が──珠晶《しゅしょう》か」 「他にないよ。ご覧、この利口《りこう》なやり口を。塚が等間隔に並んでいて、しかも、三つの塚がちゃんと一直線になっている」  利広は塚のそばまで来て、まっすぐに次に見える塚を示した。その向こうに、三つ目の塚があり、それらは腰を屈《かが》めてみると、まちがいなく重なって見える。 「ここで終わってる。あちらから来て、ここで引き返したな。もうひとつぶん塚があれば、焚《た》き火《び》が見えただろうに」  頑丘は背後を振り返る。背後のごく緩《ゆる》い斜面、あれを登りきってしまえば、馬車の残骸《ざんがい》とそのそばの焚き火が見えたはず。  塚を追って傾斜を下ると、岩の上に塚が作られ、灌木《かんぼく》の枝で大仰《おおぎょう》に飾られているのに出会った。 「ここが起点だ、おそらく」  利口はそこから、五方向に伸びている塚の列を示した。 「まったく、智恵だけは回るやつだな、あいつは」  頑丘は言って、すぐに近くの灌木の繁みにかかったそれを見つけた。 「利広《りこう》──あれ」  岩を迂回《うかい》して駆け下りる。灌木《かんぼく》に結んであったのは間違いなく袍《ほう》の袖《そで》だった。頑丘《がんきゅう》は周囲を見渡し、灌木の向こうの窪地《くぼち》に下りる。斜面を下っていくと、小さな亀裂《きれつ》があった。頑丘は中に下りてみる。一旦入ると、頑丘は中で向きを変えられない。それほど狭いが、とりあえず中の様子を見て取ることはできた。 「──いたかい?」 「いない」  言いながら這《は》い上がり、頑丘はあたりを見回す。 「だが、中を登った跡があった。ここにいたのは間違いない。いたとしたら珠晶《しゅしょう》だろう。大人《おとな》じゃ底まで下りられない」 「ここから、どこへ」 「さあな。──だが、中にもこの草地にも穴がない。あいつ、水を掘ってないな」 「水なしで、どれくらい保《も》つと思う?」 「三日がせいぜいだろう」 「すでに一日|経《た》ってる」 「子供の足だ、そんなに遠くまで行ってないはずだ。──妖魔《ようま》にさえ捕《つか》まってなきゃな」  珠晶はそのまま岩の陰で軽く眠り、陽が傾いた頃に起き出した。空腹で、疲れていて、しかも喉《のど》が渇《かわ》いていて、なんともひどい気分だった。  起きたはいいが、それからどうすればいいのか分からなかった。どちらへ行けば、せめてあの窪地《くぼち》に戻れるのかも分からない。見渡す限り、代わりばえのしない荒れ地で、白っぽい土に覆《おお》われた地面も、そこに点在する岩も、間を覆《おお》う草地や灌木《かんぼく》もも、ほとんど特徴というものがなくて困り果てる。  とりあえず、手の中に持った石を使って、隠れていた岩の表面をひっかいておいた。手の届く岩の上には石を乗せ、灌木の繁みでは枝を折る。何かの目印になればと思ってのことだった。少なくともこうしておけば、いつの間にか同じ場所に戻ったときには、戻ったということだけでも分かるだろう。  そう思いながらも溜《た》め息《いき》が漏《も》れる。 「ほとんど気休めみたいなものね……」  休む度《たび》に、このまま休んで万が一の迎えがあるまで座っていようか、それとも歩こうか迷う。迷って、結局歩きだすのだが、疲れてくると、歩いたことか愚《おろ》かに思える。──そう、最初からあの窪地《くぼち》でじっとしていれば良かったのだ。あそこで探し出してもらえないものなら、もう探し出してはもらえないだろう。 「後悔先に立たずとは、このことよね。ちょっと自分が嫌いになりそうだわ」  こうなったらもう、道を探し出すしかないではないか。そう思って、とりあえず歩くのだが、徐々に足は萎《な》える。空腹のせいか、片袖《かたそで》を失ったせいか、夜風は寒かった。  不安に後悔に、気落ちして、文字通りとぼとぼと荒野を歩けば、いかにも切ない。あてもなく彷徨《さまよ》い、何度目かに座りこもうとしたとき、その声が聞こえた。  おおい、とそれは人を呼ばわる声だった。  珠晶《しゅしょう》は立ち止まり、夜の荒れ野を振り返る。 「おぉーい」  男の声だった。嬉しいのが半分、泣きたいような気分が半分。探してくれていたのだ。再び背後から呼ぶ声がして、珠晶もまた声をあげる。 「こっちよ! ここにいるわ!!」  いいながら、珠晶は声のしたほうへと駆ける。こちらの声が聞こえないのか、男は同じく声をあげている。どうやら一人のようだった。ひょっとしたら大猿《おおざる》に追われて逃げ、珠晶と同じように道を失ったものかもしれない。それならそれでもいい。道連れがあれば、荒れ地を歩くのも、さほどには辛《つら》くないだろう。 「どこ? あたしはこっちよ!」 「どこだ?」  今度は声が届いたようだった。珠晶《しゅしょう》はあたりを見回しながら駆ける。足の痛いのも疲れたのも、吹き飛んだ気分だった。 「こっちよ!」  声を限りに叫んで、そしてずいぶんと先にある岩の陰に人が見えた。嬉しくて笑みがこぼれる。相手は珠晶に気づかないのか、岩の陰に回り込み、どこだ、と声をあげている。  珠晶は駆けた。駆けながら、相手を呼ぶ。 「今、行くわ」  ひょいと男が、岩の陰から顔を出した。そうして、手を挙《あ》げる。 「こっちだ」  遠目で目鼻立ちは分からない。よく知った声ではなかったから、本当に大猿に追われて消えた者のうちの誰かかもしれなかった。 「あなた、ひとり?」 「ひとりだ」 「あたしも、道に迷ってしまって」 「おれも道に迷ってしまった」  男はそのまま、岩の陰から手を挙《あ》げている。見覚えのない顔が目を細めて笑っているようだった。 「だいじょぶ? 怪我《けが》はない?」 「怪我はない」  さわ、と風が吹いた。向かい風に押されるように、珠晶《しゅしょう》の足が鈍《にぶ》った。 「あの……あなた、室《しつ》さんと一緒に来た人?」 「一緒に来た人だ」  男はその場を動かない。岩の陰から顔をのぞかせ、手を挙げたまま。 「……どうしたの? そこで何かしているの?」 「してるんだ」  のろのろと、それまでも進んでいた珠晶の足が止まった。じっと男を見つめる。男は依然として、手を挙げたまま。 「あなた……名前は?」 「お前の名前は?」 「あたしは、……あなたも知ってるはずよ」 「お前も知ってるはずだ」  珠晶《しゅしょう》は足を動かした。──今度は後ろを向けて。ゆっくりと、後退《あとじさ》る。 「ねえ、あなた、室《しつ》さんのところの人よね……?」 「ところの人だ」 「室さんの名前を覚えてるわよね?」 「覚えてる」  珠晶はさらに退《さが》る。 「……本当は、忘れたんじゃない?」 「本当は、忘れた」  背筋が冷えた。珠晶は後退る。ほとんど半身をひねるようにして、じりじりとその場を退っていった。男は手を挙《あ》げたまま、それでもじっと珠晶を見ている。 「おおい」  男の声が怖《こわ》かった。さらにさがり、足がもつれて転ぶ。やはり男は岩の陰から顔をのぞかせて、手を挙げたままだった。震える手を地について立ち上がろうとしたとき、男がぴくりと手を動かした。  突然、男の姿がかき消えたように見えた。消えたのではなく、跳《と》んだのだとは、一瞬をおいて理解した。背丈ほどもある岩を飛び越えて、それは珠晶《しゅしょう》の間近に降り立つ。 「おおい」  無表情に言った、その男の顔、太い首と堅く隆起した肩の線、逞《たくま》しく長い腕、鳩尾《みぞおち》からを覆《おお》った鱗《うろこ》と獣《けもの》の半身と、地についた足は鳥の蹴爪《けづめ》、一拍遅れて地を叩《たた》いた尾は長い蛇《へび》。  珠晶は悲鳴をあげて、とにかく手を振り回した。無意識のうちに掴《つか》んだ土が撒《ま》かれて、男の──その人妖《にんよう》の顔に当たった。さらに掴んだ石を投げ、触れるものを手当たり次第に掴んで投げながら、後ろへと退《さが》る。  退り、立ち上がり、駆け出した髪を掴まれて、とっさに遮二無二《しゃにむに》身をよじり、無理にも振りほどいて脱兎《だっと》のように駆け出す。岩に突き当たり、手をついて身をひねり、岩の後ろに回り込むと、それは珠晶ごと岩を跳び越えた。  身を翻《ひるがえ》そうとしたが、頭を掴まれた。大きく引かれ、足が浮いた。目の前に岩があった。  その悲鳴を、珠晶は最初、自分の声なのだと思った。岩が迫ってきて、思考が止まった。とっさに両手をついて、勢い余って頭をぶつけ、反動で尻餅《しりもち》をついた自分を、呆然《ほうぜん》と感じていた。さらに悲鳴がした。座りこんだ腰を、したたか叩《たた》かれた。思わず身をひねって岩に背を当てると、頭の上から白いものが落ちた。  何が起こったのか、把握《はあく》するまでの長い一瞬。  地に落ちた屈強な手。それは肘《ひじ》の付け根から切断されている。あれが頭を掴《つか》んでいた。  目を上げると、人妖《にんよう》は背を向けている。身もだえるように身体《からだ》をゆらし、その度《たび》に尾が大きく揺れ、跳《は》ねて珠晶を打った。  また、悲鳴がした。今度はそれが、自分のあげたものではないと分かった。  人のものとしか思えない悲鳴とも怒声《どせい》ともつかない声を、その人妖はあげた。一本の腕と残った二の腕を振り回し身をよじる背に、きらりと尖《とが》った切っ先の先端が現れた。まるで生《は》えてくるように突き通されて現れる剣、同時に横合いから腕を掴まれ、引きずられた。  顔を上げると、利広《りこう》の──確かに利広の顔があった。 「あ……」  うなずく利広に安堵《あんど》した一瞬、すぐ脇を蛇《へび》がうねって岩を打ち、それを追うように人妖の身体が倒れこんだ。岩に跳ねてそこに崩《くず》れ落ちる。 「おい」  珠晶《しゅしょう》は倒れた人妖《にんよう》の足元に立つ影を見上げる。 「──生きてるか?」  声が出なかったので、珠晶はうなずいた。 「まったく運だけはいい奴だな」  実際に、自分でもそう思ったので、珠晶はこれにもうなずいた。 「どうした。腰が抜けたか?」  言って、露を払うように剣を振り、鞘《さや》に納める人の影。 「あたし……すごくばかだったと思うわ……」  頑丘《がんきゅう》は、軽く眉《まゆ》を上げた。 「とっても怖《こわ》かったの……」  あとは声にならなかった。かわりに嗚咽《おえつ》がこみ上げてきた。思わず膝《ひざ》を抱えて顔を埋《うず》めた。歩み寄る重い足音。  そして、襟首《えりくび》の後ろを掴《つか》まれて引き起こされた。 「そら、立て。逃げるんだ」  ──こんな、猫《ねこ》の子みたいに扱うこと、ないじゃない。  そう思ったけれども、声にならなかった。珠晶《しゅしょう》は目を見開く。 「頑丘《がんきゅう》……足……」  当の頑丘は、苦笑としか呼びようのない笑みを浮かべていた。 「しくじったな。蹴爪《けづめ》に抉《えぐ》られた」       5 「だ……だいじょうぶなの!?」 「だいじょうぶとはいかんようだな」  頑丘は言って、岩に手をつく。そのまま縋《すが》るようにして座りこんだ。  褌《こん》は泥の色でも、膝《ひざ》の上で裂《さ》け、濡《ぬ》れているのは一目見れば分かる。座りこむ刹那《せつな》、その右足を庇《かば》うように頑丘が抱えこもうとして手を当てるのを、珠晶は見逃さなかった。珠晶はあわてて膝をついた。褌ごと膝の上の肉をごっそり抉られていることは、間近で見ればそうと分かる。利広《りこう》もまた膝をついた。 「頑丘──」 「よせ。そういう声を出されると、気が滅入《めい》る」  頑丘《がんきゅう》は言って、投げ出した足に手を伸べる。とたんに動きを止めたので、よほど痛んだのだろう。利広《りこう》が珠晶《しゅしょう》を振り返った。 「珠晶、膝袴《しっこ》を外して、褌《こん》を切っておいてくれ」  言って利広は、付近の大岩のほうへと駆けていく。珠晶は頑丘の足に屈《かが》みこんで、言われた通り、臑《すね》を覆《おお》った膝袴を外した。膝袴ももう重く感じるほどに濡《ぬ》れている。膝にまとわりついた褌をたくしあげようとしたが、張りついていてうまくいかない。手で裂《さ》こうとしてみたが、布が強くてとても裂けなかった。 「どいて。貸してごらん」  言ったのは、騎獣《きじゅう》を連れて駆け戻ってきた利広で、利広はためらわずに剣を抜くと、裾《すそ》に切っ先を入れて一気に膝上《ひざうえ》までを裂いた。見つめていた珠晶は思わず目をそらした。膝のほんの少し上、やや外側の肉が、血溜《ちだ》まりができるほど深く抉《えぐ》られている。 「足は曲がるかい」 「分からん。今は痺《しび》れているな。縄《なわ》をくれ。それと、駮《はく》──じゃない、星彩《せいさい》の荷を。首にかかった小さい方の荷袋だ」  珠晶は利広を制して立ち上がり、後ろの荷に括《くく》られた縄を外して利広に投げ、星彩の肩に振り分けられた、小振りな皮の荷袋を外した。  利広《りこう》は受け取った縄《なわ》を切る。それで足の付け根を縛《しば》った。縛った隙間《すきま》に、頑丘《がんきゅう》の剣を鞘《さや》ごと外《はず》して下から思い切って入れ、剣を回転させてねじる。 「……手慣れてるな」 「まあ、このくらいはね」  軽く微笑《ほほえ》みながら、利広は眉根《まゆね》を寄せる。  呼び交わす珠晶《しゅしょう》と男の声。人妖《にんよう》だ、と気づいたのは、頑丘だった。珠晶の下手《しもて》と上手《かみて》と、二手に分かれて忍び寄った。珠晶を捕《つか》まえた人妖の腕を、先んじた利広が落とし、頑丘が留《とど》めを刺した。頑丘が態勢を崩《くず》したのは見た。それが、断末魔《だんまつま》に喘《あえ》ぐ人妖が打ち振るう尾から、珠晶を守るためにあえて体勢を崩したことは明らかだった。単身、黄海《こうかい》に乗りこむだけのことはある。朱氏《しゅし》は強い。──だが、なまじ器用で珠晶を庇《かば》う余裕のあったことが徒《あだ》になった。 「頑丘、ねえ……だいじょうぶなの?」  頑丘が荷を抱えて戻ってきた。 「この程度の傷でくたばってちゃ、黄朱《こうしゅ》は務まらん」 「でも……」 「そういうお前は、怪我《けが》はないのか」 「だいじょうぶよ、おかげさまで。……さすがのあたたしも、死ぬかと思ったけど、ありがとう」  頑丘《がんきゅう》は目線を上げて、ほんのわずか、苦笑するようにした。 「さすがの、ねえ」 「頑丘が剣を使うのって、枝を落とすときしか見たことがなかったけど、やっぱりちゃんと使えたのねえ」  軽口を叩《たた》くと、頑丘は受け取った荷の中から、竹の筒《つつ》と小袋を引っぱり出しながら呆《あき》れたふうな顔をする。 「ちょっと見直しちゃったわ」 「そりゃ、どうも。……礼なら、利広《りこう》に言うんだな。利広が奴の腕を落としてくれなかったら、そのこましゃくれた口は今頃、岩に貼《は》りついていたぞ、頭ごとな」  傷に竹筒の中身を空《あ》け、盛大に顔をしかめた。匂《にお》いからすると酒だろう。そうして小袋から灰のようなものを掴《つか》みだして傷にかける。 「──利広が? ありがとう、だけど、それはちょっと驚きだわ」 「食えないだけの坊ちゃんかと思ったら、意外にやる。……まあ、よくも珠晶《しゅしょう》を斬《き》らずに奴だけを斬れたもんだ」  利広《りこう》は笑う。 「それくらいの取《と》り柄《え》はないと困るだろう。──相手が人妖《にんよう》で良かった。人妖と珠晶《しゅしょう》が喋《しゃべ》っているのが聞こえたから間に合ったんだ。悲鳴を聞いてからじゃ、間に合わなかったと思うよ。それともそもそも、珠晶が目印を置いていたから声の聞こえる場所に行けた、と言うべきかな。あれは偉《えら》かったね」 「だからあたしは、お利口《りこう》なんだって言ってるでしょ?」  珠晶は笑ってから、首を傾けた。 「ねえ、ぜんぜんそうは見えないけど、ひょっとして利広って軍人さん?」 「昔、そういうことをしていたこともあったかな」 「それで|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》を持っているのね」 「持っていた、と言うべきだな。星彩《せいさい》は頑丘《がんきゅう》の駮《はく》と取り替えてもらった」  珠晶は目を丸くした。 「どうして?」 「※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞は星彩の他にも持ったことがあるけど、私は駮は持ったことがないんだ」 「利広って、変わってる」 「珠晶、水を袋ごと下ろしてくれ」  はい、とあわてたように※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞のそばへと駆け戻った珠晶《しゅしょう》が水袋を提《さ》げて戻ってきて、頑丘《がんきゅう》はそれを受け取った。 「利広《りこう》、お前、どういう荷を持ってる」 「乾《けん》で剛氏《ごうし》に作ってもらった。おそらく頑丘のものとあまり差はないと思う」 「よし。──行け」 「頑丘!」  声をあげたのは言われた利広ではなく、それを聞いていた珠晶のほうだった。 「血のにおいを嗅《か》ぎつけて奴らが来るぞ。……俺はこれだけの荷があればなんとかなる。ついでに※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞を返す」 「冗談じゃないわ!」 「もちろん、冗談じゃない」  頑丘はそっけない。傷に妙なにおいのする皮をあて、古布を巻く。  利広は切ってあった縄《なわ》で、鞘《さや》の先を頑丘の膝《ひざ》、傷に触《さわ》らないあたりを軽く括《くく》りつけた。 「正直なところが聞きたい。──駮《はく》と※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞とどちらがいい?」 「駮を残してくれたら恩に着る」 「……分かった」 「ちょっと待ってよ!」  珠晶《しゅしょう》は声を張り上げた。 「なによ、それ。残していけると思うの? とんでもないわ、あたしは嫌《いや》よ!」 「勘違いするな。多少なりとも勝算がなかったら、行けとは言わない。──黄朱《こうしゅ》はそういう、自己|犠牲《ぎせい》とは無縁なんだ」  言って、頑丘《がんきゅう》は荷袋の中からつまみ出した、木の皮とも木の根ともつかないものを干したのを、口の中に放りこむ。 「行け。俺はひとりのほうがありがたい」 「嫌! なによそれ、冗談じゃないわ!」 「大声を出すな。星彩《せいさい》がさっきからそわそわしてるぞ。奴らがじきに来る。俺はだいじょうぶだと言っているだろう。こういう怪我《けが》には慣れている。──行け」  そういいながら、夜目にも、頑丘の額から頬《ほお》にかけてが濡《ぬ》れているのが見えた。どこがだいじょうぶだというのだろう、こんなに脂汗を浮かべておいて。 「利広《りこう》、そっちを抱えて。星彩《せいさい》なら乗れなくても、うまく乗せてくれるわ」  珠晶が掴《つか》もうとした腕は、しかし振り払われた。 「分からない奴だな。──行け。俺はお前たちがいないほうが助かるんだ。誰がお前のために命を捨ててやるもんか。勝算がなければ、行けとは言わん」  言って、裂《さ》かれた褌《こん》をたくしこみながら、頑丘《がんきゅう》は自分で膝袴《しっこ》を元通りに巻いた。 「あたしは嫌《いや》よ。そう言ってるでしょう。──あたしと一緒に逃げるか、あたしというお荷物を抱えてここで立《た》ち往生《おうじょう》するか、どらかを選んで」 「どちらも断る。──利広《りこう》、その縄《なわ》でこいつを括《くく》ってさっさと積んでいけ」 「嫌よ! あたしをそういうふうに扱うことは許さないわ!!」  その声に弾《はじ》かれたように、星彩《せいさい》と駮《はく》が振り返り、星の撒《ま》かれた夜空を見上げた。  利広はつぶやく。 「遅かったようだ。……来る」  同時に星彩が夜空に向かって低く唸《うな》った。 「頑丘、私にどうしてほしい」  利広の声に、頑丘は即答する。 「こいつを連れて行ってくれ」 「──珠晶《しゅしょう》は」 「あたしは絶対、ここを動かないわ。逃げたければ、勝手に逃げなさい!」  よし、と利広《りこう》は笑う。 「間を取ろう」  言うや否や駆け出して、利広は星彩《せいさい》に飛び乗る。頑丘《がんきゅう》が罵《ののし》る間も、珠晶《しゅしょう》が呼び止める間もなかった。 「──もちこたえろ。剛氏《ごうし》を連れて戻ってくる」       6 「あの野郎!」 「これって間を取ると言うより、痛み分けだわよね」  頑丘は珠晶を怒鳴《どな》った。 「何を落ち着いてる!」 「自分で選んだことだからよ。あたしは行かない。残れたんだから、それでいいわ」 「だから俺は──」 「往生際《おうじょうぎわ》が悪いわね。もう利広は行ってしまったの。|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》が本気で走れば、剛氏に追いつくことも不可能じゃないわ。あたしたちは、利広が戻ってくるまで、もちこたえるの」 「もちこたえられると思うのか!」  珠晶《しゅしょう》は笑った。 「だいじょうぶよ。あたしは運が強いんだもの」 「今、それが尽きたんだ。──駮《はく》を連れてこい」  頑丘《がんきゅう》は岩に縋《すが》って立ち上がった。 「最初からそう言えばいいのよ」  憎《にく》まれ口《ぐち》をたたいて珠晶は走り、駮《はく》の手綱《たづな》に飛びついた。岩のほうへと引っ張ると、駮はわずかに嫌《いや》がるふうをみせた。夜空を見上げたまま、小刻《こきざ》みに首を振る。ともかくも手綱を頑丘に渡すと、頑丘は素早くとはいかないまでも、しゃんとした動作で駮に騎乗《ぎしょう》し、珠晶に手を伸ばした。 「……痛くないの?」 「言ってるだろう。大騒ぎするほどのもんじゃない」  頑丘は言ったが、右足がしっかりと鐙《あぶみ》を踏めず、膝《ひざ》にも力が入らない。痛み止めのおかげで苦痛そのものは鈍《にぶ》くなってきていたが、同時に他の感覚も鈍るのは困ったものだ。ともかくも珠晶を鞍《くら》の上に引き上げて、駮の首を三つ叩《たた》く。  ──お前の好きにしろ。  駮《はく》はぴくりと首を起こし、そうしていきなり地を駆け出した。妖獣《ようじゅう》の本性に従い、危険を恐れてその場を逃げる。まだ逃げるだけの余裕があるということだ。すぐさま妖魔《ようま》が襲ってくるようなら、駮はその場に伏せて動かないはず。  駮は走り、そして浮遊する。手綱《たづな》を引いて、高度を下げさせ、ともかくも駮の好きにさせる。どんなに名も知れない騎獣《きじゅう》でも、──たとえそれが驢馬《ろば》と大差ないような代物《しろもの》でも、馬と違って妖獣は黄海《こうかい》を良く知っている。そこが圧倒的に違う点だ。彼らはどうすれば妖魔から身を守ることができるのかを知っている。  背後で音がした。珠晶《しゅしょう》が驚いたように身動きしたので、口に手を当てて黙《だま》らせる。前に乗った珠晶はのけぞるようにして頑丘《がんきゅう》を見上げ、黙ってうなずいた。  駮は地面に沿い、低い位置を緩やかに飛翔《ひしょう》する。気脈に乗らないこういう飛び方は駮といえども疲れるのだが、それをあえてするということは、駮も足音を立てたくないのだろう。背後でまた羽音がし、そして威嚇《いかく》するような声が高く低く交錯《こうさく》した。妖鳥《ようちょう》だろう。それが二羽。いま、獲物《えもの》を争っている。  駮は利広《りこう》と※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞とを追うように飛行し、じきにそこから岩の間を縫《ぬ》って、逆の方向を目指した。荒野を抜け、灌木《かんぼく》に覆《おお》われた広い窪地《くぼち》を低く越えて、岩の入り交じる林の中に入ろうとする。  ──まずい、と頑丘《がんきゅう》は内心でつぶやいた。  やはり駮《はく》は安全な場所へと行こうとしている。もちろん、それを頑丘も求めていて、だからこそその場所を覚えている駮を残してほしいと言ったのだが、珠晶《しゅしょう》を連れてそこへは行けない。  仕方なく手綱《たづな》を引き、嫌《いや》がる駮をなだめて林の中、反対の方角へと向かわせる。駮が困惑するのが分かった。安全な場所を知っているから、そこに背を向けなければならない理由が分からないのだ。ともかくもなだめて、林の中を走らせる。  唐突に、駮が跳《は》ねた。とっさに頑丘は、珠晶を突き倒すようにして駮の背に伏せる。駮は林の梢《こずえ》を突き破り、空へと駆け上がった。その下、枝の薄い林の中で、黒い影がひらめく。 「下に……いる」 「あいつは飛ばない」  空は藍《あい》の色に白《しら》み始めていた。ここで飛ばれるのはまずいが、下には降りられない。 「駮の背に伏せていろ」  頑丘は言ったが、間に合わなかった。 「……頑丘、ねえ」  珠晶《しゅしょう》が低くつぶやいて手を挙《あ》げる。 「待って。──あそこに明かりがあるわ!」  珠晶は指さした。林の向こう、樹影の影が濃くなって、森の体裁《ていさい》を現す。その奥に小高い隆起。小さなふた瘤《こぶ》の山は頂上が白々と禿《は》げているが、その麓《ふもと》に、確かに──明かりが。それもひとつではない。三つかそこら。  指さした珠晶には構わず駮《はく》はそれから遠ざかろうとする。珠晶は手綱《たづな》に手を添えて、なんとか駮の足を止めようとしてみた。 「珠晶!」 「待って、あっちよ! ──建物があるわ……!」  珠晶が声をあげると、頑丘《がんきゅう》は舌打ちをした。 「気のせいだ」 「気のせいじゃないわ! 確かに──」  駮は宙を走る。振り返った山の麓には、もう建物の影は見えない。けれども、確かにいまだに明かりが。 「お前は、何も見ていない」  珠晶は頑丘を振り返った。 「何も、見なかった。──いいな?」 「どうして?」 「見たと言い張るなら、俺はお前をここから突き落とす」  珠晶《しゅしょう》は思わず下を見た。薄い林、所々の細い木が揺れて、何かが下を追走しているのが分かった。たとえそれがいなくても、この高さから落ちればおそらく命はないだろう。 「……落としなさい」 「珠晶」 「結論だけ言われて、はいそうですかとおとなしく言うことを聞くのは、言葉の通じない家畜だけよ。ひとを家畜扱いするのなら、ここから突き落とすなり、妖魔《ようま》の鼻先に放り出すなり、すればいいでしょう!」  叫んだとたん、視野が揺れた。駮《はく》が嘶《いなな》く。馬よりも数段低い声がした。  何が、と思って探した視野に、薄藍《うすあい》の空、間近を貫いて空に駆け上がる翼が見えた。  駮は矢のように下降する。珠晶が悲鳴をあげる暇《いとま》もなかった。林の上端が近づき、同時に頭上から金具が軋《きし》んだような音がした。  猛禽《もうきん》のようなその鳥の首は二つ。双方が奇声をあげて駮に向かって降ってくる。駮は身を躱《かわ》した。宙を貫き、折れ曲がるように浮上してきた妖鳥《ようちょう》は、頑丘《がんきゅう》の剣が叩《たた》き落とした。  駮《はく》は嘶《いなな》く。薄藍《うすあい》の空に、さらに遠く影が見えた。翼はないが、宙をこちらにかけてくる。 「……くそ」  頑丘《がんきゅう》は声をあげ、眼下の丘を駮に越えさせる。岩と灌木《かんぼく》に覆《おお》われた、尖《とが》った丘の向こう側、林の中に駮を下ろしながら、荷の中の黒縄《くろなわ》を探る。駮にのせられているのは利広《りこう》の荷で、手で探っただけでは見つけにくかったが、剛氏《ごうし》が整えた荷なら、必ず前の荷袋の中にそれがあるはず。手探りで中を掻《か》き回し、それを見つけ出した。 「前の荷を外《はず》せ。水もだ」  珠晶《しゅしょう》に言って、駮が着地するやいなや、その場に伏せさせる。足を庇《かば》って転《ころ》がり落ちるようにして降り、手綱《たづな》にその細く黒い縄を結びつけた。目算を立てた木のそばに片足で跳《は》ねて駆け寄り、縄をそこに固く結ぶ。 「頑丘? 外したわ」  珠晶が声をかけると、頑丘は再度、駮のそばに駆け戻ってきて、そして荷を受け取り、駮を振り返った。首を軽く撫《な》で、労《いたわ》るように軽く叩《たた》く。 「水を持ったか」  ええ、と珠晶《しゅしょう》がうなずくと、頑丘《がんきゅう》は珠晶の肩を掴《つか》んだ。珠晶を杖《つえ》がわりに片足を引きずるようにしながらも、走り始める。──駮《はく》を残して。 「頑丘、──駮が」 「いいんだ」 「いい、って」  珠晶は振り返る。だって、頑丘がそこに繋《つな》いだのじゃないか。 「急げ」 「ねえ、でも!」  縄《なわ》は細く長い。それでも繋がれているのは事実で、頑丘に命じられたまま地になおも伏せている駮は、丘の麓《ふもと》に沿って遠ざかる頑丘と珠晶をきょとんとしたように見送っている。 「頑丘、駮が逃げられないわ。何かが追ってきてるのよ、あれじゃ──」 「いいんだ、それで」 「そんな……!」 「お前は、あいつに名前をつけろ、と言ったな」  言ったこともあった。あれは黄海《こうかい》に入ったときの話だ。 「黄朱《こうしゅ》は騎獣《きじゅう》に名前をつけない。……これがその理由だ」       7  岩と灌木《かんぼく》の間を縫《ぬい》い、丘に沿って二人は駆ける。こけつまろびつしながら、物陰から物陰へと慎重に、けれども急いで先へと進む。  ──いや、と珠晶《しゅしょう》は思う。  遠くで駮《はく》が嘶《いなな》くのが聞こえた。珠晶は頭を振り、目を逸《そ》らすように耳を逸らすことができないか、試みた。先へ進んでいるのじゃない、駮から逃げているのだ。 「……泣くな、小娘《こむすめ》」 「ほっといて」  珠晶はつぶやく。自分たちを見送っていた駮の姿は、絶対に一生忘れられないだろう。 「名前をつければ、情が移る。……だから黄朱は騎獣に名前をつけない」  言った頑丘《がんきゅう》の声はかすれている。 「……ばかみたいだわ」 「残酷《ざんこく》なことをする、と正直にわめいてもいいぞ」  珠晶《しゅしょう》は頑丘《がんきゅう》を見やった。 「ばかね。誰もそんなことは言ってないじゃない」  つぶやいて、珠晶は肩にかかった頑丘の手を支え直した。 「……仕方がないんでしょ? あたしたちは逃げないといけないんだわ。そのために、駮《はく》が犠牲《ぎせい》になってくれて、あそこに妖魔《ようま》が集まっている間に、陽が昇ればあたしたちは助かるのよ。駮を哀れんで一緒に死ぬことは、心地良く思えるけれども、結局のところ駮だって死ぬことに違いはないんだわ」 「……分かってるじゃないか」 「ひとを間抜け扱いしないで」  珠晶は残った片袖《かたそで》で顔を拭《ぬぐ》って先を急ぐ。できるだけ遠く。──悲鳴など聞こえないほど。 「間抜けなのは黄朱《こうしゅ》のほうよ。見捨てるために騎獣《きじゅう》に名前をつけないのじゃ、意味がないのに」  怪訝《けげん》そうに見返してきた頑丘を、珠晶は振り仰ぐ。 「だって頑丘は駮のことを、お前とかあいつとか、呼ぶじゃない。……それって、単に名前を呼ぶより、ずっと気持ちのうえでは親密なのよ、分かってる?」  頑丘《がんきゅう》は虚《きょ》を突かれて、涙ぐむ子供を見返した。  ともかくも答えずに走ることに専念したが、胸の中にざわめくものがあって息が詰まる。──珠晶《しゅしょう》の言う通りなのかもしれなかった。騎獣《きじゅう》を失うのは、これで九度目だ。その数も、失った騎獣のことも、忘れない。どこかで同種の似た騎獣を見れば、思い出す。だから、二度と同種の騎獣を持たない。そんな頑丘とは反対に、朱氏《しゅし》の中には同種の騎獣に頑迷《がんめい》なまでにこだわる者も多かった。 「……ごめんなさい。あたしのせいね」 「何のことだ」 「あたしが残ったから、駮《はく》は犠牲《ぎせい》になるんだわ。あたしがいなければ、駮と頑丘は、あの建物の中に逃げこめたのよ。だから、駮を残してくれ、ひとりにしてくれたほうが助かる、と頑丘は言ったんだわ。……そうでしょ?」  頑丘は杖《つえ》になった少女を、ぽかんと見つめた。 「あれは、なに? あたしが見てはいけないものだったのね? あたしが一緒だったから、あそこへ逃げこむことができなかったんでしょう?」  頑丘は黙す。実際のところ、息が上がって、言葉を発するのが億劫《おっくう》だった。 「もしも、ここであたしと別れたら、頑丘はあそこに逃げこめる? あそこまで行ける自信はある?」  頑丘《がんきゅう》は足を止めた。 「何の話をしている」 「もしも、頑丘があそこまでたどりつけるのなら、ここで別れてあげてもいい、と言ってるのよ。──どうなの?」 「お前な……」  頑丘はその場に座りこんだ。ちょうど岩棚の下の、抉《えぐ》れたような窪《くぼ》みがあって、そこに転がりこむ。 「あそこまで行ける? だったらあたし、このまま先に行くわ。せいぜい大声をあげて妖魔《ようま》の気を引きながら利広《りこう》に会えるまで、がんばってみる」  頑丘は、そばに膝《ひざ》をついた子供を不思議な気分で見上げた。 「お前、いったい何を考えているんだ」 「駮《はく》を犠牲《きせい》にさせた責任を取ることを考えているのよ。……言っておくけど、頑丘が何も言わないことにも、少しは責任があったと思うわ。逃げこむ場所があるけど、あたしや利広がいたら行けない、だから置いていってくれ、と言われたら、あたしだってちょっとは考えたのに」  頑丘《がんきゅう》は苦笑した。 「ちょっと、か?」 「だって、頑丘って正直じゃないんだもの。常に本音を言わないから、何が本音か分からないじゃない。だからそう言われても、単なる強がりだと思ったかもね。それは頑丘が悪いのよ。そういうのは身から出た錆《さび》って言うんだから」 「なるほど……」 「だけど、残ると言い張ったのは、あたしも悪かったと思うわ。おかけで駮《はく》を犠牲《ぎせい》にすることになったんだから、頑丘にも駮にも悪かったと思うの。だから、その償《つぐな》いに頑丘があそこまで行けるんなら、囮《おとり》になってあげてもいいわ。……そう思うんだけど、その調子じゃ無理みたいね」  頑丘は苦笑した。 「の、ようだな」 「ねえ、あたしがあそこまで行って、助けを求めてくるっていうのはだめ?」 「やめておけ。助けを求める間もなく殺されるのがおちだ」 「じゃあ、近くまで送っていくわ。それで忘れると約束する。──それは?」  頑丘は横たわったまま、岩棚の軒《のき》の外、白《しら》んでいく空を見る。 「お前、何をしに黄海《こうかい》に来たんだ」 「王さまになるためよ」 「だったら、行け。俺はまあ、なんとかする」 「頑丘《がんきゅう》はあの近くまで、少なくとも杖《つえ》が必要だと思うわ」 「だったら、王になるのを諦《あきら》めて黄朱《こうしゅ》になるか?」  珠晶《しゅしょう》は首を傾けた。 「あたしが黄朱なら、一緒に行っても構わないの?」 「黄朱になるということが、どういうことなのか分かっているならな」  珠晶は溜《た》め息《いき》をついた。 「そういうのは侮辱《ぶじょく》だわ。腹の立つ人ね」 「──ほう?」 「それは、あたしに──あたしみたいな子供には、黄朱の辛《つら》さが分かるはずがないということでしょ」 「……そうじゃないのか?」 「あたしを子供だってばかにするのは本当のことだから許すわ。黄海のことを知らないというのだって許してあげる。けれども、世の中のことなんて何も分かってないおばかさんだと思われるのは許せないわ」 「へえ? 分かってるって?」  揶揄《やゆ》って頑丘《がんきゅう》が言うと、間近に座った子供は真剣に腹を立てた様子で頑丘をねめつける。 「あなた、目があるんでしょう? 耳があるんでしょう? そこにあるものを目を開いて耳をそばだててちゃんと受けとめていれば、分かることだってたくさんあると思わない?」  頑丘は苦笑する。 「嬢ちゃんに黄朱《こうしゅ》の知り合いがいるってか?」 「あたしの家は、連檣《れんしょう》でも著名の豪商よ」 「正真正銘のお嬢さまか。……だろうとも」 「そういう言い方はやめなさい!」  頑丘はあわてて手を挙《あ》げた。 「大声を出すな。頼むから」 「だったらそういう、人を侮辱《ぶじょく》するようなことは言わないことね。──うちはそりゃあ裕福だわよ。だから家生《かせい》もたくさんいたわ」  頑丘は珠晶《しゅしょう》の怒りに紅潮した顔を、しげしげと見返した。 「あたしが絹の嬬裙《きもの》を着て庠学《しょうがく》に行っているとき、家生《かせい》の恵花《けいか》は綿の嬬裙で埃《ほこり》にまみれて働いていたの。一日じゅう働くということがどういうことなのか、あたしにだって想像がつくし、この旅でそんなに想像と違わないということがよく分かったわ」  同じ年頃の娘なのに、かたや絹にくるまれて暮らし、かたやそれにかしずいて暮らす。 「家生だって浮民《ふみん》だわ。土地や職をなくして、家をなくして、戸籍のある郷里を離れて、寄《よ》る辺《べ》をなくしたあげくに、喰うにつめて雇《やと》われたの。最低限の生活の面倒は見てもらえるけれども、家公《しゅじん》の許可がなくては何ひとつできないのよ。人を売り買いしてはいけない、奴隷《どれい》を持ってはいけないと太綱《たいこう》にはある、と老師《せんせい》は言ってた。けれども家生は奴隷なの。奴隷とは呼ばないというだけのね」  頑丘《がんきゅう》は珠晶《しゅしょう》をみつめる。 「家公は喰うにつめた浮民を、慈悲《じひ》をもって雇い入れる。浮民はその慈悲に感謝して、末永く家生として働いて恩を返す。額面ではそういうことよ。美談だわね。けれども、そんなのは嘘《うそ》だわ。浮民はもう他にどうしようもないから、奴隷同然だと分かっていて家公に雇われるの」 「……そうか」 「家生は雇われるかわりに、旌券《りょけん》を割るのよ、知ってた?」  頑丘《がんきゅう》はうなずく。旌券《りょけん》はたったひとつ、身分を保証してくれるものだ。所属する里《まち》の府第《やくしょ》でもらう。土地も家も離れて七年が経《た》てば、どこかで客死《きゃくし》したとみなされて国に取り上げられてしまう。それでもまだ旌券さえあれば、戻って再給付を受けることは不可能ではない。少なくとも府第に保護を求めることはできる。──だから浮民《ふみん》の多くは、いくばくかの安心のために旌券を割らされる。黄朱《こうしゅ》の宰領《おやかた》に売られた子供もそうだ。ゆえに浮民を、別名、割旌《かっせい》とも言う。 「旌券を割って、逃げ出したりしないと誓うわけ。親が家生《かせい》になれば、子供だって家生よ。小さな頃から働かされて、学校にだってやってもらえなくて、旌券を持っていればやはり割らされる。大人《おとな》になっても戸籍がなくて土地がもらえないから一人立ちできない。婚姻《こんいん》もできないし子供も持てない。家公《しゅじん》につくすことだけで食べさせてもらって、家公は家生がお金を貯めて逃げ出されちゃ嫌《いや》だから、給金を一切、与えない。最低限のものだけを与えられて働いて、歳を取っても、戸籍がないから里家《りけ》にも入れない。死ぬまで働いて、死んだら客死よ。閑地《かんち》の隅に葬《ほうむ》られてしまうの」  頑丘は黙ってうなずく。 「恵花《けいか》は少なくとも、お父さまが死ぬまで自由にはなれない。でもお父さまが死んでも、お母さまが生きていればとりあえず家財ごと家生だって引き受けられるのよ。お母さまも死んで、相家《そうけ》がなくなって国に家財を没収されるまでは家生《かせい》のままだわ」 「だが、その納室《のうしつ》も、まっとうには行われない……」 「その通りよ。お父さまは、兄様に報償と称して店や家財をどんどん与えてる。お父さまが死んだって、孝行者の子供に養われている無一文の老人が死ぬだけのことよ。納室するものなんて残ってない。相家の家財は子供に分散されて残る。──家生ごとね」  頑丘《がんきゅう》はうなずく。 「あたしには、確かに黄朱《こうしゅ》の知り合いはいないわ。けれども浮民《ふみん》と一緒に育ってきたのよ。どうして自分には絹の綺麗《きれい》な嬬裙《きもの》がもらえて、どうして恵花《けいか》には同じものが与えられないのか、あたしとても不思議だった。どうして恵花は一緒に食事ができないのかしら、どうして恵花のすまいは主楼《おもや》にないのかしら、どうして同じ厨房《だいどころ》で作られるのに、恵花の食べるものはあたしの食べるものと違うのかしら。──浮民になったことがあるわけじゃないけど、だから浮民のことは分からないなんて、誰にも言わせないわ」 「なるほどな……」 「黄朱のことは分からないけれども、家生が安全な舘第《やしき》という檻《おり》に入っているかわりに、黄朱が黄海《こうかい》で自由なのだということは良く分かるの。家生も黄朱も同じく浮民だけれど、一方は家公《しゅじん》に媚《こ》び諂《へつら》って何とか浮民のようでない、まっとうな暮らしをしようとしている。もう一方は、まっとうな暮らしを捨てて、代わりに黄朱《こうしゅ》の民《たみ》を名乗る。──あたしなら、家公《しゅじん》の保護より朱《あか》い旌券《りょけん》がほしいわ」 「だが、お前は蓬山《ほうざん》に行って王になりたいのだろう」 「そうよ。そのために来たんだもの。でも、王さまがだめなら黄朱もいいわよね。そうね、朱氏《しゅし》は悪くないわ」 「王と黄朱を秤《はかり》にかける、か」 「どうしていけないの。──知らないの? 王だって戸籍がないのよ」  頑丘《がんきゅう》は軽く笑った。 「俺たち黄朱は、王を必要としない……」  頑丘は柳《りゅう》で生まれた。戦乱に追われ父母が国を離れ、戸籍を失った。移り住んだ雁《えん》はしかし、雁の民のための国で、浮民《ふみん》は恵まれた民を見ながら路上で寝起きするしかなかった。土地もなく、子も望めない。あらゆるものから切り離された流浪《るろう》の民。 「王は俺たちを助けてはくれないが、土地を持って定住することがなければ、そもそも王は必要ないんだ。恭《きょう》が荒れれば恭を出るだけのことだからな」 「……そう」 「いったいこの世に本当に王が必要なのか? 王を失えば災異を招くというなら、王なんてものは幽閉《ゆうへい》してしまえばいいんだ。政《まつりごと》など行わせなければいい。そうすれば有益なこともできんかわりに、無益なこともできんだろう」  珠晶《しゅしょう》は頑丘《がんきゅう》の意図を取りかねて首を傾ける。 「……麒麟《きりん》の慈悲《じひ》は人を救うか。ただ哀れむだけなら、誰にだってできる。王と麒麟と、実はそんなものは、人には必要ないんだ。国の施しを受けずに生きていく覚悟さえできればな。王がほしいと希《こいねが》うのは依存だろう。浮民《ふみん》が家公《しゅじん》の慈悲を乞《こ》うようにして自ら王の下僕に成り下がる行為だ」  王に支配されず、天帝の意をすり抜ける。──黄朱《こうしゅ》は妖魔《ようま》の民だ。故国は、黄海《こうかい》。 「王をほしいと思う限り、珠晶は黄朱にはなれない」 「ばかね」  珠晶は笑った。 「あたしは王がほしいんじゃないわ。あたしが、王になりたいのよ。それはぜんぜん別のことよ」  言って珠晶は空を見る。夜明けの空は白い。 「明るくなってきたわ。動いたほうが良くはない? あたし、行ったほうがいい?」  頑丘は身を起こした。 「……肩を貸してくれ」 「だいじょうぶなの?」 「あそこまでなら保《も》つだろう」 「あそこ……」  頑丘《がんきゅう》は空を仰《あお》ぐ。 「黄朱《こうしゅ》の里《まち》だ」 [#改ページ] 六 章       1  黄海《こうかい》に入った者は、次の安闔日《あんこうじつ》まで出られない。露天《ろてん》に寝起きをし、怪我《けが》や病《やまい》があれば、木陰にうずくまるしかないのだ。  それは悠久《ゆうきゅう》の昔に始まったのだ、という。朱氏《しゅし》が──あるいは剛氏《ごうし》が、黄海に入って獣《けもの》を、石を、植物を狩るあらゆる黄朱《こうしゅ》が、安全な地の利のある場所に石を、あるいは瓦《かわら》を持ち寄り始めた。ともかくも妖魔《ようま》から守られて寝泊まりできる穴蔵《あなぐら》が、始まりだったのだと伝えられている。  どうせ黄朱には郷里《きょうり》がない。多くは定住する家も持たない。やがて黄海の中に、定住する物好きが現れ、それらの人々が力を合わせて里《まち》を築き始めた。 「でも、それは里《まち》じゃないわ。里とは呼ばないでしょ。里木《りぼく》がなければ」  珠晶《しゅしょう》は頑丘《がんきゅう》を支えながら言う。 「最初はな」  珠晶は目を見開いた。 「──最初?」 「里木がどうやって増《ふ》えるか知っているか」 「……いいえ。聞いたことがないわ」 「里木は挿《さ》し木《き》で増えるのだそうだ。王宮にある王の里木だけが、枝を切って挿し木することができる」  国の王宮には国の基《もとい》となる里木がある。それは王の子をつける木であると同時に、王の祈願によって新しい家畜の実をつけ、新しい穀物の実をつける。また、その枝を切って挿せば、その国土に限り里木を増やすことができる。 「……へえ」 「黄朱《こうしゅ》は里木がほしかった。黄海《こうかい》に里木があれば、そこから生まれた子供は真実、黄海の民だ」 「まさか、盗んだの? 王宮から」 「どこの王宮から盗んでくるんだ? ここはどこの国の国土でもないぞ」 「……でも」 「黄朱《こうしゅ》の民の嘆きを聞かれて、黄朱の神が里木《りぼく》の枝を授けてくださったんだ」  少なくとも伝説にはそう言う。黄海《こうかい》の守護者、犬狼真君《けんろうしんくん》。真君は玉京《ぎょっけい》の天帝、諸神に嘆願して里木の枝を十二得て、黄朱の民にそれを与えた。 「まさか」 「まさか?」 「庠学《しょうがく》の老師《せんせい》は、神さまなどいないと言っていたわ。それは人の想像の中にしかいないのよ。それって単なる伝説でしょ?」 「どうだかな。少なくとも黄朱はみんな信じてる。さほどに古いことじゃない……三百年か、四百年かそこら前の話だ」 「その里木が根付いたの……?」 「そうだ。真君は枝を下されるにあたって、決してこれを黄朱以外に知らせてはならない、と宣じた」  真君は諸神に嘆願して里木の枝を得たが、諸神は黄朱の民に里木を与えることを歓迎しなかった。ゆえにひとつの呪《のろ》いがかけられた。通常の里木は妖魔《ようま》にも災害にも、もちろん人にも決して枯らすことはできないが、黄朱《こうしゅ》の里木《りぼく》は、黄朱でないものが触れれば枯れるように。 「だから、あたしや利広《りこう》を連れて行きたくなかったのね」 「それ以上だ。黄海《こうかい》に里《まち》があることを知れば、必ず人はやってくる。昇山《しょうざん》の者、そうでない者、黄海に入る者は黄朱の里をあてにするようになる。人が行き来するようになれば、必ず里木を枯らす者がいるだろう。──残念ながら、人はそういう生き物だ」 「そうね……そうだと思うわ」 「それどころか、どこの国の王にしても、王の下《もと》に統《す》べることのできない民がいては目障《めざわ》りなはずだ。俺たちは王の保護を受けない。そのかわりに苦役や税などの拘束も受けない。王の施しを受けないことには目を瞑《つむ》って、苦役や課税から逃れることだけを妬《ねた》んで、狗尾《こうび》に与えられた里木を、分《ぶん》に過ぎた保護だと怒る者もいるだろう」 「ええ……。嫌《いや》がらせや悪戯《いたずら》で、里木を枯らしてやろうとする人っていると思うわ。……本当に残念だけれども」 「だから、黄朱以外の者は、入れない。里を見つけられれば殺してでも真君《しんくん》との制約は守る。黄朱は必ず里木を守る、その秘密を守ると約束したんだからな」 「……それであたしは、見てはいけなかったのね」  頑丘《がんきゅう》はうなずく。  黄朱《こうしゅ》の里《まち》の里木《りぼく》は貧弱な枝をしている。それでもまちがいなく、子を与えてくれるのだ。現在の地位も生まれた国も関係がない。行って願い、願いが届けば金色の実が生《な》る。里木を戴《いただ》いた小さな里は、どんなに貧しくとも黄朱の故郷だ。黄海《こうかい》の外に出れば数限りない迫害にさらされる黄朱にも、帰るべき、守るべき故郷があることが、黄朱の誇りの拠《よ》り所《どころ》になる。たとえ一生黄海に足を踏みこむことがなくとも、ただの一度もその里を見ることがなくても、余人に嫌悪され、恐れられる場所でも、黄海こそが紛れもない郷里だ。 「子のほしい者は、黄海に入って里木に願う。子供は秘密を守れる歳まで、母親と里で暮らし、宰領《おやかた》の元で修行をする」  くすり、と珠晶《しゅしょう》は笑った。 「あたしたち黄海の外で暮らす者は、生粋《きっすい》の黄朱の子供を見ることはないのね。──さすがに妖魔《ようま》の民だわ。妖魔と同じね」  頑丘も軽く笑った。 「そう言えばそうだな……」  頑丘は小声でとはいえ、珍しくよく喋《しゃ》った。それがなぜだか、珠晶にも分かっている。どんどん肩にかかる重みが強くなる。頑丘の足は明らかに力を失いつつあって、それと同時に顔つきからも覇気《はき》が失われ、呂律《ろれつ》も怪《あや》しくなっていた。──朦朧《もうろう》としてきているのだ。喋《しゃべ》ることで、かろうじて意識を保とうとしている。  珠晶《しゅしょう》は顔を上げる。まばらに生《は》える巨木は何という樹木なのか、枝は複雑にねじれ、柏《かしわ》のような大きな葉を濃くつけている。その枝と枝の間には霞《かす》んで見えるふた瘤《こぶ》の山。  夕暮れまでに着けるだろうか。それまで頑丘《がんきゅう》を支えていられるだろうか。休息のたびに足の付け根を縛《しば》った縄《なわ》を緩めると、その都度、大量の出血をみる。止血すればわずかだが、それでも全くないとはいかない。 「苦しい?」 「いや。……浮民《ふみん》の中でも黄朱《こうしゅ》は幸せだ。客死《きゃくし》はないからな。たとえ亡骸《なきがら》は閑地《かんち》に捨てるように葬られても、必ず同じ黄朱が朱旌《しゅせい》を抱いて黄海《こうかい》に入り、黄朱の里《まち》に葬ってくれる……」 「やめて。縁起でもない。それよりねえ、柳《りゅう》ってどんなところだった?」 「そうだな、寒かったな……」  恭《きょう》だって寒いわよ、と珠晶は茶々を入れた。実際には今も寒かった。肩にかかった頑丘の腕が冷たい。  周囲を取り巻く巨木の幹は、大人《おとな》数人が手を繋《つな》いでも抱えきれないほど太いくせに、梢《こずえ》の高さは低い。大きな葉が密生しているので、木の下は緑の影が落ちて薄暗くさえあった。その根もまた太く、幹を持ち上げるように大きく広く盛り上がり、髭《ひげ》のような細い根を簾《すだれ》のように下げている。白茶けた土の上によく張った根は、点在する巨木同士で絡《から》む。太く盛り上がった、あるいは軽く宙に持ち上がってうねるそれを踏み越えるのは、ただでさえ骨が折れた。足を怪我《けが》した頑丘《がんきゅう》では、なおさらだろう。低く横に張った梢《こずえ》はかろうじて隣の木の枝と接し、そこから斜めに光の帯が振り、青い真昼の空がのぞいていた。  そこに影が掠《かす》めた。  とっさに珠晶《しゅしょう》は頑丘を突き倒すようにして盛り上がった根の間に押しこむ。太い根に縋《すが》って頭上を見上げた。鳥ではない、そしてそれは|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》ではなかったし、剛氏《ごうし》の連れたどんな騎獣《きじゅう》とも似ていなかった。  頑丘の掠れた声が言う。 「酸與《さんよ》だ……」  それは人の身の丈の倍ほども長さのある蛇《へび》。四枚の翼があって、それをゆっくりと羽ばたかせて身をくねらせ、宙を泳ぐ様子は寒気を催《もよお》させた。  逃げたい気分を圧《お》し殺して、ともかくも根の間にうずくまる。酸與は空を泳ぎ、旋回するように宙を巡《めぐ》った。鱗《うろこ》に覆《おお》われた腹と三足《さんそく》を見せ、頭上の隙間《すきま》を越えていったかと思うと、あたりを一周したのか、また戻ってくる。何かを探しているかのように、珠晶《しゅしょう》たちの上空を離れない。何度目かにその腹が梢《こずえ》の天辺《てっぺん》をこすって、激しい音を立てた。 「血のにおいだ……」  ごく微《かす》かに、頑丘《がんきゅう》が言った。 「においが、するんだ。……珠晶、行け」 「いや」 「駮《はく》と同じことだ。気にするな」 「少しも同じことじゃないわ。あたしが駮なら、もちろん頑丘を繋《つな》いで逃げたわよ。でも、あいにくあたしは人間なの」 「黄朱《こうしゅ》になるんじゃなかったのか」 「なるのよ。そのためには、徒弟《でし》にしてくれる宰領《おやかた》が必要だわ」 「黄朱は命を無駄にしない。生き延びる可能性の高いほうが生きる。そのための犠牲《ぎせい》は、犠牲じゃない」 「おあいにくさま。あたしはまだ、黄朱じゃないわ」  言ったとたん、すぐ間近で物音がした。自分の顔から血の気が引くのが珠晶には分かった。  ねじくれた根は絡《から》み合い、盛り上がるようにして幹を支え、大きな塚でもそこにあるかのようだった。その塚の斜面の根の間から顔を出したのは、朱い毛並みを持った狼《おおかみ》の首、それも虎《とら》のように大きい。珠晶《しゅしょう》はその真っ黒な目と視線が交わったことを自覚した。  頑丘《がんきゅう》が右足に結んだ剣の束《つか》を握った。 「……根の下の隙間に入ってろ」 「でも」  言いさす珠晶の頭を頑丘は掴《つか》んで押さえ、無理にも下げさせる。添え木するように結んだ鞘《さや》から剣を抜くのは難儀《なんぎ》だった。おそらくは褐狙《かっそ》だろう、それはじっと頑丘らを見つめたまま動かない。  また頭上で枝が折れる音がした。酸與《さんよ》だ。徐々に低くまで来ている。  束を握った手には、およそ握力がなかった。酸與は運さえあれば、このままやり過ごせるかもしれない。だが、問題は目の前の褐狙だ。 「珠晶……いいか、そこを絶対に動くな」  身を縮めて、声を立てるな。 「静まったら、逃げろ。──悪いが、朱旌《しゅせい》を近迫《きんはく》に渡してくれ」 「……冗談じゃないわ!」  怪我《けが》のあるほうと、無事であるほう、若いほうと歳を取ったほう、いずれにしても未来と可能性をより多く持ったほうが生き延びる。それが黄朱《こうしゅ》のものの考え方だ。怪我がなければ頑丘《がんきゅう》は珠晶《しゅしょう》を犠牲《ぎせい》にして逃げるだろう。頑丘のほうがこの先、生き延びる可能性が高いからだ。  ──現在の場合、生き延びるべきはどちらなのか、あまりに明らかだ。  頑丘は剣を構えて──かろうじて構えてそろりと足場を探る。一歩を踏み出したとき、さらにその褐狙《かっそ》とも、酸與《さんよ》とも違う方向から囀《さえず》りが聞こえた。それは鳥の声に酷似《こくじ》していた。  このうえさらに、と頑丘が色を失ったとき、その囀りに弾かれたように、褐狙が根の間から躍り出た。頑丘が剣を振りかぶる間もなく、褐狙は一直線に飛び立ち、頭上の枝を割って空へ、酸與めがけて飛び出していった。       2  どうして、と言ったのは頑丘の脇腹のあたりに身を縮めていてた珠晶だった。  褐狙《かっそ》が逃げ出すほどの新手だろうか。頑丘《がんきゅう》は周囲を見回したが、何者の姿もない。頭上から驟雨《しゅうう》のような音が響いてきた。思わず見上げたのは、それが酸與《さんよ》の威嚇音《いかくおん》だと知っていたから、同時に褐狙の高い咆哮《ほうこう》が聞こえたからだった。  酸與が身をくねらせ、その喉笛《のどぶえ》に褐狙が食らいつく。  珠晶《しゅしょう》はもちろん、頑丘さえも唖然《あぜん》としてそれを見つめた。妖魔《ようま》どうしが獲物《えもの》や縄張《なわば》りを争って戦うことはよくあることだ。だが、目の前に血のにおいをさせた獲物がいて、それを仕留めてからならともかくも、獲物を無視して戦うなどということがあるはずがない。  枝葉の間から射しこむ陽が翳《かげ》った。大粒の雨が葉を叩《たた》く音がして、赤黒く雨が降り、それを追うようにして酸與がのたうちながら墜落してきた。その首には褐狙が依然として食らいついており、酸與の首は半ば喰い切られようとしている。  木漏《こも》れ日《び》を受けて、鱗《うろこ》を虹色に輝かせながら酸與がのたうつ。褐狙はその翼を踏みしめ、大きく首を振った。それで酸與の首が胴から離れた。なおも酸與の長い体躯《たいく》は跳《は》ねていたが、それもじきに静まる。思い出したように痙攣《けいれん》していたが、すでに完全に死ぬばかりなのは明らかだった。  褐狙は酸與の鱗に覆《おお》われた首をくわえたまま、一瞬の間、頑丘らを振り返った。赤茶を帯びた首の毛並みが木漏れ日に緋色《ひいろ》に透《す》ける。すぐに興味をなくしたように首を垂《た》れた褐狙の足下、酸與《さんよ》の身体《からだ》がもうちど痙攣《けいれん》して鱗《うろこ》を輝かせた。  呆然《ぼうぜん》とそれを見ていた頑丘《がんきゅう》を押したのは珠晶《しゅしょう》だった。 「……行くの。逃げなきゃ」 「ああ……」  心許《こころもと》なくうなずいた頑丘は、小さく嘶《いなな》く声を聞いた。はっと我に返る。  先ほどの囀《さえず》り、新たに聞こえた嘶き。──だが、その嘶きはひどく駮《はく》の声に似ていて、思わずその声の主を探さずにいられない。 「──頑丘」  珠晶が手を挙《あ》げて、酸與を片づけにかかった褐狙《かっそ》の向こうを指さした。  木漏《こもれ》れ日《び》の向こうに、人影が見えた。それが馬を──馬に似た獣《けもの》を連れている。いや、まぎれもなく駮だ。置き捨てたときの鞍《くら》も荷もそのまま、人影に連れられて歩み寄ってくる。  手綱《たづな》を取った人影には、緑の影が落ちて顔立ちが定かでなかった。 「……ひと……?」  珠晶はつぶやく。黄朱《こうしゅ》の民だろうか。そう思ったのは、その、男にしては細く女にしては堅い姿の、目の前の惨状を畏《おそ》れる様子さえないひどく静かな様子のせいだった。  利広《りこう》ではない。他の剛氏《ごうし》ではない。布を被《かぶ》っているのは分かる。何と言っただろう。剛氏の誰かもよく風|避《よ》けに同じようにしていた。大きな布を頭から身体へと巻いているが、その合間から見えるひときわ堅い線と鋭利《えいり》な陰影、あれは甲冑《かっちゅう》の線ではないだろうか。  人影は駮《はく》を連れて歩み、何の感慨も見せずに褐狙《かっそ》のそばを通り、伸びた酸與《さんよ》の尾を跨《また》ぎ越した。木漏《こも》れ日《び》に一瞬見えた顔は、柔和で若い。  気を呑《の》まれて立ちつくす頑丘《がんきゅう》と珠晶《しゅしょう》の間近へと、駮の手綱《たづな》を持って彼はやってくる。 「……この駮は、あなたのものか」  声もまた若かった。  頑丘はうなずいた。小柄な男──というよりも少年は、うなずいて駮の手綱を頑丘に差し出す。あくまでも静かなその動作に比べ、駮だけが勢いこんで首を振る。頑丘は手綱を受け取りそびれたが、かわりに駮のほうが首を下げた。頑丘の肩口に鼻面《はなづら》をのせて、これは馴《な》らす間によく見せた、誉《ほ》めてくれ、という意思表示だ。  頑丘はその首に手をかけ、軽く叩《たた》く。 「……よく、……無事で……」  置いていかれたことを分かっているのか、いないのか、駮はしきりに鼻面を擦《す》りつける。その美しくたわみ、緑の淡い光を浴びて艶《つや》やかに輝く首筋を、頑丘は何度も叩いた。 「黄朱《こうしゅ》の民か」  訊《き》いてきた人影の声は、あくまでも静かで、責める調子も誉《ほ》める調子もない。  頑丘《がんきゅう》はうなずいた。 「……礼を言う。あんたが助けてくれたのか」 「黒縄《くろなわ》で繋《つな》いであったので、主がよほど追いつめられているのだろうと思った。──怪我《けが》をしているね」  ああ、と思い出して、頑丘は抜いたままの剣を支えに、駮《はく》を離してその場に座りこんだ。 「ご覧の通りだ。助かった」  あの、と珠晶《しゅしょう》も声をかける。悠然《ゆうぜん》と食事をしている妖魔《ようま》を示した。 「あれは妖魔じゃないのかしら。ここでのんびり話をしていていいの? それとも、あれはあなたの騎獣《きじゅう》?」  いや、と彼は首を振る。 「騎獣というわけじゃないけど、知り合いだ」 「妖魔と、知り合いなの」 「まあね」  言葉を交わし、間近にその顔を見てみると、彼が若いことが分かる。珠晶《しゅしょう》とさほどには離れていないだろう。 「あなたも黄朱《こうしゅ》?」 「違う、と言っておいたほうが良いだろう」 「ひょっして、あたしたち、助けてもらったのかしら。だったら心からお礼を言うわ」  うん、と彼の声はそっけない。 「血が流れた。動いたほうがいい」  言って彼は手を頑丘《がんきゅう》へと差し出す。 「その足だ、騎乗しなさい。安全なところへ案内しよう」  手を差し出した、その動きで被《かぶ》った布が肩口から割れた。  珠晶はその姿をきょとんと見上げた。  古びてはいるが、おそらくは見事な皮甲《よろい》。澄んだ輝きを放っているのは、肩からかけた玉《ぎょく》だ。玉を連ねた五色《ごしき》のそれは右の肩から左の脇腹へと見事な輝きを放って並ぶ。それはひどく見事だったが、装飾には見えないのが不思議だった。  玉の披巾《ひれ》──。  珠晶は顔を上げた。目を見開いて頑丘に手を差し出した相手の横顔を見た。  頑丘《がんきゅう》は手を伸ばし、そしてやはり目を見開いてその動きを止めた。       3  あなたは、まさか──。  珠晶《しゅしょう》は何度も問いかけようとし、そしてその言葉を呑《の》みこんだ。  頑丘だけを駮《はく》に乗せ、手綱《たづな》を取った彼の脇を歩く。試しにおそるおそる手を伸ばして、手を繋《つな》いでみたけれども、彼は少し振り返っただけで、特に振りほどきもせず、珠晶の手を引いてくれた。その手は柔らかく暖かい。見上げる横顔も、ごく当たり前の若い顔で、どこかの若い武人がまぎれこんだだけとしか思えなかった。  彼は何の不安も気負いも見せず、森を抜ける。てっきり黄朱《こうしゅ》の里《まち》へ行くのかと思った珠晶だったが、彼は駮を引いたまま森を出て、頑丘が駮を捨てた丘の見える場所まで戻った。  丘の麓《ふもと》を迂回《うかい》して、その下にある灌木《かんぼく》の繁みに分け入ると、ごく細い沢に出る。それをさかのぼり、陽が傾く頃には岩場に分け入り、やがて岩にしがみついた松の根元に湧《わ》いた泉の畔《ほとり》に出た。  周囲は松の林、枝が泉のうえを覆《おお》っていて、空からの見通しは悪い。ちょうど岩に抱えこまれる形で、泉の周囲だけ一段低かった。  岩の間に打ちこんであった楔《くさび》に駮《はく》を繋《つな》ぎ、小さな岩棚の下にある古びた石組みの竈《かまど》に彼は向かう。  こんな場所をよく見つけたな、という思いと、よほど何度も来ているのだろう、あまりにも慣れた様子に、珠晶《しゅしょう》は困惑して、途中折り取った灌木《かんぼく》の枝と松葉を集めて火を熾《おこ》す彼を見つめた。  安全な場所に慣れている様子は、黄海《こうかい》に精通している印象を与えたが、安全な場所を知っており、それを頻繁《ひんぱん》に利用しているふうなのが、黄海の守護者にはそぐわなかった。  なのでやはり、あなたはまさか、という先の言葉が出てこない。  暮れ始めた林の中、松の下、さらに低くなった泉の畔《ほとり》には一足早く夕暮れが訪れていた。ひんやりとした空気が淀《よど》んでおり、珠晶はともかくも動く。駮を何度も撫《な》でてやり、鞍《くら》を外《はず》してやり、泉に鼻面《はなづら》を突っこませて水を与える。括《くく》りつけられたままだった荷を下ろし、飼料の入った袋を開け、岩の上に盛ってやった。 「……良かったね」  飼料に屈《かが》みこんだ駮の首を抱くと暖かい。本当に、無事で良かった。心の中でつぶやきながら暖かな首を抱いていると、少し目頭が熱くなった。こしこしと首に顔をすりつけて、珠晶《しゅしょう》は振り返る。岩に背をもたせかけて座り、ぼうっと自分と駮《はく》を見ているふうの頑丘《がんきゅう》のそばに駆け戻った。 「だいじょうぶ? 痛くない?」 「ああ……」  頑丘は答えたが、笑い含みに声が割って入った。 「つまらない嘘《うそ》はつかないことだよ。それで痛まないはずがない」  笑った声は、とても人間くさくて、珠晶はさらに困惑する。 「お嬢さん、傷口を洗ってあげなさい。──先に飲み水を汲《く》んでからね」  はい、と返事をして、珠晶は水袋を抱えて中の水を出し、泉から新たに水を汲む。水袋を置いて、頑丘の手を引っ張った。頑丘は立ち上がりざま、彼を振り返る。 「──真君《しんくん》」  火を熾《おこ》して振り返った彼は、言葉を待つように頑丘を見返す。 「お礼を……申し上げます。俺も、駮も。ありがとうございました」 「それは天に言うんだね。あなたは単に運が良かったんだ」  珠晶はまじまじと彼を見た。真君、と呼ばれて、返事をした。 「……犬狼真君《けんろうしんくん》」  彼は火のそばに片膝《かたひざ》をついたまま珠晶《しゅしょう》を見る。 「……人間にしか見えないわ……」  珠晶がつぶやくと、彼は笑った。ごく当たり前の、笑顔だ。 「人でないものになった覚えはないよ。──手伝おう」  彼は言って、頑丘《がんきゅう》の身体《からだ》を支える。珠晶はあわてて、頑丘を泉まで連れていき、座らせて、靴を脱《ぬ》がせ、膝袴《しっこ》を外《はず》した。傷に巻いた布を外し、水に浸して傷を洗う。  俺は、と頑丘は口を開く。 「真君《しんくん》は人でないのだと思ってました」 「仙《せん》を人でないというなら、そうだろうね。単なる天仙《てんせん》」 「天仙──」 「飛仙《ひせん》みたいなものだ、と言っておこうかな。少しばかり長く生きているけれども、出自《しゅつじ》は人にすぎない」  へえ、と珠晶は彼を見つめた。 「……真君は玉京《ぎょっけい》に仕えるんですよね?」 「どうだろうね」 「違うんですか?」  よせ、と言ったのは頑丘《がんきゅう》で、小さく笑ったのは訊《き》かれた彼のほうだった。 「天仙《てんせん》は、人と交わってはならないことになっている。本当はね。……だから無駄な質問はやめたほうがいい」 「あ、はい……すみません」  詫《わ》びて、珠晶《しゅしょう》は頑丘の足のほうに専念する。布で固まった血を洗い流しながら、驚きだわ、と胸の中で唱《とな》えていた。真君《しんくん》が人なのだったら、他の神も人なのだろうか。どこかに本当に玉京《ぎょっけい》なんてものがあって、そういう人たちの世界があるのだろうか。 「世の中って、びっくりするようなことがいっぱいあるわ……」  ひとりごちて、彼を見る。 「これでいいかしら──いえ、いいでしょうか」 「気負うことはないよ」  彼は苦笑するふうを見せて、頑丘の足に屈《かが》みこむ。頑丘が荷袋を引き寄せようとするのを止めて、被《かぶ》った布の下、皮甲《よろい》の腰につけた布の袋の中から小さな竹筒《たけづつ》を取り出した。 「何か新しい布を」  あわてて珠晶が荷物の中から新しい手巾《てぬぐい》を引っぱり出し、それを渡すと、彼は竹筒の中の水を吸わせる。それを傷に当てた。筒《つつ》に蓋《ふた》をして、珠晶《しゅしょう》に差し出す。 「これを持っていくといい。辛《つら》いようなら飲ませなさい。そんなにはないけど、傷が塞《ふさ》がるくらいまでは保《も》つ」 「あの、これ──」  何なのだろう、と問いかけた珠晶を、彼は遮《さえぎ》った。 「君は、黄朱《こうしゅ》には見えないね」 「ええと、違います。あたし、蓬山《ほうざん》へ──」  彼は頑丘《がんきゅう》の足に元通りに布を巻きながら、珠晶を見返した。 「……君が?」 「はい、そうです。頑丘は、朱氏《しゅし》なんですけど、ええと、剛氏《ごうし》として来てもらって──」 「無茶をする」  珠晶はそのそっけない口調に、ほんのすこしむっとするものを感じた。 「無茶なのは百も承知だわ」 「どうして君のような小さい人が、昇山《しょうざん》なんてことを考えたの」 「あたしが王の器《うつわ》だと思ったからよ」  珠晶、と頑丘が小声でたしなめたが、珠晶はそちらに目を向けなかった。 「……大層な自信だね」 「自分に自信を持つのは良いことだと、老師《せんせい》も言ってたわ」 「過大な自信は身を滅ぼす。……君は王がどういうものか分かっているのかい?」  珠晶《しゅしょう》は、頬《ほお》に血が昇るのを感じた。 「なによ、それ……!」  黄朱《こうしゅ》にしろ、この天仙《てんせん》にしろ。 「子供だからって、何も分かってないと決めつけるのはやめて! 王がどういうものだか分かっていなきゃ、そもそも黄海《こうかい》になんて来やしないわ!」 「分かったうえで、自分が王の器《うつわ》だと?」 「ええ、そうよ。そう見えない?」  では、と彼は珠晶に冷淡な目を向ける。 「この先は自力で切り抜けるんだね。言っておくけれども、ここに妖魔《ようま》が向かってきている。私がいる限りは襲ってこないけれども、私がここを出れば、まちがいなく沢を登ってくるだろう」  珠晶はそっけなく言った相手をねめつけた。 「そう、さすがに天仙ともなると、人を人とも思わないのね」 「玉座《ぎょくざ》は子供の玩具《おもちゃ》ではない。玉座とは座るものではなく、背負うものだ。王の責務を背負うということが、どういうことだか分かっていれば、自分が王の器《うつわ》だなどと、口が裂《さ》けても言えるものではない」 「分かってるわよ。国を背負えと言うんでしょう。国の民の命が全部肩にかかっているのよね。王が右を選ぶか左を選ぶかで、万という単位の人が死んだり泣いたりするのよ」 「それを自分が、正しく果たせると?」  珠晶《しゅしょう》は叫ぶ。 「そんなこと、あたしにできるはず、ないじゃない!」  頑丘《がんきゅう》は目を見開いて珠晶を見つめた。 「珠晶、お前──」 「あたしは子供で、国の難しい政《まつりごと》のことなんて何にも分かりゃしないわ。黄海《こうかい》に来て、自分の身ひとつだって人の助けがなければやっていけないのよ。なのに他人の命まで背負えるはずがないじゃないの! どうせあたしなんて、せいぜん勉強して学校に行って、小役人になるのが関の山だわ。そんなの、当たり前じゃない。あたしが本当に王の器なら、こんなところまで来なくたって、麒麟《きりん》のほうから迎えにくるわよ!」 「それが分かっているなら、なぜ昇山《しょうざん》するんだい?」 「義務だと思ったからよ!」  長い黄海《こうかい》の旅、自分が非力だと感じることばかりだった。 「あたしは恭《きょう》の国民だわ。もしもあたしが冢宰《ちょうさい》だったら、麒麟旗《きりんき》が揚がり次第、国の民の全員が昇山《しょうざん》するよう法を作るわ!」  珠晶《しゅしょう》の父親には昇山する気がなかった。今の暮らしを失いたくないから。 「どこかにいるのよ、王が。それが誰かは知らないけど、そいつが黄海は遠いとか怖《こわ》いとか言って怖《お》じ気《け》づいている間に、どんどん人が死んでるのよ!」  どこそこに妖魔《ようま》が出たと聞けば、可哀想《かわいそう》だ、何てことだ、世の中はどうなるのだと憂《うれ》い顔で。 「国民の全員が蓬山《ほうざん》に行けば、必ず王がいるはずよ。なのにそれはしないで、他人事《ひとごと》の顔をして、窓に格子《こうし》をはめて格子の中から世を嘆《なげ》いているのよ。──ばかみたい!」 「……珠晶」  頑丘《がんきゅう》は手を伸べる。 「昇山しないの、って訊《き》けば、笑うのよ。あたしが子供で、王がどんなに大変なことだか、黄海がどんなに恐ろしいところだか、知らないから言えるんだって顔をするの。あたしが子供でお嬢さん育ちで、世間知らずだからだと言って笑うんだわ。自分たちだけが分かってるって顔をするのよ」 「……そうか」 「あたしに言わせれば、身近な場所で人がどんどん死んでいるのに、他人事《ひとごと》の顔をしてられる人のほうがよほど世間知らずよ。死ぬってことも、辛《つら》いってことも、ぜんぜん本当に分かってないんだわ。違う?」 「そうだな」 「黄海《こうかい》は怖《こわ》いところだ、そんな無茶な、って、──どこが無茶よ! あたしでさえ覚悟《かくご》ひとつで来れたのに!」  頑丘《がんきゅう》はうずくまった子供を抱きとめる。 「……泣かなくていい。お前はよくやった」  珠晶《しゅしょう》は身を起こして、袖《そで》で顔を拭《ぬぐ》う。 「……昇山《しょうざん》する気もないのなら、黄朱《こうしゅ》みたいに、王なんていらない、って言えばいいのよね。妖魔《ようま》が出るのなんて当たり前なんだって顔をして、妖魔とのつきあい方を覚《おぼ》えればいいんだわ。どうやって身を守るのか、襲われたらどうするのか、考えて……」 「……確かにな」 「黄海《こうかい》の中でさえ、人が生きていけるのよ。恭《きょう》で生きていけないはずがないわ。国をあげて妖獣《ようじゅう》を狩って、恭を通る旅人の護衛をして、みんな朱氏《しゅし》や剛氏《ごうし》になっちゃえばいいのよ」  頑丘《がんきゅう》は苦笑した。 「それは、悪くない」 「頑丘、いま、すごい嫌《いや》な奴よ、分かってる?」 「そうか?」 「泣く子には逆らえない、って顔に書いてあるわ」 「まあ、事実だろう」  つん、と珠晶《しゅしょう》はそっぽを向く。その背に、静かな声がかけられた。 「もしも君が王だったら、どうする?」  珠晶はその天仙《てんせん》を振り返った。 「そんなの、もしもが起こったときに考えるわ。──でも、そうね。もしもあたしが王なんだったら、この国であたし以上にまっとうな人間がいなかったということだから、引き受けてあげないとしょうがないわよね」  なるほど、と彼は笑うふうだった。 「君は王になったら、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》ができるね。たくさんの下官《げかん》が君の足元に身体《からだ》を投げ出して礼拝する」 「ばかみたい。あたし、今までだってそりゃあ贅沢《ぜいたく》してきたわよ。立派な家だってあるし、利発で可愛いお嬢さんだって、大切に大切にされてきたんだから」 「なのに荒廃が許せないんだね。──なぜ?」  珠晶《しゅしょう》は呆《あき》れ果てた顔をした。 「そんなの、あたしばっかりだいじょうぶなんじゃ、寝覚《ねざ》めが悪いからに決まってるじゃない」 「そう……」 「国が豊かになって、安全で、みんなが絹の着物を着て、美味《おい》しいものをお腹《なか》いっぱい食べてたら、あたし着替えたりご飯を食べたりするたびに、嫌《いや》な思いをせずにすむのよ。心おきなく贅沢《ぜいたく》のし放題よ」  そうか、と彼は微笑《ほほえ》む。 「さあ、今のうちに彼に食事をさせてやりなさい」       4 「よく考えたら、すごーく久しぶりのご飯だったわ」  珠晶《しゅしょう》は器《うつわ》を置いて、満足そうに笑う。それを見て、頑丘《がんきゅう》は苦笑した。──黄朱《こうしゅ》の主食を百稼《ひゃっか》という。様々な穀物を煎《い》ったのを、ごく細かく挽《ひ》いたものだ。嵩《かさ》を取らず、これだけで生きていけるといわれるほどの代物《しろもの》だから黄朱の主食なのだが、味のほうはあまり良くない。だが、思い返してみると、珠晶がそれについて不平を言ったことがなかった。 「……こんなもんを不平も言わずに喰《く》うお嬢さんは、珠晶だけかもしれんな」 「そう? おいしいとは言わないけど」 「家じゃ、もっと旨《うま》いものを喰っていただろう?」  そりゃあね、と珠晶は肩をすくめる。 「いつも、お皿が卓子《つくえ》いっぱいに並んで、それこそ大盤振る舞いってやつ。……でも、庠学《しょうがく》で、もう何日もご飯をまっとうに食べてない、なんて話を聞いて帰ると、味なんてしないのよね」  珠晶は息を吐く。 「だからって、あたしが食べるのをやめても、家畜の餌《えさ》になるだけじゃない。かといって、街頭で配るわけにもいかないし、食べたくないって言うと、贅沢者《ぜいたくもの》だって叱《しか》られるし。他に食べるものもないから食べるんだけど、そうね──まずかったと思うわ。味じゃなくて、気持ち的にね」 「そんなものかな」 「それよ。結局ね。世間では飢《う》えて死ぬ人もいるんだ、って知っているのに、たくさんの御馳走《ごちそう》を食べなきゃならない人間の気持ちなんて、経験してなきゃ分からないんだわ。目の前に好きなものがいっぱい並んでいて、お腹だって空《す》いているのに、喉《のど》が詰まって食べられないの。そういう経験ってある?」  頑丘《がんきゅう》は苦笑した。 「確かに、ないな」 「ひもじいのは切ないだろうと思うわ。でも、食べるものがあって喉《のど》を通らないのだって同じくらい切ないんだから。そりゃあ、あたしはそれで飢《う》えて死ぬわけじゃないんだけど、いっそ飢えて死ぬような身分になれたら、どんなにいいか、と思うことだってあるのよ」  頑丘が口を開きかけると、珠晶《しゅしょう》は顔をしかめる。 「お願いだから、その先は言わないでね。あたし、また癇癪《かんしゃく》を起こしたくなるから。……何が言いたいのか分かってるわよ。そういうことは、飢えた経験のないお嬢さんだから言えることなんだ、っていうわけでしょ」  珠晶《しゅしょう》は言ってそっぽを向く。 「ご飯を食べられない人にね、分けてあげたいと思うと、施しだと思われるの。苦労知らずのお嬢さんには、人を助ける権利はないのよ。可哀想《かわいそう》に思って何かしてあげようとすると、いい気になってるって言われるの。そのくせ、贅沢《ぜいたく》をしてるって責めるのよ。ひもじい思いなんてしたことないだろう、って言われたら、ないわよ、うちはお金持ちだから、って高笑いするしかないのよね。そうでなければ、許されないの」  頑丘《がんきゅう》は苦笑した。 「……なるほどな」 「時々ね、もう少し献立を質素にしましょ、って言いたくなるんだけど、言ってもぜんぜん意味がないのよね。だって、食べるもので贅沢をしなかったぶん、お父さまの懐《ふところ》にお金が残るだけで、べつにそれでひもじい人がご飯を食べられるわけでもなんでもないんだから」  言って珠晶は深い溜《た》め息《いき》を落とす。 「確かにあたしは、苦労知らずなんだと思うわ。食べるものだって着るものだって贅沢《ぜいたく》をしてたし、家だって大きくて立派で、窓には全部|鉄格子《てつごうし》が入っていて安全だった。杖身《じょうしん》だっていっぱいいて……。でもって、家の外ではどんどん人が死んでいくの。可哀想《かわいそう》に思っても、可哀想にって言う権利はあたしにはないのよ。そういうときには、こう言わないといけないの」  言葉を切って、珠晶《しゅしょう》は指を挙《あ》げる。 「どうして、杖身《じょうしん》ぐらい雇《やと》っておかなかったの?」  圧《お》し殺した笑い声は二人分。駮《はく》のそばから、そうして焚《た》き火《び》のそばから。珠晶はその両方を見て、溜め息をつく。 「……それでせめて、官吏《かんり》になろうと思ったの。官吏だったら、少しは人のためになることができて、そしたら罪悪感だってちょっとは薄らぐかもしれないじゃない。でも、妖魔《ようま》が学頭《がくちょう》を襲って、それで庠学《しょうがく》が閉まっちゃったのよね。甘かったの、あたし。お勉強して官吏《かんり》になって、官吏が人に良い政治を施すなんて、よく考えたら王さまがいて初めて意味があることなのよね」 「それで王になろうと思ったのか?」  頑丘《がんきゅう》が問うと、珠晶は首を振る。 「違うわ。誰かに王になってほしかったのよ。いくらなんでも、十二の子供が王さまになれるわけないでしょ。そんなことがあったら、笑っちゃうわよ、あたし。ちゃんとしたものの分かった人が王さまになってくれれば、妖魔《ようま》だって出なくなるし、飢饉《ききん》が起こったりすることもないわけでしょ? だからいろんな人に昇山《しょうざん》しないのか訊《き》くんだけど、ぜんぜん相手にしてもらえないのよね。子供は無邪気でいい、とか言ってくれちゃうわけよ」  でもね、と珠晶《しゅしょう》は首を傾ける。 「ひもじい、怖《こわ》い、辛《つら》いなんて、愚痴《ぐち》を言って人を妬《ねた》む暇があれば、自分が周囲の人を引き連れて昇山すればいいわけじゃない。昇山して初めて、愚痴を言っても許されるんだと思うのよ。それもしないで、嘆くばっかり──って、よく考えたら自分のことなのよね」  頑丘《がんきゅう》は生真面目《きまじめ》そうに首を傾ける少女を見つめる。 「どうして誰も王になろうとしないんだ、王は現れないんだ、って怒っておいて、自分には王になんてなれるはずがない、そもそも蓬山《ほうざん》なんて行けるはずがない。これってぜんぜん同じじゃない。だから、まず自分でいこうと思ったの。黄海《こうかい》に行って帰ったら、あたし堂々と、やるべきことをやってから嘆けば、って言ってやれるわ。妬《ねた》まれたって羨《うらや》まれたって、あたしは恵まれてるぶん、やるべきことをやったもの、って言える。そしたらもう、無理に官吏《かんり》になろうとか思わないで、好き勝手にできるのよ」 「好き勝手?」  これは火のそばから、静かな声で問いかけがあった。 「あたし、騎商《きしょう》になりたかったの」  珠晶《しゅしょう》は笑う。 「騎獣《きじゅう》が好きなの。だから朱氏《しゅし》もいいな、と思うの。──って、お前なんかに黄朱《こうしゅ》の気持ちが分かるのか、って話やめてね。もううんざりしているから。朱氏になって、恭《きょう》なんか出ちゃって、好きなだけ騎獣と一緒にいて、古なじみにどこかで会って、王がいないからさんざんだ、って愚痴《ぐち》を聞かされたら、王がほしいならまず自分が昇山《しょうざん》すれば、って冷たく言ってやるの」  くつくつと、火の傍《かたわら》らから、圧《お》し殺した笑いがする。 「本当は王さまなんて、どうでもいいわ。王さまがいれば全部が良くなる、って大人《おとな》は言うけど、何がどう良くなるのかあたしには見当もつかないもの。生まれたときからずっと、王さまなんていなかったし」 「……そうか」 「生まれたときから王さまはいなかったけど、お父さまは商売をやって、あたしは学校に行って、府第《やくしょ》だってお店だって開いていて、とりあえずみんななんとかやってたんじゃない。だったら王さまなんていなくても、ずっとなんとかやっていけるんじゃないかと思ったりもするんだけど」  珠晶《しゅしょう》がうかがうように首を傾けると、火のそばから静かな声がある。 「それはどうだろうね」 「王さまがいないとそんなにひどくなるものかしら?」 「悪くなる一方だからね」 「……それちょっと困るなあ」  珠晶は腕を組む。 「恭《きょう》を出て好き勝手して、それでまた罪悪感に悩まされるほど悪くなってもらうと嫌《いや》だわね」  ぶつぶつと勝手な計画を立てている珠晶をながめながら、頑丘は駮にもたれている。もらった薬のせいなのか、痛みはほとんどなく、柔らかな眠気だけがある。  背中に駮のぬくみを感じて、半ばとろしろとしながら、珠晶は朱氏《しゅし》に向いているのかもしれないと思う。ひょっとしたら良い朱氏になるのかもしれない。──だが、おそらくそういうことは起こらない。  珠晶は南へとやってきた。この、黄海《こうかい》という水のない海へ。  ──背は泰山《たいざん》ごとく、翼は垂天《すいてん》のごとし。  羽ばたいて旋風《せんぷう》を起こし、弧を描いて飛翔する。雲気《うんき》を絶ち、青天《せいてん》を負い、そして後に南を図《はか》る。南の海を目指して。 (……図南《となん》の翼……)  その鳥の名を、鵬《ほう》という。  大事業を企《くわだ》てることを図南の翼を張ると言い、ゆえに言うのだ、王を含む昇山《しょうざん》の旅を、鵬翼《ほうよく》に乗る、と。 (それもわるくない……)  頑丘《がんきゅう》は苦笑しながら目を閉じる。  たぶん、朱氏よりも向いているだろう。       5  二人と一頭はそこで寄り添って眠り、朝には目覚《めざ》めて、出発の準備をした。天仙《てんせん》は眠らなかったらしかった。  出る前に、珠晶《しゅしょう》は指示されて、頑丘の手当てをしなおす。布を解《ほど》き、当て布を取って、珠晶はもちろん、頑丘《がんきゅう》も目を丸くした。すでに傷が乾き、うっすらと新たに肉が盛り上がろうとしている。  珠晶《しゅしょう》は竹筒《たけづつ》とそれをくれた天仙を見比べた。 「……すごいわ」  つぶやいた珠晶に笑って、彼は前夜と同じように頑丘の手当てをしてくれた。 「ねえ、天仙は人に交わっちゃいけない、って言わなかった?」 「言ったね」 「これって、相当に交わったことにならないかしら」  彼はくすりと笑う。 「なるだろうね。……まあ、いいろだろう。わたしが黄海《こうかい》を放浪するような物好きで、度し難いということは、玉京《ぎょっけい》もご存じだ」  玉京、と珠晶はつぶやく。それは、言えない、だから訊《き》いても無駄だ、と言っていたことではなかったのだろうか。  珠晶の困惑を知ってか知らずか、彼は笑って立ち上がる。 「蓬山《ほうざん》まで、あと少しだ。がんばるんだね」 「あの……いろいろとありがとう」 「この先に最後の難所がある。乾《けん》から蓬山《ほうざん》までの道のりの中で最も辛《つら》い岩の砂漠だ。気は抜かないほうがいい」  珠晶《しゅしょう》は駮《はく》にのせようとした鞍《くら》を置いて、その人を上目づかいに見た。 「やっぱり……送ってくれたりはしないのよねえ……」  おい、と咎《とが》めるような声は荷をまとめている頑丘《がんきゅう》のもの。軽く笑って踵《きびす》を返しながら、しない、と天仙《てんせん》の声は静かだった。 「妖魔《ようま》はもういない?」 「さあ」 「さあ、って。……集まってきてるんでしょ? ゆうべそう言ったじゃない。それが分かるなら散ったかどうかも分かるでしょ?」  彼は振り返る。 「あれは嘘《うそ》だよ」  珠晶は彼をねめつけた。 「呆《あき》れた。悪辣《あくらつ》な人ね」 「わたしを悪辣だと思うなら、覚えておくんだね。祈りというものは、真実の声でなければ届かない」  珠晶《しゅしょう》はわずか、その柔和な顔を見つめた。 「本音でなければならないんだよ、お嬢さん。──そうでなければ、天の加護は得られない」 「天仙《てんせん》って、とっても人が悪いわ」  彼は笑う。 「では、やはり人ではないんだろう」 「──でも、その嘘《うそ》が本当になったらどうするの? せめて昇山《しょうざん》の道まで送ってやろうとか、そういう気はないわけ?」 「必要ない。その必要を感じないから」 「薄情者《はくじょうもの》……。怪我人《けがにん》がいるのに」 「怪我人がいる、わたしがいない、だから妖魔《ようま》は来ない」 「なによ、それ」 「滅多《めった》に人には会わないんだ。わたしは」  珠晶は首を傾けた。 「天仙《てんせん》の考えてることって、さっぱり分からないわ」 「君は僥倖《ぎょうこう》に巡《めぐ》りあった、と言っているんだ」  彼は微笑《ほほえ》む。 「それ、あなたに会ったから、運を使い果たしちゃったってこと?」 「そうじゃない。分からなければいいんだ。──お行き。天帝の加護があるだろう」  珠晶《しゅしょう》は首を傾け、頑丘《がんきゅう》の顔を見たが、頑丘は心得顔でうなずいた。 「……時々、大人《おとな》って理解を越えるわ」  彼は笑って、そうして沢を下っていく。 「そうだわ、──ねえ」  珠晶は立ち上がり、軽く後を追いかけた。 「天仙《てんせん》はもともと人なのね?」  そうだよ、と彼は振り返って笑う。 「じゃあ、名前があるのよね? 真君《しんくん》、って号《ごう》でしょ?」  彼はうなずき、何かに気づいたように被《かぶ》った布に手をかけた。 「忘れていた。ここから先は砂漠になるから、これくらいはあったほうがいいだろう」  布を外《はず》して投げ、露《あらわ》になる皮甲《よろい》の形。松の梢《こずえ》から降り注ぐ陽射しに、玉《ぎょく》が小さく輝いた。 「……これ?」 「片袖《かたそで》をなくしている。そのままだと火膨《ひぶく》れができる」 「ありがとう。──あなたの、お名前は?」 「知ってどうする?」 「あら、人が出会ったとき、名乗るのは基本だわ」  珠晶《しゅしょう》は言って、小首を傾げて見せた。 「あたしは珠晶。あっちが頑丘《がんきゅう》よ。でも、駮《はく》にはまだ名前がないの。あたしがつけていいんですって。あなたの名前をつけたら気を悪くする?」  彼は軽く笑った。風が吹いて、頭髪が青みを帯びた黒になびいた。 「──更夜《こうや》」       6  陽は中点を目指して駆け昇る。一点の曇りもない空、頑丘はそれを見上げて困惑したようにした。 「本当に雨がなかったな……」 「珍しいの?」 「もともと黄海《こうかい》はさほど雨は多くないが、ここまで降らないのも珍しい。ここで水を汲《く》めて儲《もう》けたな」 「ふうん」  松の枝越しに遠く見えるのは鋭利な稜線《りょうせん》を見せる丘。とりあえずそこまでは分かるものの。 「ねえ、頑丘《がんきゅう》は道に戻れる?」  手綱《たづな》を持って珠晶《しゅしょう》が言うと、駮《はく》に鞍《くら》を置きながら頑丘は呆《あき》れたようにする。 「道が分かれば、水の心配なんかするものか」 「……道、分からないの?」 「逃げまどって来たんだぞ。……まあ、里《まち》があそこだから、だいたいの位置が分からないわけじゃないが、俺は剛氏《ごうし》じゃないからな」  珠晶は手綱を噛《か》む。 「真君《しんくん》を脅《おど》しても、送ってもらったほうが良かったかしら……」 「たいがい不遜《ふそん》な奴だな、お前は」 「頑丘ほどじゃないわ。ねえ、利広《りこう》と剛氏たちに会えると思う?」 「さあな。──でもまあ、なんとかなるだろう」  言って頑丘《がんきゅう》はもらった布を丁寧《ていねい》にたたんだ。これが必要になるまでには、もう少し距離がある。 「天神《てんじん》に出会う運の良さがあれば、剛氏《ごうし》程度はなんでもない」 「そうよねえ。あたしって本当に強運の持ち主だから。おかげで頑丘も助かったでしょ?」  珠晶《しゅしょう》は荷を結びながら笑う。一足先に頑丘が鞍《くら》の上によじ登って、手を伸べた。 「まあ、ここまで来れば、何があってもお前は蓬山《ほうざん》に着いてしまうさ。そこから先のことを考えておいたほうがいいぞ」 「王さまがだめだったら、黄朱《こうしゅ》になるのよ。頑丘、徒弟《でし》を取る気はない?」  頑丘は苦笑する。 「親がいるだろうが、お前は」 「いるだけはね」 「……好きでないのか」  沢を下りながら、頑丘は問う。 「嫌いじゃないわ。でも、尊敬はできないの。窓に格子《こうし》を入れて、杖身《じょうしん》を集めて、それで満足していた人で、昇山《しょうざん》しないのかと訊《き》いたら、一介《いっかい》の商人なんだ、と笑ったわ」 「立派な商人なんじゃないのか」 「商いだけは大きいわよ。連檣《れんしょう》の官吏《かんり》にたくさんの賄《まいない》を渡して、荒廃《こうはい》に乗じて手広く商売をしてるんだもの。浮民《ふみん》を集めて家生《かせい》にして、家生の只《ただ》同然の手を使って、困窮《こんきゅう》した人から穀物を買い叩《たた》いて仕入れて、でもって飢饉《ききん》に喘《あえ》ぐ里《まち》に高く売るわけ。……あたし、そういう人は好きじゃない」 「そうか……」 「ずっと一緒だったから、一緒にいるのが当たり前だったし、他の人より恵まれた暮らしをさせてくれた恩を感じないわけじゃないけど。でも、十八になって給田《きゅうでん》を受けたら、家を出るわ。兄さまたちは農地を売ってお父さまの商売を手伝っていたけど、あたしはそんなの、御免だもの」  低く言って、珠晶《しゅしょう》は頑丘《がんきゅう》を振り仰ぐ。 「頑丘の徒弟《でし》になるんだったら、十八まで待たなくていいわよね」 「徒弟になるには、今でもでかすぎるくらいだな。──それより王になったときのことを考えていたほうが良くはないか?」 「王になったら、ねえ……」  つぶやいて珠晶は頑丘を振り仰ぐ。 「こういうのはどう? だめだったら、頑丘《がんきゅう》はあたしを徒弟《でし》にするの。うまくいったら、頑丘はあたしの臣下になる」  頑丘は苦笑した。 「──俺がか」 「そう。──連檣《れんしょう》でね、人が死ぬのよ、妖魔《ようま》に襲われて。乾《けん》を見て、当たり前だと思ったわ。連檣は妖魔に対する備えが何もないんだもの。国中が乾ぐらい備えをして、人が黄朱《こうしゅ》の半分でも妖魔から身を守る方法を知っていたら、ずっと被害は少なくてすむの」  頑丘は笑った。 「お前、そんな心配をしてどうする。王が登極《とうきょく》すれば、妖魔は出なくなるんだ」 「それよ。そう言って、これまで誰も、荒廃《こうはい》に備えておかなかったのが敗因だと思うわ。王さまがいる間は、いいじゃない。とりあえずみんながんばって稼《かせ》ぐだけよ。本当に考えて備えておかないといけないのは、王が斃《たお》れて以後のことなのよね」  なるほど、と頑丘は苦笑する。 「あたしが王になっちゃったら、当面、剛氏《ごうし》は失業よ。みんな朱氏《しゅし》になっちゃうから、朱氏が余って、きっと騎獣《きじゅう》は値崩《ねくず》れするわね。だったら官吏《かんり》になっておくと、お得よ?」 「官吏という柄じゃない」 「じゃあ、また剛氏《ごうし》として雇《やと》うわ。傾いちゃった国府なんて、きっと妖魔《ようま》よりも質《たち》の悪い人妖《にんよう》の跋扈《ばっこ》する場所よ。警護をしてくれて、そして時々、黄海《こうかい》に来て、あたしのために騎獣《きじゅう》を狩ってきてくれるの。騎獣を狩るのだって、昇仙《しょうせん》してれば、とっても楽になるわ。少なくとも蹴爪《けづめ》に抉《えぐ》られた程度の怪我《けが》じゃ、あんなひどい目に遭わずにすむわよ」 「まあ、考えておこう」  子供なんだが、大人《おとな》なんだか、と頑丘《がんきゅう》は胸の中で笑った。荒廃に憤《いきどお》って昇山《しょうざん》を考えるあたりは途方もなく子供だが、それを本当にやってのけるあたりが一筋縄《ひとすじなわ》でいかない。  そうだわ、と珠晶《しゅしょう》はつぶやく。 「まず、乾県《けんけん》で狩りをする、悪質な朱氏《しゅし》をとっちめてやらなきゃ」  頑丘は声をあげて笑った。  おおい、と呼ぶ声がしたのは、その時だった。声のしたほうを見上げると、間近の丘の斜面に駆け下りてくる騎獣の姿が見えた。明らかに|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》だ。 「すごいわ。星彩《せいさい》よ。利広《りこう》ってば、ちゃんと迎えにきてくれたのね」 「人妖に出会った場所からずいぶん離れたのに、よくここが分かったもんだ」 「本当にねえ。匂いでもしたのかしら」  珠晶《しゅしょう》は笑い、手を挙げる。※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞は残りの斜面を一足飛《いっそくと》びに飛翔して、駮《はく》の間近に降り立った。 「もちこたえたようだね」  利広《りこう》は笑う。珠晶《しゅしょう》は軽く胸を張った。 「そりゃあ、あたしがいるんですもの。──そういう利広も無事だったのね。ちゃんと剛氏《ごうし》に会えた?」 「珠晶はいなかったけどね」 「それはとっても運が良かったと思うわ」  声をあげて笑って、利広は鞍《くら》からすべり降りる。軽く※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞の首を叩《たた》いた。星彩はそれを受けて、高く飛翔する。丘の上に降り立ち、丘のこちらと向こうを見比べるようにした。 「剛氏《ごうし》? 向こうまで来てるの?」  珠晶が問うと、うん、と利広が笑う。 「よくここがわかったわね。匂いでもしたのかしら、って言ってたの」  ああ、と利広は破顔する。 「匂い、──そうだね。匂いがしたんだよ。大騒ぎだったけど、だから造作《ぞうさ》もなかった」  珠晶は首をかしげ、騎乗したまま背後の頑丘《がんきゅう》を見る。頑丘も首をかしげた。  利広はそれ以上言わず、手を差し出す。珠晶は釈然としないまま、何気なくその手に掴《つか》まって駮《はく》を降りた。利広《りこう》は頑丘《がんきゅう》を促《うなが》す。 「どうだい、傷は?」 「珠晶《しゅしょう》の強運のおかげで上々だ。──どうした、何かあったのか」  利広はくつくつと笑う。 「だから、大騒ぎがね」  言って利広は、駮の首を労《ねぎら》うように叩《たた》く。 「お前も無事だな」 「それなんだが」  頑丘が言って、利広は振り返った。 「やっぱり俺には駮《はく》のほうが性に合うらしい。※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞は戻して構わないか」 「それは私は構わないけれど。頑丘は欲がないな」  珠晶は笑いを噛《か》み殺した。 「そうでもないかもよ。その駮は特別なんだもの」  うん、と先を促した利広に、頑丘は訊くな、と制する。 「とってもすごい名前をもらったんだもの、朱氏《しゅし》の頑丘が手放すはずがないわ」 「へえ?」  だから、と言いかけたとき、丘の上で星彩《せいさい》が見事に長い尾を振った。 「……来たな」  利広《りこう》はそれを見上げて目を細める。丘の向こうには砂塵《さじん》が見えた。すぐに稜線《りょうせん》を越えたのは鹿蜀《ろくしょく》の影だ。それに続いて騎獣《きじゅう》の群れが姿を現した。  星彩を従え、軽々と急な斜面を駆け下りてくる一団を見て、珠晶はぽかんとした。  頑丘《がんきゅう》もまた、その一団を驚いて見上げる。色鮮やかな人の群れ、と思えるのは、剛氏《ごうし》の飾り気のない衣服に混じって、様々な色合いの嬬裙《きもの》を着た女がひしめいているからだ。  駆け下りてくる乗騎はおよそ三十騎、中でも異質なのは妖魔《ようま》──騎獣ではない、明らかに妖魔《ようま》だ──に跨《またが》った見覚えのない男の姿。その、金の髪。蒼天《そうてん》に光を弾《はじ》いて、銅《あかがね》の色に翻《ひるがえ》る。  頑丘はもちろん、珠晶《しゅしょう》もしばらく声が出なかった。 「頑丘、あれ……」 「……おそらくな」  珠晶は利広に向き直る。 「どうして、麒麟《きりん》が来るのよ……!?」 「理由はひとつしかないと思わないかい?」 「ひとつ、って」  頑丘《がんきゅう》はその一団を見上げ、軽く苦笑した。 「……迎えにきたんだろう、やはり」 「迎えって、何で?」 「何でもなにも」 「だって、誰を?」  くすくすと利広《りこう》は笑った。 「私は奏《そう》の生まれだからね、言っておくけど。頑丘は──」 「俺は柳《りゅう》の生まれだ。ちなみに駮《はく》はおそらく黄海《こうかい》の生まれだと思うぞ」  でも、とつぶやいた珠晶《しゅしょう》の肩を、利広は叩《たた》く。 「あいにくここに、恭《きょう》で生まれた者は一人しかいない」  そんな、とつぶやいて、珠晶は縋《すが》るように頑丘を見た。 「あたし、……どうしよう」  呆然《ぼうぜん》としたふうの子供の背中を、頑丘は叩く。 「天神《てんじん》、麒麟《きりん》まで巻きこんでおいて、今さら何を言う」  ──一国を巻きこめる運の強さ。  なるほど、こういうことなのか。 「──行け」  珠晶《しゅしょう》は頑丘《がんきゅう》に押されて二歩ほど歩き、困惑して背後を振り返った。駮《はく》にもたれて立つ頑丘が指の先で、利広《りこう》が笑んで、行け、と促《うなが》す。それでうなずき歩いて、丘を下りてくる一行を迎えた。  立ちすくんだままの珠晶の前で、たどりついた者から鞍《くら》を降りる。降りた者からその場に膝《ひざ》をついた。そこに麒麟《きりん》がいれば、膝をつくというのは分かるのだが、どうして女仙も剛氏たちも、自分の方に向いて頭を下げているのだろう?  その場に降り立った全員が膝をついて、そして残ったのは、銅《どう》の金の髪をして、いかにもお人好しそうな顔をした男だけになった。  彼は少しの間、珠晶を見つめる。すぐに目を細め、ふわりと笑った。喜色を浮かべて彼もまた乗騎を降りる。がっしりとした重そうな身体《からだ》をしているくせに、その動作は体重を感じさせず、しかもまったく音を立てなかった。 「あの……」  途方に暮れて声をあげた珠晶《しゅしょう》の前に、彼は進んでくる。今一度笑って、そうしてやはり膝《ひざ》を折った。 「お迎えに参じました……」  声は意外にも、どこか気弱そうな響きをしている。 「……あの……あたしを?」 「はい」  笑って珠晶を見上げてくる男は、無上の僥倖《ぎょうこう》に巡《めぐ》り会ったかのような表情をしている。 「……本当に?」  彼は笑んでうなずく。 「蓬山《ほうざん》から王気が見えましたから」  珠晶はまじまじとその顔を見つめた。  連檣《れんしょう》は冬だった。恵花《けいか》の媼袍《わたいれ》を失敬し、孟極《もうきょく》に乗って家を出た。恭《きょう》を渡り、黄海《こうかい》に入り、旅をしてきた。──その、振り返れば遠大な距離。  一瞬のうちに脳裏によみがえって、思わず珠晶は手を振り上げた。  驚愕《きょうがく》したのは取り巻いた一同、耳にいたそうな音を拾《ひろ》って、一様に身を縮《ちち》める。 「──だったら、あたしが生まれたときに、どうして来ないの、大馬鹿者っ!」  その麒麟《きりん》は、あっけに取られたように珠晶《しゅしょう》を見上げた。  少女は幼い線の頬《ほお》を紅潮させ、肩で息をしている。  ふと笑みがこぼれた。  そうして彼は、心から笑んで、深くその場に叩頭《こうとう》する。 [#改ページ] 終 章  黄海《こうかい》上空に、ごく小さく黒く一点が現れた。  それははるかな高所、雲海《うんかい》の上を滑空《かっくう》する。まっすぐに黄海を南に過《よぎ》り、金剛山《こんごうざん》を跨《また》ぎ越し、やがて黄海南方、赤海《せっかい》の上空へと出た。  明るい調子の青い海を渡り、黒点は一路、南を目指す。一昼夜をかけて大陸南部、奏国《そうこく》へ入ると、さらに南下して首都・隆洽《りゅうこう》へと消えていった。  奏国主と、隆洽山、その山頂に蛇行して延びるのは清漢宮《せいかんきゅう》、これが各国に名高い宗王《そうおう》の居宮《きょぐう》だった。それは山頂と言うよりも、水上の楼閣《ろうかく》、白い石の諸殿は水上に張り出し、同じく白い石の橋で回廊《かいろう》で繋《つな》ぎ渡され、園林《ていえん》もまた水の上、そうしてひとつの王宮を形成する。  その最奥、王の居宮の表《おもて》にあたる燕寝《えんしん》の、広い庭院《なかにわ》もまた一面の凪《な》いだ水面、そこに天上の銀河が映《うつ》っていた。  女官《にょかん》は粛々《しゅくしゅく》と庭院《なかにわ》を巡《めぐ》る回廊《かいろう》へと現れ、そこに立つ女に跪《ひざまず》いて一礼をする。 「台輔《たいほ》、こちらにおいででございましたか」  女は銀を帯びた金の髪、それが振り返って柔らかく笑む。女官はその笑みを受けて、さらに深く叩頭《こうとう》する。 「──主上《しゅじょう》がお戻りでございます」  そう、と玲瓏《れいろう》とした声で彼女はつぶやく。女官を労《ねぎら》い、その建物──仁重殿《じんじゅうでん》へと入っていった。  彼女は呼称を宗麟《そうりん》と号《ごう》する。この奏国《そうこく》の王に現・宗王《そうおう》を据《す》え、長大な王朝の礎《いしずえ》になった。船を、と言う下官の声を断り、彼女は仁重殿を王の居宮《きょぐう》の奥に当たる六朝《ろくちょう》の側《がわ》へと抜けていく。  広い仁重殿を抜けてしまえば、六朝の主殿《しゅでん》までは、わずかの距離、一礼して堂室《へや》に入ると、いましも主が下官の介添えで礼服を改めるところだった。 「主上、お戻りなさいませ」 「おお──昭彰《しょうしょう》」  振り返って破顔した男は五十がらみ、いかにも恰幅《かっぷく》の良い大きな男だった。これがこの奏国《そうこく》の主、宗麟《そうりん》に昭彰《しょうしょう》と字《あざな》を下した希代《きたい》の王。──いや希代の王の、その要《かなめ》。 「交州《こうしゅう》はいかがでございましたか?」  彼女が軽く会釈《えしゃく》をすると、彼は福々しく破顔する。 「港は見事になっておったよ」  そう言って、さらに奥の建物へと歩き始めた男に、彼女はついていった。  王は主殿に、麒麟《きりん》は仁重殿《じんじゅうでん》にと、住まう場所が本来は決まっているけれども、奏国ではそれが守られた例《ためし》がない。王も麒麟ももっぱら主殿に、いかなる官吏《かんり》も立ち入れず、王自らが選んだ近従と王の近親者だけが起居している。 「雁国《えんこく》から技師を呼んで、造っただけのことはある。あの船溜《ふなだ》まりの見事なことは、昭彰にも見せてやりたかった」 「それはよろしゅうございましたね」  うん、と王はどこか自慢そうだった。その名を櫨先新《ろせんしん》という。  昭彰は交州の、件《くだん》の港町で先新を見つけた。彼はそこで大きな舎館《やどや》を営んでいて、宗麟の来訪に腰を抜かした。──それももう、恐ろしく昔の話になってしまった。  すでに先触れがあったのだろう、典章殿にはいると、杖身《じょうしん》──先新が国庫とは無関係に雇《やと》っている護衛だから杖身《じょうしん》としか呼びようがない──が気安げに一礼して門を開けた。  先新《せんしん》は懐《なつ》かしい港町の変貌《へんぼう》を昭彰《しょうしょう》に語りながら、典章殿《てんしょうでん》の回廊《かいろう》を抜けて正殿に向かう。正殿の扉を開けると、大卓《つくえ》を囲んで、三人の人間が待っていた。先新を見るなり、一様に立ち上がり、拱手《えしゃく》する。号で呼ぶなら、宗后妃《そうこうひ》、英清君《えいせいくん》、文公主《ぶんこうしゅ》と称する。 「お戻りなさいませ」  威儀を正した声は三人分、中でも恭《うやうや》しく一礼した文公主は真っ先に顔を上げて笑みを見せた。 「主上《しゅじょう》、交州《こうしゅう》はいかがでございましたか?」  うん、とうなずき、先新は椅子《いす》に腰を下ろす。 「立派になっていたよ。──一、二、三、昭彰で四、一人足らんな。うちの放蕩息子《ほうとうむすこ》は戻ってないのか?」  先新は自らの后妃を見る。彼女はそれに深く溜《た》め息《いき》をついて答えた。 「帰るどころか、音沙汰もありゃしません」  先新は妻と同じく溜め息を落とした。 「……年の半分は行方《ゆくえ》の分からん奴だな、あれは」 「それを分かっていて、足を与える甘い父親がいますしね」 「兄さまにあんな騎獣《きじゅう》をあげたら、帰ってこないに決まってるじゃない」  長男、末娘に左右から責められて、先新《せんしん》はうなった。昭彰《しょうしょう》は笑む。 「主上《しゅじょう》に分がございません。ですから、おやめなさいまし、と申し上げましたのに」 「そうだったかな……」  天上を見上げた先進の前に手を突き出したのは文公主《ぶんこうしゅ》──文姫《ぶんき》である。 「それより父さま、お土産《みやげ》は?」  おお、とつぶやいて、先新は懐《ふところ》から包みを引き出す。他愛もない土産物を広げる彼らを、昭彰は微笑《ほほえ》んで見つめた。  各国に名高い奏国宗王《そうこくそうおう》、登極《とうきょく》して五百年の大王朝を築いた。宗王と言えば、北東の大国|雁《えん》の延王《えんおう》と並び称される希代《きたい》の名君、──だが、その「宗王」が実は一人の人間ではない、と知っている者は少ない。いや、奏国の麒麟《きりん》たる昭彰が選んだのはまぎれもなく先新ひとり、だが、その治世は、先新ひとりで築いたものでは決してなかった。  昭彰が王を捜して先新を訪ねたとき、先新は荒れ果てた港町の舎館《やどや》の亭主だった。街でも著名のその舎館を切り盛りしていたのは先新とその妻、明嬉《めいき》、そして三人の子供たちだった。先新は一家の柱、鷹揚《おうよう》で明晰《めいせき》な男だが、決して独断専行はしない。何事にも明嬉と三人の子供に諮《はか》り、彼らの意見を尊重する。舎館は半ば、明嬉と三人の子供の合議で動いていて、先新《せんしん》はそれをとりまとめるのがつとめ、その態勢は宗王《そうおう》登極《とうきょく》の後にも貫かれている。──変わったことといえば、そこに昭彰《しょうしょう》が加わるようになったことぐらいだ。  明嬉《めいき》と三人の子供には確たる官位がない。正妃として、太子として公主として立てた後は、特に朝廷に参画することなく、後宮《こうきゅう》で静かに暮らしていると思われているが、実質、宗王の権は彼ら四人が等しく掌握している。  ──三人半、と言うべきだろうか。  昭彰は思って、密《ひそ》かに笑む。舎館《やどや》にいるときから、家を手伝う傍《かたわ》ら、気が向くと出稼ぎと称して船に乗り組んで出かけてしまっていた次男は、立太子の後も、放浪癖がやまない。だが、そのおかげで奏国《そうこく》は他の十一国の実状を正確に把握している。  そんなことを思っていたところだったので、露台の窓が開いて、そこから顔を出した人影を見て、昭彰は軽く笑った。 「──あれ、みんな揃《そろ》っているなあ」  暢気《のんき》そうな声をあげて入ってきた息子に、明嬉は深く溜《た》め息《いき》をつく。 「……お前って子は、どうしてそこが出入り口じゃないということが、何度言って聞かせても分からないんだろうね」 「いや、近かったもんで」  笑った彼を卓朗君《たくろうくん》と号する。 「お父さんに、お帰りなさいとお言い。ついさっき、交州《こうしゅう》から戻ったところなんだからね」 「あれ、出かけてたんだ」 「そうとも、二月もね。それよりさらに二月も前に出かけたお前が、その父さんより戻りが遅いとはどういうことだえ」 「それはそれは、お帰りなさいませ」 「まったく四月も経《た》って、やっと家を思い出したかい。いったいどこまでお行きだえ」 「ああ、ええと──蓬山《ほうざん》まで」 「ずるーい!」  声をあげたのは文姫《ぶんき》である。 「ずるい、ずるいわ! あたしだって蓬山は行ったことがないのにっ」 「いや、私も行くつもりがあって行ったわけじゃなかったんだけどね」  明嬉《めいき》は目を丸くする。 「蓬山って、お前。そんな、玄君《げんくん》のお招《まね》きもなしに」 「うん。そうなんだけど。ちゃんと表口からお訪ねしたので、玄君もお気は悪くなさらなかったようだったよ。帰りには、快く裏口から出してくださったしね」 「裏口って」  明嬉《めいき》の声に、彼は窓の外を指す。 「雲海の上。蓬山《ほうざん》から一気に戻ってきたんだけど、結構、遠いな。たったの二日ほどとはいえ、陸地がないと辛《つら》いね、意外に」  文姫《ぶんき》は口を開ける。 「ということは、表口って……雲海の下? まさか黄海《こうかい》を渡って蓬山に行ったの!?」  うん、とうなずいて彼は笑う。 「──昇山《しょうざん》のお供《とも》をして、供王登極《きょうおうとうきょく》に立ち会ってきた」  言って彼は、父親の前に拱手《えしゃく》する。 「供王は蓬山で天勅《てんちょく》を受けるべく吉日を待っておいでです。じきに供王即位を鳳《ほう》が鳴くでしょう。その前に主上《しゅじょう》にお知らせをと思って、一足先に蓬山を失礼してきました」  先新《せんしん》は息子を見上げた。 「供王はどんな方だね?」  卓朗君《たくろうくん》──利広《りこう》は笑う。 「それがもう、いかにも文姫と気の合いそうなお嬢さんで」 「──女王か」 「御歳《おんとし》十二におなりです」  十二、とこれはこの場の全員が目を見開いた。 「……それは驚いた」 「供王《きょうおう》登極《とうきょく》は苦難を極《きわ》めるでしょう。主が十二で、朝廷が落ち着くはずがない」 「だろうな」 「そこで、主上《しゅじょう》の親書を戴《いただ》きたいのです。ぜひとも即位に際して慶賀の使節をお送りください」 「お前はわしに、供王の後《うし》ろ盾《だて》につけというわけだな」 「そのくらいはなきゃ、珠晶《しゅしょう》があまりにも大変でしょう」 「珠晶、と言うのか。十二の娘が、昇山《しょうざん》したのかね」  したんだ、と利広《りこう》は笑って、椅子《いす》のひとつに腰を下ろす。 「なかなかあっぱれなお嬢さんだよ。為人《ひととなり》は保証する。朝廷の最初の波乱さえ乗り切れば、あの子は良い王になると思うよ」  明嬉《めいき》は湯呑みを息子《むすこ》の前に置いた。 「お前、まさかお嬢さんをそそのかして蓬山《ほうざん》に連れていったんじゃあないだろうね」 「まさか」  利広《りこう》は声をあげて笑う。 「私程度がそそのかせるようなお嬢さんじゃないよ。恭《きょう》で会ったんだ。昇山《しょうざん》の途中だった。恭で著名の万賈相家《ばんこそうけ》の娘さんでね、家を飛び出して昇山するというので、蓬山《ほうざん》までついて行ったんだ」 「お前って子は、ほっとくとどこに行って何をするやら分かったものじゃないね」 「天の配剤、と言うんだよ」  利広は笑む。 「十二の子供が蓬山を目指す。その子が廬家《ろけ》の次男坊に会う。放蕩息子《ほうとうむすこ》は少なくとも、珠晶《しゅしょう》が登極《とうきょく》するときの後《うし》ろ盾《だて》を用意できる。……私がどうこうしたんじゃないと思うな。あれは私のほうが供王《きょうおう》の運気に巻きこまれたんだ」  すごいわねえ、と文姫《ぶんき》がしみじみ声をあげた。 「十二で黄海《こうかい》へ。あたし、十八だけど、とてもじゃないけどできないわ」  利広は笑う。 「お前、いまちゃっかり五百ほど歳《とし》を割り引かなかったか?」  文姫は舌を出して、卓越しに父親のほうへ身を乗り出す。 「あたし、慶賀の使節になるわ。お願い、行かせて」  溜《た》め息《いき》をついたのは英清君《えいせいくん》──利達《りたつ》である。 「それで利広《りこう》、お前は身分を明かしてきたのか」 「やはりここは驚かせなくちゃ、と思って」 「じゃあ、お前が行かないと意味がないじゃないか」 「そうなんだ。──ですから、主上《しゅじよう》、ぜひに慶賀の使節にお命じください」  ずるいわ、と不服を唱《とな》える文姫《ぶんき》を、利達は制する。 「ここは仕方がない。利広を使者に立てよう。祝賀の供物《くつも》を考えなきゃな。──父上、それでよろしいですか」  うなずいたのは、先新《せんしん》ではなく、明嬉《めいき》である。 「仕方ないからそうおし。采配《さいはい》は利達がおしよ。利広に任せてたんじゃ、何をやらかすやら分からないから」 「かしこまりました」 「国の見栄を気にするなら、昭彰《しょうしょう》に行ってもらうのが一番いいんだろうけど、即位直後の国じゃあねえ。昭彰は身体《からだ》が弱いから」 「お母さん、麒麟《きりん》だから、と言うんですよ、そういう時は。──ああ、供物の中に星彩《せいさい》を入れてもよろしいですか」  利広《りこう》は目を見開く。 「兄さん」  明嬉《めいき》はうなずく。 「ぜひともそうおし。利広に持たせておいたって、ろくなことがない」 「……まいったな」  利広は苦笑する。 「せっかく懐《なつ》いたのに」  次男のつぶやきに、長男はつれない。 「恨《うら》むんなら、自分を恨め。風来坊。黄海《こうかい》で何かあったら、どうするつもりだったんだ」 「気をつけたんだけどな、それなりに」 「お前の気をつけたがあてになるか。──供王《きょうおう》は何がお好みだ?」 「騎獣《きじゅう》。まあ、……星彩《せいさい》なら、珠晶《しゅしょう》も不満はないだろうけど」 「じゃあ、ひとつはそれできまりだな」 「はいはい……」  寂しく息をつくと、父親と目線があった。 「どうも、わしのやったものが徒《あだ》になったようだな」  利広《りこう》は笑む。 「いいけどね。珠晶《しゅしょう》なら星彩《せいさい》を大事にしてくれるだろうから。──でも、良かったな、※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞はやっぱり」 「それは次の※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞をねだっておるのかな?」 「そこはひとつ、主上《しゅじょう》のご威光で」 「まあ、今後の働きによって考えておこう」 「そう来るか……」  利広は苦笑して、北の窓に目をやる。  ごく微《かす》かにひとりごちた。 「……黄朱《こうしゅ》に知り合いもできたことだし……」  黄海《こうかい》の事情も分かったから、自分で捕らえに行くのも、悪くない。  その五日後、奏国《そうこく》の鳳《ほう》が鳴いた。  ──恭国《きょうこく》に一声。  供王《きょうおう》、即位。 [#改ページ]  普白《ふはく》十一年、上《しょう》、燕寝《えんしん》に崩《ほう》ず。同じく十一年、蓬山《ほうざん》に供果《きょうか》有り。  十二年、蓬山に供果|孵《かえ》り供麒《きょうき》を号す。  十八年、祠祠《しし》に黄旗《こうき》、三十八年、春、蔡晶《さいしょう》、乾《けん》より黄海《こうかい》に入《い》る。台輔之《たいほこれ》を迎えて約《やく》し、蔡晶、神籍《しんせき》に入りて供王《きょうおう》を践祚《せんそ》す。 [#地付き]『恭史相書』 [#改ページ]   あとがき  桜には花の濃い年、薄い年があって、どうやら当たり年があるようですが、人間の人生にも良くも悪くも当たり年があるようで、わたしの場合、一昨年は良いほうの当たり年、昨年は悪い方の当たり年だったようです。  前回出した本のあとがきで、「手を壊した」と書いたら、読者の方々からたくさんのお見舞いをいただきました。ありがとうございました。指先に湿疹《しっしん》ができて割れるという、謎《なぞ》の(医者に匙《さじ》を投げられたので、こう書いても嘘《うそ》ではあるまい)皮膚病を患《わずら》い、なんとかそれとの折り合いを見つけたと思ったら(べつに治ったわけではない)、今度は体調を崩《くず》して、結局医者と縁の切れない一年になってしまいました。いや、人間、身体《からだ》が資本だと、しみじみ感じ入る今日このごろです。  読者の方々には、たくさんのご心配をいただきましたが、何とか最近は元気になりましたので、どうぞお気|遣《づか》いなく。健康グッズや入浴剤などを、たくさんいただきました。この場を借りて心からお礼申し上げます。  というわけで、長く間があきましたが、やっと新刊をお届けできます。えーと、今回も番外編……なんですけど……何だってこんなに厚みが……。  一番、治療が必要なのは、近年来のこの長編病かもしれません。  なにはともあれ、楽しんでいただければ、幸いです。  また(今度は、早いうちに)、お目にかかれますように。 [#地付き]小野不由美 拝 [#改ページ] ------------------------------------------------------- 【このテキストについて】 底本:「十二国記 図南の翼」講談社X文庫WhiteHeart 1996年2月5日 初版第1刷発行 テキスト化:2005年06月初版 -------------------------------------------------------